この記事では、今まで ひとりで 心の奥底に

抱え込んできた、癒える事のない傷…

トラウマの数々について、

まとめたものを 載せようと思います。

 

「 12歳の頃 」

 

中学校に入学して、わずか2か月間で 不登校になった事。

 

 

思春期になったばかりの 心が不安定な時期に、

病気で崩れていった顔を

「気持ち悪くて 直視できない、吐き気がする、」 など 

陰口を叩かれて、不良達には 放課後まで 

しつこく つきまとわれて、からまれていた。

 

「 13~14歳の頃 」

 

優しかった父さんが、別人みたいな 鬼の形相で、

「 精神病院に強制入院だ、 」と 怒鳴り散らしていた事…。

 

父さんに 無理やり、札幌中の精神科を 

10か所ほど、たらい回しにされた事。

 

 

思春期に なり始めたばかりの子供が、

まともに 話も聞かない、横暴な医者達に 

「頭がおかしい、お前は精神病だ、」と 決めつけられ

次から次へと 効果のない精神薬を 

飲まされ続けて、本当に おかしくなっていった事。

 

「薬を飲めば治る、ひたすら 薬を飲み続けろ、」と 

洗脳していく様に 同じ言葉を 繰り返し、

僕の中学校生活を ことごとく 奪い去っていった。

 

金もうけしか 頭にない医者達は、

僕を精神病の患者に 仕立て上げていった…。

 

 

姉の 母親への虐待…。 がんで弱っていく 

母さんのことを 毎日のように、

「金を出せ、死ね、クソババア 」 と 暴力を振るい、

泣き叫ぶ 母さんを蹴り続けていた。

 

どんなに 取り押さえて 説得しても、

日課の様に 暴力を止めようとしない。

姉は 自分よりも 弱い人間に 暴力を振るったり、

支配する事に 快楽を覚える性格だった。

 

「姉に 殺される、殺される、」と 泣き叫んでいる

母さんの姿は、20年以上も経った、今でも 

毎晩、夢の中に出てきて うなされている…。

 

 

「 15歳の頃 」

 

中学2年生の終わりの 3月に、一回目の手術を受けた。

 

2年間、精神科を 引きずり回されて、

「お前は 精神の病気だ、」 と 薬漬けにされていき

母さんは 目の前で 毎日、激しい虐待を受け、

一番、遊び盛りの 10代の時期なのに、たった一日も 

遊ぶことも出来ずに じっと 耐え続けるだけの日々…。

 

心が もう 2度と立ち直れないほど、

打ち砕かれてしまったのに 休む間もなく、

3回もの 顔の手術との闘いの日々が待っていました。

 

14、15歳の子供が 自分の顔に メスを入れて 

美容整形みたいに 変えてしまう…という事は、

なかなかの決意と 勇気がいるものでした。

 

 

まぶたが ゆっくりと刃物で切られていくのを 想像しただけで

何度も 過呼吸を起こして、苦しんでいました。

 

父さんに 手術を受ける度に 

「失敗したら 精神病院行きだぞ、」と 怒鳴られ続けて、

強制的に 入院させられる 恐怖に怯えながら

2回、3回と 危険な 顔の手術に挑んでいきました。

 

3年間を犠牲にして、必死に闘い続けてきたのに 

中学校生活を 何もかも 全て 奪われてしまい、

大切な 思春期と 心と身体の成長期が 

まったくの 空白になってしまったのでした…。

 

この空白期間は、その後の人格形成に 

とても 大きな影響を 与えていったのでした。

 

 

「 16歳の頃 」

 

高校に入れなかったので、居場所を求めて 

通ってみたフリースクールも また 僕の心に 

思い返すのも つらい、大きな傷を残していました。

 

寮の部屋が、大阪から来た不良達と

一緒になってしまい、毎日、どこにも逃げられずに、

3年間の 顔の手術との闘いの日々で

弱り切っている僕に 容赦なく 因縁をつけてきました。

 

ヤクザの息子と 母親を刺して 鑑別所に

入っていた 二人の不良は、

目つきからして 本物の悪童たちでした。

 

 

3年間のトラウマの数々で、臆病になっている僕に、

毎日のように どうでもいい事で からんできては、

何も抵抗できない 僕の姿を見て 面白がっていました。

 

東京で 一人暮らしを始めてからは 

半年間、行く当てもなく、「 東京砂漠 」の中で、

更なる孤独感を 味わっていました。

 

地元を離れたので、母さんの最期に 

立ち会えなかったのは、結果的に 良い事だったのか、

悪い事だったのかは、今となっては 分かりません…。

 

北海道に帰って来た時、やつれ果てた僕を

待っていたのは、母さんの遺影と 遺骨でした…。

 

 

母さんの死に目にも会えず、お葬式にも 

出られなかったのは これから先も、一生 

僕を 苦しめ続けていくでしょう…。

 

「 17~18歳の頃 」

 

高校生活が 始まってから、

心の中で 母親の様に慕っていた 二人の女性に…

 

「あんたの父親に 金をもらっていたから、

仕方なく 面倒を見てやっただけだ、」

「顔を見ると 気分が悪くなるから 会いたくない、」と 

言われてしまいました。

 

 

さよならも 言えなかった、母さんとの別れだけでなく、

母親気取りだった人達にも あっさりと見捨てられて、

癒える事のない 深い傷跡は、広がっていきました。

 

岡山の高校から、札幌市内の 東海大四高校に

編入学しましたが、元の人生には もう、

戻る事ができない現実を 思い知らされるだけだった。

 

体育会系の生徒ばかりの学校は、

僕には まったく 馴染むことはできず、

たった一言の会話さえも できない日もあった。

 

 

体育や、剣道の授業の顧問の教師には 

目をつけられて、みんなの見ている前で 

一人だけ、竹刀の素振りを やらされたり

「お前のせいで 授業が遅れて、他の生徒達の

足を引っ張っている、」と いつも 

怒鳴り散らされていました。

 

気づかって、声を掛けてくれる クラスメイトは 

誰ひとり いなかった。

 

2時間の通学路と まったく居場所のない 

息苦しい学校生活で 疲労のあまり、

食事も ほとんど取れずに やつれていきました。

 

 

岡山の高校に帰って来ると、不良達と

相部屋になってしまい、真夜中も 馬鹿騒ぎするので 

睡眠も ろくに取れなくて 生活は荒れ果てていきました。

 

15歳のフリースクールの時の様に、またしても 

不良達と相部屋になり、逃げることも 出来ず、

線維筋痛症の痛みと共に 苦しめられていました。

 

「 19歳の頃 」

 

教師たちも 次第に 態度が冷たくなっていき、

他の生徒達が見ている前で 

理不尽に 怒鳴り散らされた事もありました。

 

 

学校の外でも 話し相手が欲しくて、出会った人たちに…

 

「人生が 不幸すぎて、関わりたくない、

不幸が移るから 近寄るな、何処かに行け、」

「目つきが気持ち悪い、顔が引きつっていて、

変質者みたいだ、」と 怖がられて 

避けられて、心の支えどころか、

たった一人の話し相手を 見つける事すら 難しかった。

 

中学校から 不登校だったと 分かっただけで、

突然、無視されたり 唾を吐くような 仕草をして、

立ち去っていく人達も 数多くいた。

 

この世界には 暴力的な差別主義者しか 

いないのだろうか…と

本気で 悩み始めたのも この頃からだった。

 


 

「 20~21歳の頃 」

 

2月に 父さんが、自宅で 心不全を起こして 亡くなりました…。

 

僕は その時の 父さんの青白くなった 死に顔が 

目に焼き付いてしまって、今日まで 毎晩の様に 

夢の中で うなされ続けています。

 

母さんの時と同じように、父さんまでも 

別れの言葉も言えずに 僕だけを 置き去りにして、

どこか遠くへと 旅立ってしまった…。

 

あまりにも早すぎる 両親の最期は これから先も 

ずっと、癒えることなく 僕を 苦しめ続けていくのでしょう…。

 

「 21~25歳の頃 」

 

 

東京の病院で 拷問の様な 6回もの 

難易度の高い手術との闘いの日々も 

耐えがたい苦痛と共に 大きな心の傷となって 

10年以上経っても フラッシュバックして、

思い起こしてしまい うなされています。

 

PTSDの症状も 間違いなく 発症していると思います。

夢の中で 手術台に寝かされて 

顔を メスで切り刻まれていく 悪夢に、

今も 変わる事なく、うなされ続けています。

 

札幌の病院で受けた、5回の手術、

東京の形成外科で受けた、6回もの 大きな手術。

合計で 11回にもなる 顔の手術は、

まぶたの神経や皮膚に 深い傷を残しただけではなく

心の中にまで 消える事のない 

幾多の傷跡を 残していったのでした。

 

 

15、16歳の頃、ひとりぼっちで さ迷い歩いていた、 

大都会、東京も 思い出したくもない場所でした。

 

自分の事を 「 東京のお母さん 」 だと言っていた、

金しか頭にない あの女性の事も

今日まで つらい記憶となって 引きずり続けています。

 

そのことに加えて、品川の病院の 6回の大手術で 

心と身体にも 大きな傷を 負ってしまいました。

 

「 26~28歳の頃 」

 

手術から 解放されても、絶え間ない疼痛との 

闘いの日々は、終わることなく 続いていきます。

 

 

看病してくれる人も 誰もいなくて、

一人で 生きていくだけでも 大変なのに、

日増しに 暴力的な態度が ひどくなっていく 

姉と親戚たちとも 闘わなければ なりませんでした。

 

12歳から、姉の日常的な 暴力だけでなく 

野蛮で 下品な言動、差別的な態度にも 悩まされてきました。

 

口を開けば 他人の悪口ばかり、

日常の ありとあらゆる物事への 文句や不満、

どうでもいい事でも いちいち、

因縁をつけてきては 機嫌が悪くなる。

 

まるで ヤクザの様な 乱暴な物言い…。 

どんなことでも 二言目には、「金を出せ、金をよこせ、」…。

 

 

20年間以上も 姉に 悩まされ続けてきて、

耳を塞いでも、一日中、コダマの様に

「金をよこせ、死ね、クソババア、」 と 

わめき散らす声が 頭の中に聴こえてきます。

 

両親が亡くなってから、僕が 一人で 

手に負えない姉と 闘わなければならなかった。

 

元自衛隊の、ガキ大将みたいに 短気で 

粗暴な親戚たちも 姉と共に 

僕の面倒を見ると 言いながら、日常生活の

あらゆる事に 口を出すようになり、干渉しては 

自分達の都合の良い様に 支配しようと してきました。

 

 

もう、自分の身の回りの 全ての出来事に 疲れ切っていた…。

 

「 28~32歳の頃 」

 

生活が 何もかも追い込まれていき、

親戚が、僕の自宅の前で、「病人や 障害者は 

いつも嘘をついて 他人をだます、卑怯な奴らだ、

お前の言う事は 全部、嘘だらけだ、嘘つきめ、」 と

散々、怒鳴り散らされてから 

もう、この家には いられないな…と 思い始めていました。

 

親戚達との話し合いで 集団リンチの様に 

取り囲まれて 攻撃され、姉は その様子を見て 

笑うのを 必死に我慢していました。

 

 

医療費まで 渡さないと言われて、僕は 縁を切って、

この街を出ていく事を 選択せざるを得ませんでした。

 

近くの教会に 助けを求めに行くと、牧師にまで 

20年間 闘ってきた事を 散々、馬鹿にされ、

「お前みたいな奴は さっさと 教会から出ていけ、」と 

追い出されてしまいました。

 

教会は 貧しい人間を救ってくれる場所では なかったのか…。

僕は 最後の最後まで ひとりぼっちだった…。

 

「 32~35歳の頃 」

 

宮城県に移り住んでも、医者に 差別的な事を

言われたり、痛みの障害について 

罵られたりと 変わらない境遇が続いていました。

 

 

このまま、一生、他人から馬鹿にされて 

ひとりぼっちで 苦しむだけの人生でいいのか…

 

思い悩んだ末に、覚悟を決めて 横浜市に引っ越してきました。

 

23年間の闘病生活の中で、経験してきた 

様々な不幸の ほんの一部しか 書き綴っていませんが、

それでも とても 長文になってしまいました。

 

心の傷が癒えるまで、これから どれくらいの月日が

必要になってしまうのか、悪夢にうなされずに

心穏やかに 眠れる日は くるのだろうか…。

 

 

これから 僕を応援してくださる、たくさんの人たちとの

出会いに恵まれて 心の傷が癒えるまで

優しさやぬくもりを 与えて頂けたら…

と 想いを馳せています。

 

どうか、よろしくお願いいたします…。