「 僕の 12歳からの経歴。 」

 

1986年6月、北海道 北広島市で生まれる。

 

父さんの職業は 市役所の市職員、

母さんは 北広島病院の看護師でした。

 

5歳の時、家を建てて、団地から 移り住んで 新しい生活が始まる。

 

 

自宅のそばにある 北広島幼稚園を 卒園し、

北の台小学校に入学する。

6年間、充実した小学校生活を 送る事ができて、

何不自由なく 成長していく。

 

6年生の夏休み頃から 両目のまぶたが ゆっくりと下がり始める。

 

思春期を迎えて、自分の容姿に対する、

周りの目が気になり 前髪を伸ばして、意識的に 

顔を隠して 生活していく様になる。

 

1999年3月、無事に 北の台小学校を卒業していく。

 

4月、東部中学校に 入学する。

すっかり 両目の まぶたが塞がってしまって、

容姿について、同級生たちから 悪口を言われたり、

不良達に 毎日、からまれるようになる。

 

 

6月、入学して わずか2カ月で 不登校になる。

 

「 13~14歳の頃 」 

 

フリースクールに通ってみたり、

容姿の事で 札幌市内の美容外科に 相談してみる。

 

母さんへの 姉の暴力が 日常的に なっていく。

自宅から離れた場所にある、緑陽中学校に

編入学するが、数日間で 再び 通えなくなる。

 

まだ幼い子供の顔を手術させたくない、父さんの

反対にあい、札幌中の精神科を たらい回しにされて、

次々と 薬物を飲まされていく。

 

秋頃に、母さんが乳がんになり、冬には 父さんも 胃がんを発病する。

 

 

3月に、札幌の眼科の個人クリニックで、一回目の 

まぶたの手術を受ける。目の形は ほとんど何も変化はなかった。

 

「 15歳の頃 」

 

中学3年生になっても 不登校の状況は続き、

7月に、同じ 個人クリニックで、2回目の手術を受ける。

またしても 変わらなかった。

 

12月20日 紹介状を持って 訪ねた、

市立札幌病院の眼科で 患者の気持ちに

寄り添ってくれる 心優しい女医さんと出会い、

「 眼瞼下垂症 」と 診断される。

 

3回目の手術を受けて、目の形が 少しだけ良くなる。

 

 

3月になり、疲れ果てていた 心と身体が、

少しずつ 元気になってきたので

緑陽中学校に 久々に通学してみると

もう、卒業式の わずか 数日前になっていた。

 

内申点がないので 普通の高校に入れず、

寮のある フリースクールに通い始める。

環境に馴染めずに 3ヶ月で辞めて、自宅に戻って来る。

 

「 16歳の頃 」

 

どこにも 行く当てもなく、東京で 一人暮らしを始める。

 

9月に 乳がんで 体調が悪化して、

入院していた 母さんが亡くなる…。

 

 

11月、約半年間の 慣れない大都会の生活で、

身も心も ボロボロになっていたので 北海道に帰郷する。

 

4月、内申点がなくても 入学できる、

岡山県の全寮制の 吉備高原高校に 無事、

合格し 再び、自宅を離れて 暖かい土地で 

新しい 高校生活が始まる。

 

「 17歳の頃 」

 

友達にも恵まれて、それなりに 若者らしい、

充実した 学生生活を過ごしていけるが、

一回目の手術から 感じていた 神経の痛みが、

日に日に 悪化していき、日常生活にも 影響を与えていく。

 

 

3月、不安だらけだった 岡山県の 全寮制の

高校生活も、無事に 一年間 送る事ができ、

自信も ついてきたので

北海道の高校の 編入試験を受ける。

 

「 18~19歳の頃 」

 

4月、札幌市内にある、東海大四高校に 通い始める。

体育会系の名門校だったため、文系の僕には 

まったく合わず、次第に 通えなくなっていく。

 

秋頃、岡山県の吉備高原高校に 出戻りの形で、帰って来る。

 

高校3年生になり、目に見えない痛みに 苦しみ、

欠席日数が溜まっていく中、なんとか 卒業式を

迎える事ができ、北海道に帰郷する。

 

 

大学には行かず、本格的に 目に見えない

痛みの治療と リハビリを開始する。

 

整体、ペインクリニック、北広島市内の鍼灸整骨院にも、

半年間 通い続けて、様々な治療法を試していく。

 

「 20歳の頃 」

 

7月に、目の形の事で、未だに 悩み続けている事を 

市立札幌病院の眼科の女医さんに 相談し、

4回目の手術を受ける。

 

3月に 千歳市の北星病院で 

「 線維筋痛症 」という、痛みの障害だと 診断される。

 

 

4月、容姿のコンプレックスを 克服するため、

市立札幌病院の眼科で 5回目の手術を受ける。

 

手術後から、線維筋痛症の痛みとは、まったく別の、

皮膚の痛みを 発症してしまう。

激しい疼痛のため、寝たきりの生活になってしまう。

 

「 21~22歳の頃 」

 

寝たきりの状態が続き 年が明けて、2月20日に 

父さんが 心不全を起こして、自宅で亡くなる。

 

母さんを虐待し、家族を 苦しめていた姉を 

家から追い出し、ひとりぼっちで 痛みと孤独に

耐え続けるだけの、失意の日々を過ごしていく。

 

 

「 23~25歳の頃 」

 

ほとんど症例のない、激しい痛みの手術が

できる 形成外科医を 東京で見つけて、

難易度の高い 2時間近い 大きな手術を受ける。

 

それからも 東京の病院に通い続けて、同じ内容の

難易度の高い手術を 繰り返し、何度も受けていく。 

 

拷問の様な 顔を メスで切られるだけの日々は

続いていき、これまでの 札幌の病院で 5回、

東京の病院で 6回、合計で 

11回も まぶたの手術を受けた。

 

激痛は ひどくなっていくばかりで、荒れた生活を送る中、

訪問看護師が 週に 1、2回 自宅に訪れる様になる。

 

 

家を出ていった、姉と 近所に住む 親戚たちの 

差別的な態度、言葉の暴力に 苦しめられて、

精神的に 追い詰められていく。

 

「 26~29歳の頃 」

 

痛みで ほとんどベッドから 起き上がる事もできず、

たまに 訪問看護師と 自宅近くの遊歩道を 

健康のために 散歩するだけの 

やりきれない日々を過ごしていく。 

 

少しだけ 気力を取り戻して 作業所で 働いてみたり、

札幌市内で、人と交流できる場所を 探し歩いたが、

現実的には厳しく、ひとりぼっちのまま、

月日だけが 無情にも過ぎ去っていく…。

 

 

北広島メンタルクリニックの デイケアに 通い始める。

 

新しい治療法を 試してみても、効果はまったくなく、

12歳から、心と身体が壊れていくだけだった…。

 

「 30~31歳の頃 」

 

痛みと孤独に 耐え続けるだけの日常が 

約20年間も続いていて、

精神状態も ストレスも もう、限界を超えていた。

 

姉と親戚達に 怯えて 暮らすのも、もう 耐えられなかった。

 

故郷を捨てて、雪の降らない 暖かい土地で、

最期に 平穏な日々を送りたいと 思い、

宮城県への移住を 決意する。

 

 

「 32~34歳の頃 」

 

5月に 宮城県仙台市の となりにある、多賀城市に

引っ越してくる。約半年間、何もすることもなく、

ただ ぼんやりと 日々を送っていた。

 

このままではいけないと、日本中から 

名医の集まる東京で 治療法を探すためと、

都会で 良い出会いを求めて、

12月20日に 神奈川県横浜市に 引っ越してくる。

 

コロナが 世界中に広まっていったので、

何も 身動きが取れず、

あまり 外出ができない日々が続いていく…。

 

 

「 35歳の頃 」

部屋に こもったままの 日常の中で、

まずは これまでの 自分の半生を

たくさんの 心優しい人達に 知って頂きたい…と思い、

12歳からの闘病記を 書き綴っていく。

 

もうすぐ、また春の季節が 巡って来る…。