このまま 一人ぼっちで 誰にも看取られずに
アパートの部屋の中で 孤独に 死んでいくよりも、
わずかな可能性に かけた方が良い…。
覚悟を決めた 僕は 日本中から
名医の集まる 東京で、治療法を探すためと
良い出会いを求めて、神奈川県 横浜市に
12月20日に 引っ越してきました。
横浜市を選択したのは 都内だと 家賃が高いからと
15歳の頃の 東京暮らしの経験もあり、
あまりにも ごちゃごちゃした、自然も少ない
大都会ではなく、海が近くて、緑も 多い場所に
住みたかったからでした。
僕なりに 色々と考えて 選んでみたのは
横浜駅の近くの 戸塚区でした。
戸塚駅は 電車の路線が 4本も 走っていて、
横浜駅まで まっすぐ 10分足らずで着き、
川崎市も 20分で行けます。品川駅までは 東海道線で
そのまま 真っ直ぐ 30分で、移動可能でした。
海岸沿いを 気分転換に 散歩したければ
横須賀線に乗って 10分足らずで、
鎌倉市、逗子海岸にも 出かける事ができます。
横須賀市も 20分ほどです。
湘南の 藤沢市、サザンオールスターズで
有名な 茅ケ崎市、平塚市なども
20分以内の距離で 遊びに行けます。
交通の便利さで ここがいい、と決めたのでした。
戸塚駅から 僕の暮らす アパートまでの
道のりは 迷路のような 細く 曲がりくねった
坂道だらけで、最初の頃は 迷子になったりと 大変でした。
近所に 大きなデパートは ありますが、
重い買い物袋を 持って、急な坂道を 上っていくのは
腕力も スタミナもない、今の僕には
なかなか 厳しいものでした。
荷物が 部屋に届いて 間もなく、駅周辺の
繫華街を 散歩していると、聴きなれた
クリスマスソングが そこら中から 流れてきました。
雪の降らない クリスマスを迎えるのは、
気が付いたら もう 2回目に なっていました。
雪が降らないクリスマスは なんだか 胸に、
ぽっかりと 穴が開いたような 淋しい気持ちになりました。
あれだけ 北国の冬を嫌っていたのに…。
雪の降る 東北地方から 上京してきた若者達は
みんな 同じ様な想いを、感じるのではないでしょうか。
帰りたくないのに、なぜだか 故郷が恋しくなってしまう…。
今年のクリスマスも アパートの狭い部屋で
映画を観ながら 一人淋しく 過ごして、
元旦になると 周辺の街は
どこも 人で溢れて 大変かな、と思い
少し離れた 平塚市の海岸に 行ってみました。
平塚市まで 行くと 道路は平坦で 坂道はなく、
緑が いっぱいの中央公園や
のどかな住宅街が広がり、落ち着いて 過ごせそうでした。
海岸まで 歩いてみると、一月一日にも 関わらず
海で サーフィンに 夢中になっている、地元の人たちで
溢れかえっていたので、ここは 本当に 同じ日本なのか、と
カルチャーショックを 受けたものでした。
何もかも 冬の季節に 閉ざされた、北海道とは違い
自由と開放感に 包まれた空気が流れる、
新しい土地での生活に 希望を抱いていました…。
荷物が片付くと すぐに 東京都内で
5回目から 手術を受けていた、品川の
形成外科医よりも、もっと 腕がいいと
評判の医師達を、10人ほど 探し当てる事ができました。
さっそく 予約を取って 相談に行き、
これまでの事情を なるべく 省略して、
短い時間で 簡潔に 説明すると 10人とも、
とても親切に 患者の気持ちを
最優先に考えながら 診察をしてくれました。
10人とも 同じような返答が返って来て、
まず 最初に 言われたのは
「手術で 目の形を 大きくしたり、皮膚の痛みを
取る事は おそらく可能です。」との 返答でした。
「これまで 11回も、両方のまぶたを
メスで切っているが、1回目の 執刀の時から
わずか6mmほどの 小切開法の手術方法を
選んでおり、必要最小限の 傷跡しかないので
再手術を受けても ダメージは 考えているよりも
少ないから 大丈夫だよ、」 との事でした。
淡い期待を 抱いたのも 束の間で
「ただ、前回の 品川の形成外科医が、
どのような 修正手術を 行ったのか、
いくら カルテを診ても さっぱり 分からない…」
と 言われました。
どうやら 僕にも ほとんど説明もなく、
品川の医師の、勝手な判断で 他の医者達が
見た事のない、特殊な手術方法を してしまったそうでした。
どの医者に聞いても カルテを診て 首を傾げてしまい、
「前回までの 手術した部分を修正して 癒着を剥がさないと
再手術ができないよ。」 との回答でした。
品川の医師に 連絡しても、
「もう 2度と 修正できない様な方法で
手術しちゃったから、後の事は知らない、」 と
あまりにも 適当な返事が 返ってくるだけでした。
何度も 問い合わせても 埒が明かず、
僕一人の力では どうしていいのか
答えは 何も出なくて こんな時に、身近で
頼れる人が いてくれたら…と 考えてしまうのでした。
2月になると コロナウイルスが日本全国に
広まり始めて、外出する事ですら 難しくなってきました。
せっかく これから 新しい新生活が、
スタートできると思っていたのに
思わぬ形で 出鼻を 挫かれたのでした。
戸塚駅周辺には 自然や、のどかな公園など 緑が少なくて
図書館も小さく、ゲオや ツタヤもありませんでした。
中古の本が売っている ブックオフも 何もなくて、
気を紛らわせるものが ないので、
日に日に 苛立ちと ストレスが溜まっていくだけでした。
アパートの部屋の窓は 極端に 薄っぺらくて
外を歩いてる人達の ささやき声や 足音さえも
はっきり 聴こえてくるので 部屋の中でも リラックスできません。
駅の近くに 救急病院があるので、真夜中でも
ひっきりなしに 救急車が サイレンを鳴らしながら
アパート前の道路を 走り続けて、
更に 寝不足に なってしまいました。
近所のデパートも 駅前の繁華街も
4本も 路線があるせいか、平日も
朝っぱらから 人込みで 溢れかえっており
ゆっくり くつろげる場所が 見つかりませんでした。
数ヶ月が経ち、コロナの話題も 落ち着いてきたので
人と出会える 居場所を求めて
一歩ずつ 行動を 初めてみました。
ネットで 若者の通える居場所を 検索してみて、
すぐに 目に着いたのは 横浜市内に
4か所ある、ユースプラザという居場所でした。
学校に通えない子供や 上手く 社会に
適応できない青年たちを 受け入れてくれる、
横浜市が設置し、NPOが運営している施設です。
まずは 一番近い距離にある ユースプラザに、
相談に 訪れたのですが、これまでの状況を
丁寧に お話して、自分の気持ちを
伝えた後日、電話で 言われた返答は
「病気や障害がある人間は 何か問題が起きたら、
面倒を見切れないから 他所に行って欲しい、」
との 冷たい対応でした。
「僕は 今まで、両親も 早くに亡くなり、
看病してくれる人も いなくて、ずっと 一人ぼっちで
頑張って生きてきたんです、」 と いくら訴えても
「とにかく 面倒事は困るから、
ここでは来られたら 何もできません、」 と
電話を 切られました。
恵まれた子供たちは、何の苦労もせず
毎日 ただ 学校に通って
遊んでいるだけで、親に 食事を作ってもらい
掃除や洗濯も 面倒みてもらってるじゃないか…
どうして 僕はどれだけ闘っても、
努力しても 存在を 否定されてしまうんだ…。
となり駅にある、市民活動センターに 紹介された、
教育団体の代表の方にも お会いしました。
とても 子供の教育について 熱心な活動をされていて
僕の 個人的な闘病生活も 親切に聞いてくれました。
「12歳から 勉強をした事も ほとんどないので
普通の子供達と 同じように 教育を受けてみたい、」
と 正直に伝えると
他のスタッフたちも 僕を紹介してくれて
「できるだけ、これから 君の事を サポートしていくからね。」
と 言ってくれた時は、ようやく
少しだけ 光が見えてきた気がしていました。
しかし、2週間以上 経っても 何も 連絡はなく
メールを送ってみると 後日 返信があり、
「この教育団体は あくまで 支援するのは、
10代の子供だけを 限定にしており、
あなたは 年齢的に厳しいので お断りさせて
いただきます。」 と 書かれていました。
この前は 僕を 支援して 助けてくれると言っていたのに…。
「お話した様に、僕は 12歳の頃から
ずっと 不登校だったので 義務教育も 受けられず、
唯一 学校に通えたのは 高校の一年足らずのみでした。
両親も いなくて、漢字の読み書きも
独学だけしか 分からないのに
見知らぬ土地で 一人ぼっちで 生活してるんです。
このような事情があるのに、僕は 何の支援も
受けられないのですか?」と おかしな 疑問について
問い合わせたメールを送っても、何ひとつ
返信はなく、それっきり 無視されたままです。
恵まれた子供たちは 毎日、学校に通って
好きなだけ遊べて 好きなだけ、大人達から
様々な支援や 援助も受けられる。
20年以上も 痛みと孤独だけの 人生を送ってきた、
親のいない障害者は わずかな支援すら
何ひとつ 受ける事はできなかった…。
僕は12歳から、たったの 一年足らずしか
教育も 受けられないのだろうか。
また これまでの様に 親のいない障害者のくせに
我がままだ、贅沢だ、と 罵られるのだろうか。
しばらく 落ち込んだあと、せっかくの機会だから
歩けるだけ、歩き回ろうと思い 戸塚区から
電車に乗って、約1時間も 遠く離れた場所にある、
都築区の 北部ユースプラザを訪ねてみました。
都築区は 山奥の方に創られた、
人口20万人ほどの ニュータウンで
何処かで 見覚えがある 街並みでした。
もう 昔になるけど、こんな 緑に包まれた
ニュータウンを 空想の世界に浸りながら
気の向くままに 歩き続けてきた 記憶があったな…。と
しみじみと思っていると その町が、15歳の頃に
よく散歩に出かけていた、「耳をすませば」 の
多摩ニュータウンだと 気が付きました。
そういえば 多摩ニュータウンも
そんなに 遠くない距離にあるんだ…と
ふと 懐かしい感情が 心の奥底から 甦ってきました。
きれいな 新築のビルの中に ユースプラザはあり、
ドキドキしながら ドアを開けると
まるで カリスマ美容師の様に おしゃれな服装の
スタッフさんが 出迎えてくれました。
これまでの事情を 同じように お話すると
「これから いつでも 来てもいいけど、
まずは 簡単な書類に サインしてね。」 と
あっさりと 僕を受け入れてくれました。
他人に対して かなり 疑心暗鬼になっていたので
心の中は モヤモヤした感情があったのですが、
とりあえずは 遠く 離れたところですが、
平日に通える居場所を やっと見つけられたのでした。
ある日、茅ケ崎市に 散歩に出かけると 茅ケ崎美術館の
前にある公園で、文字が書かれた 記念碑を見つけました。
八木重吉という 詩人の方の記念碑で
結核を患い、茅ケ崎市内の病院に 入院中、
昭和2年に 29歳の若さで 亡くなったそうです。
生前に いくつかの詩集を 発表しており、
「 貧しき 信徒 」 という詩集に 収められていた
一編の詩が、記念碑に描かれていました。
「 蟲 」
八木重吉
「蟲が鳴いている。今 鳴いておかなければ、
もう駄目だ というふうに 鳴いている。
しぜんと 涙をさそわれる。」
病院で 療養中、20代後半という 若さにも関わらずに、
自分が もう長くない事を悟っていたのでしょうか…。
この 短い 一編の詩は、
僕の たった一度しかない、23年間もの青春の日々を
無意味に 奪われてしまった、悲しみも
わずかな言葉だけで 表現されている気がしていました。
僕は しばらくの間、記念碑の前で 立ちすくんだまま、
身動きができずに この 短い詩の意味を
しみじみと 感じ取っていました。
僕と 大して 変わらない若さで この世を去ってしまった、
彼の やりきれない想いと共に
この 一編の詩を 書き綴っている姿の 情景までも
はっきりと 目に浮かんで来るほどだった…。
療養中に ノートには このような言葉が 書き記されていた。
「 あの波の音は いいなあ。 浜へ行きたいなあ。 」 …。
… ユースプラザ以外にも 色々と
歩き回ってみたのですが 教育関係の 施設や団体には、
「ここは、他人と 会話も まともにできなかったり、
どちらかと言うと 性格が暗い子が多いから
君には 会わないと思うよ。」 と 言われる事も ありました。
市民団体などを ひとつひとつ 見学に行っても
「うちは お年寄りばかりだから、君の様な 若者は
あまり 合わないんじゃないかな…」
と 心配されてしまったりも しました。
若者が数多く メンバーにいる、写真サークルや
読書サークルは コロナの影響で、しばらくの間は
活動を控えると ホームページに書かれていました。
鎌倉の市民活動センターに 相談しに行ってみると、
職員さんが 親切に 対応してくれて
「 鎌倉駅前蔵書室 」 という、鎌倉の土地と
歴史を 愛する人達が集まって 交流できる、
会員制の図書室を 紹介してくれました。
鎌倉駅の ロータリーから 右に曲がり、
レストランや お店が建ち並んでいる通りの、
小さなビルの中の 3階にありました。
鎌倉についての 本や雑誌、写真集などが
びっしりと 部屋一面に並んでおり、
入会する際には、どんな書籍でもいいので、
鎌倉に ついての本を 一冊だけ、「贈書」するという
面白い決め事が ありました。
代表の方は 平塚市から来ていて、
誰からも 好かれる 穏やかな人柄と、
抜群の ユーモアセンスの持ち主で
会員達から 愛されていました。
「ここに 通っていると 色々な年代の人達と
交流ができるから、いつでも おいで。」 と
僕の事情を汲んで、優しく声を 掛けてくれました。
そういえば、病院の診察以外で
まだ 東京に 出かけていなかったな…と
ふと気づき、頭に浮かんだのは 15歳の頃に
半年間、学生寮に 入って暮らしていた、
京王線にある 仙川駅でした。
久々に 行ってみようと 思い立って
約2時間もの 移動距離を電車に揺られ、
ぐったりしながら 調布市にある、仙川駅に
15歳以来、約20年ぶりに たどり着きました。
約20年ぶりに 訪れましたが、懐かしいという気持ちも
感動も 何ひとつ起きず 少しだけ 駅前の繫華街が、
きれいに 整備された様な気がしました。
仙川駅から 真っ直ぐに 繁華街を抜けて
徒歩15分ほどの場所にある 学生寮を訪ねてみると、
あの頃と 何も変わらない 外観のまま、
密集した住宅地の中に 真っ白な建物が
ポツンと 建っていました
15年以上も前の、慣れない大都会での生活が
昨日の事の様に 記憶が 次々に思い出されて、
あっという間に 15歳だったあの頃に、
日常が 引き戻されてしまいました…。
新宿の 古ぼけた映画館では、スタジオジブリの
「 猫の恩返し 」 と「 スターウォーズ エピソード2
クローンの攻撃 」 が上映されていた。
全編を デジタルカメラで撮影した CG映像は、
フィルムの時代の終わりと、
デジタルの 新時代の始まりを 告げていた…。
新宿駅前の タワーレコードでは 当時、人気が
出てきたばかりの BOAや アヴリル・ラヴィーンの
CDが 大量に 店内に並べられていた。
中島美嘉の 「 WILL 」 という バラードが
大ヒットしていて、MDで イヤホンをして 聴きながら、
騒がしいだけの ジメジメした ネオン街の中を、
汗でびっしょりに なりながら
どこにも 行く当てもなく ただひたすら、
何かを探して 歩き続けていた…。
「 WILL 」
歌 中島美嘉 引用
「 あれから 僕は いくつの夢を 見てきたのだろう…
あれから 僕は いくつの自由を 生きてきたのだろう…
運命の支配じゃなくて、決めてたのは 僕の 「 WILL 」。 」
あの頃は 父さんも 母さんも ガンで
苦しい闘病生活を 送りながらも まだ、生きていた…。
今すぐに 飛行機に乗って 北海道に帰れば、
母さんの そばにいる事ができる。
最期の時が来るまで、ずっと
母さんの手を放さずに、握っていてあげられる。
もう 二度と、母さんを 一人ぼっちで
悲しませたりなんかしない、ずっと そばにいてあげるんだ…。
今まで ずっと 押し殺してきた想いが
次第に 胸の奥に 込み上げてきて、これ以上は
ここにいては 駄目だ…、と 直感的に感じて
仙川駅まで 急いで 引き返しました。
繫華街を 通り抜けている最中に、
ある お店の前で ピタリと 足が止まりました。
それは、15歳だった あの頃、父さんが
僕の事を 心配して、7月に 学生寮を
訪ねてきた時に お腹がすいたので 立ち寄って
いっしょに お昼の食事をした、うなぎ屋でした。
まだ あの うなぎ屋は 残っていたんだ…。
あの頃から 何も変わっていなかった。
僕は 15歳だった、あの頃から
本当に 何ひとつ 成長していなかったのです。
何も変わらずに、相変わらず 見知らぬ土地で
友達や 話し相手を探して
当てもなく、右へ左へと 彷徨い歩いていました。
もう 一人ぼっちで いてはいけない、
もう これ以上、一人ぼっちで
全ての 悲しみを背負って 生きていくのは駄目だ、
僕には 愛してくれる人が 必要なんだ、
僕には 家族も 友達も、話し相手も 恋人も、
何もかも 必要なんだ、
これから まだ しばらくの間は、
治療法が見つかるまで 時間が かかるでしょう…。
真っ暗な部屋の中で、いつものように 医者に
「治療法が分からない。」 と 断られて
泣きじゃくるのも、もう嫌だ。
それなら、せっかく 大都会にいるのだから
たくさんの人たちと 交流できる、
きっかけを 探していった方がいい。
「 大切なのは 何よりも、誰かと出会うための きっかけだ…。 」
これまでは 出会いの きっかけが
なかっただけで、僕の想いを 伝えていければ、
きっと、答えてくれる人達は
この世界に いっぱい、いるはずなんだ…。
逗子海岸で 沈んでいく 夕陽を眺めながら
これまでの わずかな人生経験から、必死に、
自分なりの きっかけを探す方法を 模索していました。