「 僕の12歳からの経歴 」

 

 

 

 

「 12歳の頃 」

 

小学6年生の夏休み頃から ゆっくりと 

両目のまぶたが 塞がり始める。

 

1999年3月に 6年間、通っていた北の台小学校を卒業する。

 

4月、東部中学校に 入学する。前髪を伸ばして、

まぶたが下がって つぶれてしまった様な 

細い一重の目の形を 隠しながら 通学していた。

 

容姿について 陰口を叩かれたり、不良達に 

からまれる様になり、わずか2か月で 不登校になる。

 

悩み抜いた末に、顔を手術して 変えるしかないと決意する。

 

 

「 13歳の頃 」

 

年が明けて 4月。中学2年生になり、

自宅から 離れた場所にある 緑陽中学校に

編入学する。転校しても 容姿の事で思い悩み、

数日で 再び、不登校になる。

 

2歳上の姉が、母さんを 日常的に虐待する様になる。

 

「 14歳の頃 」

 

子供の顔に メスを入れるくらいなら、精神病院に 

強制入院させた方がましだ、と 父さんに 

無理やり、札幌中の精神科を たらい回しにされる。

 

 

効果のない薬を 次々と 飲まされるだけの日々が続いていく…。

 

秋頃に 母さんが 乳がんになってしまう。

年が明けると 父さんまでも がんを発病してしまう。

 

3月、紹介状を持って訪れた、札幌市内の 

眼科の個人クリニックで 一回目の まぶたの手術を受ける。

 

「 15歳の頃 」

 

7月に 同じ 個人クリニックで、2回目の手術を受けるが、

ほとんど 目の形は変わらなかった。

 

12月、市立札幌病院の眼科で 心優しい女医さんと出会い、

3回目の手術を受ける。 少しだけ、目の形が大きくなる。

 

 

3月、緑陽中学校には、卒業式を迎える数日前に 

ようやく 登校できたが、思い出を 

何も作れずに 中学校生活が 終わってしまう…。

 

内申点がないので 高校には進学できず、

寮のある フリースクールに 通い始める。

特殊な環境に あまり馴染めず、寮で 

同室の不良達との もめ事にも 疲れ果てて 

3ヶ月で 辞めてしまう。

 

5月の半ばに 辛い現実から 少しでも 

遠くへ逃げたい、と 東京に引っ越して、一人暮らしを始める。

 

「 16歳の頃 」

 

9月に 乳がんが悪化して、入院していた母さんが 亡くなった…。

 

 

11月、どこにも 行く当てもなく、

大都会の中を さ迷い歩いくだけの日々で

身も心も ボロボロになり、北海道に帰郷する。

 

受験勉強を 必死に頑張って、内申点がなくても 

入学できる、岡山県にある 全寮制の

吉備高原高校に 無事、合格する。

 

「 17歳の頃 」

 

友人達にも 恵まれて、それなりに 若者らしい、

学生生活を 一年間、送る事ができる。

 

一回目の手術から 発症していた、線維筋痛症の痛みが 

日常生活に影響を及ぼすほど、日増しに強くなっていく。

 

 

高校一年生の終わりを迎えて、生まれ故郷の

北海道の高校に通って 元の人生に 

戻りたいと思い、編入試験を受ける。

 

札幌市内の東海大四高校に 合格し、

4月から 2年生として 通い始める。

 

「 18歳の頃 」

 

東海大四高校は 体育会系の名門として 

有名だったので、文系の僕には 校風も 

他の生徒達とも合わず、半年も経たないうちに 通えなくなる。

 

秋頃に 行き場所がなかったので 岡山県の

吉備高原高校に 出戻りの様な形で 帰って来る。

 

 

線維筋痛症の痛みが 寝不足と ストレスも重なり、

日常生活を 送れないほど 悪化していき、

授業も 休みがちになり、保健室で 

寝たきりで過ごす時間が 日に日に増えていく。

 

「 19~20歳の頃 」

 

高校3年生の一年間も 乗り越えて、

無事に 卒業式を迎える。北海道に帰郷して、

本格的に 目に見えない痛みの 治療を始める。

 

北広島市内の鍼灸整骨院に 定期的に通院して、

様々な治療法を試していく。

7月に 市立札幌病院の眼科で、4回目の手術を受ける。

 

 

3月に 千歳市の北星病院の リウマチ科で 

線維筋痛症と 診断される。

 

4月、容姿を あと少しだけ 良くしたい、と 

市立札幌病院の眼科で 5回目の手術を受ける。

 

術後から、線維筋痛症の痛みよりも 数倍ひどい、

過去に 症例の少ない 皮膚の痛みを発症してしまう。

 

「 21~22歳の頃 」

 

痛みで 寝たきりの生活になり、月日だけが過ぎていく…。

 

2月20日、父さんが 自宅で 心不全を起こし、亡くなってしまう。

 

 

両親を虐待していた 姉を追い出し、

家族は 誰もいなくなり、ひとりぼっちの生活になる。

 

寝たきりで 何も出来ない日常生活が 続いていく…。

 

「 23~25歳の頃 」

 

東京で、形成外科の名医と 言われる医師に、

難易度の高い手術を受ける。

わずかな可能性に賭けて、同じ医師に 

繰り返し、何度も 難しい手術を受けていく。

 

東京で 6回も 難易度の高い手術を受けて、

札幌の病院と合わせると、これまでに 

11回もの 顔の手術に耐え抜いていった。

 

 

つらい手術とリハビリの甲斐もなく、痛みは 

更に 激しさを増していく。 自宅に

訪問看護師が 訪ねてくる様になる。

 

「 26~28歳の頃 」

 

寝たきりの日常が 変わらずに続いていく…。

どんなに 季節が移り変わっても 

月日の流れが さっぱり 分からなくなっていた。

 

少しずつ 気力を取り戻していき、作業所で働いてみたり、

札幌市内で 通える居場所を探し始める。

 

「 29~32歳の頃 」

 

 

痛みの治療法を ひとつひとつ試していくが、

何も効果がなく 年月と共に 生活が追い詰められていく。

 

姉と親戚たちの 言葉の暴力、精神的な虐待にも 

疲れ果てて、住み慣れた 自宅を捨てて、

故郷を離れて 見知らぬ土地へと

追いやられる事を 選択させられる。

 

「 33歳の頃 」

 

5月に 宮城県仙台市の となりにある、

多賀城市で 新しい生活が始まる。

 

姉、親戚たちとは 誓約書を書いて、絶縁し、

20年間の苦難の日々の末に 

見知らぬ土地で 完全に ひとりぼっちになる。

 

 

どこにも 居場所も 行く当てもなく、

ただ 雪の降らない土地で 自分の人生では

得られなかった幸せを 想い続けて さまよい歩いていた。

 

約半年間、月日だけが 無情にも 過ぎ去っていき

このまま 惨めな最期を 迎えるよりも、

たった一人でも そばで 支えてくれる人を

見つけた方がいい…と 決意する。

 

日本中から 名医の集まる東京で 

治療法を探すためと、良い出会いを求めて、

横浜市に 引っ越してきて、新しい生活が始まる。