「 12歳の頃 」

 

少年時代の頃の僕は、とにかく 明るくて 

前向きな性格で、誰とでも 仲良くなれるので、

通っていた 北の台小学校だけでなく 

市内にある ほとんどの小学校に 友達が たくさんいました。

 

サッカー少年団や 水泳も習っていたので、

他校の生徒達との交流が、日常生活に 溢れかえっていました。

 

20歳頃には 

北広島市民が みんな、僕の友達になっている…

と あの頃は 本当に 思っていました。

 

男女問わず、同級生は みんなが仲良しで 

低学年の小さな子供達も よく 教室まで 

遊びに行って、面倒を見てあげて いました。

 

 

近所の人達も スーパーの店員さんや 

市役所の職員たちも、みんなが 顔見知りで、

僕を見かけると 気軽に 声をかけてくれました。

 

「 13歳の頃 」

 

中学校を 不登校になった 翌日から、他人との交流は 

一切、何もかも 無くなってしまいました。

 

あの頃は まだ、パソコンも 一般の家庭に 

普及しておらず 持っている人は 少なかった時代でした。

 

携帯電話も ないので、誰とも メールも会話もできず、

学校に通えなくなったら、人との関わりは 

全て 絶たれてしまいました…。

 

 

今どきの若者の様に、フェイスブック、ツイッター、

ブログ、マッチングアプリなどを 活用して、

気軽に 知り合いを作っていく事など できませんでした。

 

自宅に 何回か、親友が訪ねてきただけで 

あとは ひとりぼっちの状態でした。

 

両親も 共働きなので、夕方になるまで 帰ってきません。

物音ひとつしない、墓場の様に 静まり返った

家の中で、夜になるまで じっと 身体の震えを抑えて 

耐え続けるしか ありませんでした。

 

他の子供達は 毎日、中学校の友達と遊ぶのに 

夢中で、学校に通えなくなってから、あっという間に 

僕は みんなから 忘れ去られていった…。

 

 

不登校になって 半年もしないうちに、

部屋の窓の外を 見上げると クラスメイトや 

見知らぬ人達が 雲一つない青空に 

浮かんでいる幻覚まで 見えてしまうくらいでした。

 

「 14歳の頃 」

 

精神科を たらい回しにされて、味のない白い粒を 

飲まされ続けるだけの日々の中で

平日の昼間に 気が向いた時は、東部中学校や 

編入学した 緑陽中学校まで 

自転車に乗って 散歩に出かけていました。

 

 

遠く離れた場所から、毎日 通うはずだった

校舎を眺めて、あの 小さな建物の中に、

何百人もの 同世代の子供達が 端から端まで

ひしめき合っているんだな…と いつまでも 見つめていました。

 

校舎の中と 校舎の外では、全くの別世界の様だった。

僕には 時間の流れさえも 違っているように 感じられた…。

 

学校に 通っている生徒達は、毎日、

様々な経験を積んで 大人へと成長していくけど

学校に通えない僕は、校門を出てしまった時、

その場所で いつまでも 時間が止まってしまっている様だった。

 

いつまで経っても、幼い子供で 止まったままなのです。

 

 

孤独に耐えられずに、数日だけ、登校してみましたが

わずか 2年間もの月日で、他の生徒達と こんなにも 

心と身体の成長に 差がついてしまうのか…と 

驚いていたものです。

 

「 15歳の頃 」

 

3年生になっても、たった一言も 

会話できる相手がいなくて 映画や音楽、本などの 

空想の世界が 唯一の心の支えでした。

 

声を出す事が 少なかったので、

次第に 言葉の発音を忘れていき、

人との会話も 出来なくなってしまいました。

 

 

テレビ画面から 聞こえてくる、芸能人や俳優たちの声に 

耳を傾けて、人の温もりや 温かさを 思い出していました。

 

病院の待合室で、周りを見渡すと、

ほとんどは お年寄りの 患者さんばかり…。

若者や子供の姿は 見当たらなくて、

自分が 子供なのか お年寄りなのか、も 

よく 分からなくなっていった。

 

どこの病院に通っても、看護師さんは 

みんな 親切な方ばかりでした。

診察を待つ間、待合室で 怯えている僕に、

優しく 微笑んで 「 心配しなくても 大丈夫だよ。」と 

いつも 声をかけてくれました。

 

 

この わずか数十秒の会話に 僕は 

どれだけ 励まされて来たのだろうか…。

 

ようやく 3回目の手術が終わり、

久しぶりに 中学校に戻って来ると 

もう 卒業式の数日前に なっていて、

せっかく再会できた クラスメイト達も すぐに 

また みんな、僕だけを 置いてけぼりにして

新しい環境へと 巣立っていきました。

 

「 16歳の頃 」

 

内申点がないので 高校に入る事ができず、

救いのない現実から 少しでも 逃げ出すために、

大都会の東京で 一人暮らしを始めました。

 

 

人口一千万人以上もいる 大都会なら、

知り合いや友人が 自然に たくさんできると 

思っていたのですが、パソコンもなく 

人と繋がる方法も 何も分からなかったので、

ただ 当てもなく、コンクリート・ジャングルの中を 

さ迷い歩く事しか 出来ませんでした。

 

どこまで歩いて行っても 人込みで

溢れかえっているのに、

どうして たった一人の人間と 

出会う事が 出来ないんだろう… 

幼い子供ながらに 懸命に 考え続けていました。

 

 

思春期の 心が不安定な時期に、3年間も 

孤独に過ごし、見知らぬ大都会の中で、

更に 半年間、ひとりぼっちに なっていたのでした。

 

約半年間も、慣れない大都会の中を さ迷っていたので

身体も やつれ果てて、北海道に帰郷していきました。

 

自宅で 母さんの遺影と 対面してから、

もっと遠くまで 逃げなければ…と 猛吹雪が 

目の前に 吹き荒れる中、受験勉強を 始めていきました。

 

こうして、また 一年間の月日を 

泣く泣く 孤独に耐え抜いていきました。

 

 

「 17歳の頃 」

 

岡山の高校に 入学してからは、

全寮制の学校だったので 同世代の

子供達と いっしょに、山奥にある 校舎の中で

楽しく 遊んだり、泣いたり 笑ったりと 

これまでの孤独だった時間を 

埋めていくかの様に 毎日を 過ごしていました。

 

寮生活の仲間たちにも 恵まれたので、

学校生活よりも、放課後になって、

寮に戻ってから 仲間たちと 寝食を共に 

過ごした時間の方が 居心地が良くて 楽しかったです。

 

 

「 18歳の頃 」

 

元の人生に 戻りたい、と 希望を持って 

札幌の高校に 編入学してから

僕を待っていたのは、まったく 馴染めない

環境の中での 更なる 孤独と無力な日々でした…。

 

札幌市の端っこにある 東海大四高校の校舎まで 

約2時間の通学路を 満員電車に揺られて、

陽の光の入らない、真っ暗な地下鉄に 乗り換えて

やっとのことで 校舎に たどり着いた時には、

精神的に 弱り果てて、もう ふらふらの状態でした。

 

全国的に有名な 体育会系の高校だったので、

文系の僕には どこにも居場所はなく

クラスメイト達の会話は スポーツの事ばかり。

教室でも 一人だけ 浮いてしまい、一言も 

誰とも会話がなく 帰宅する日もありました。

 

 

毎日、2時間かけて 満員電車に揺られながら 

僕は一体、何をしているんだろう?

僕は 一体、どこに向かっているんだろう…? 

と 自問自答していました。

 

真っ暗な地下鉄の中を 走り続けていると、

言いようのない不安が 込み上げてきて、

線路の目の前に広がる、先の見えない暗闇が 

僕の未来を 暗示しているかの様でした。

 

約半年間、通っても たった一人も 友人ができず、

岡山の高校に 再び、戻ってきました。

 

 

寮生活は 不良達と 相部屋になってしまい、

仲の良かった友人達とは クラスも 別々になり、

線維筋痛症の痛みが 悪化していくと共に、

授業も休みがちになっていき、周囲から 孤立していきました。

 

「 19歳の頃 」

 

3年生になると、ほとんどの時間を 

保健室で 寝たきりの生活になり、

目に見えない痛みの障害を 周囲に 

上手く伝える事もできず、

いつも 一人きりになっていました。

 

 

顔がひきつって、会話も 難しい状態になっていたので

みんなの輪から 離れて、人気のない図書室や 

廊下の端っこで 時間を潰していました。

 

「 20歳の頃 」

 

高校を卒業後、帰郷して、痛みの治療を始めるも、

思っていた以上に 目に見えない痛みの

治療法を 探すのは 難航して、

時間だけが 無情にも 流れていきました。

 

20歳になったのに たった一日も 遊べず、

たった一言も 会話できる友人がいない…。

 

苛立ちと ストレスだけが 溜まっていく中、

更に一年間の月日を ひとりぼっちで 過ごしていきました。

 

 

「 21歳の頃 」

 

5回目の手術を 受けてから、これまでの数倍も 

ひどい激痛が襲ってきて、休学していた大学も 

辞める事になり、憧れていた 大学生活の望みも 

全て 絶たれてしまいました。

 

絶望的な未来だけが 目の前に広がっていく中、

完全に ベッドで寝たきりの生活になり、

また 一年間の月日を 痛みと孤独だけの日々で 

無意味に 奪われていきました。

 

2月には 父さんまでも 亡くなってしまい、

僕の12歳からの闘病生活を 何もかも 知っている、

たった一人の大切な人も いなくなりました。

 

 

「 22歳の頃 」

 

両親を 散々、虐待してきた 姉をやっとのことで 

追い出して、半年も経たないうちに 

ペットの犬も猫も ミドリガメも みんな 

老衰で亡くなり、墓場の様に 静まり返った家の中で、

僕は 完全に ひとりぼっちになりました…。

 

誰かの声が聞きたくても 携帯電話で

会話できる 知り合いも 誰もいない。

小学校時代の同級生たちは、近所の人の話だと、

高校、大学を 卒業してから、みんな 東京など 

関東方面に 引っ越していったとの事でした。

 

 

あの頃、北広島市内の ほとんどの小学校に 

友達がたくさんいて、街のどこに行っても、

必ず 誰かと 出くわしてしまうので

「 ひとりになりたくても、どこにも ひとりになれる場所がない、」

と 嘆いていたのに…。

 

今では 端から端まで 街中を 息を切らして

這いずり回っても、誰ひとり、

僕の事を 知っている人はいない。

僕だけが この小さな街に、置いてけぼりになっていた。

 

他にも 残っている知り合いは、探せば 

いるかもしれないが 最後に会った時は まだ 

携帯電話もなく、パソコンも 持っていない

家庭の方が多かったので 

連絡する方法が 思いつかなかった。

 

 

「 23~25歳の頃 」

 

東京の病院で、顔をメスで 切り刻まれるだけの 

拷問の様な日々が 続いていき

毎日、24時間、痛い、痛い、痛い…。 

ただ それだけだった。

 

顔が 手術の繰り返しで、ずっと真っ赤に 

腫れ上がっている状態なので、スーパーに

買い物に行く時も、常に 下を向いて、顔を隠していた。

 

人前にも まったく出られないので カーテンを閉め切った、

部屋の中で、全ての感情を 押し殺して、

じっと 時が過ぎるのを 待ち続けていた。

 

「 僕は人間じゃない、獣だ、獣には 寂しい…や 

苦しい…なんて 感情は 何ひとつないんだ…。

獣は 何も感じないんだ…。」

 

 

光の閉ざされた 底の見えない暗闇の中で、

ひたすら 自分に言い聞かせていました。

 

「 25~28歳の頃 」

 

25歳から 訪問看護師が 訪ねてくる様になって、

体育会系の 元気な看護師さんと

朝、ゴミを捨てに行く時に 挨拶する、

となりのおばさんが 唯一の 話し相手になりました。

 

看護師さんは 週に 1、2時間…。 

おばさんは 週に 5分、10分ほど…。

人生の中で 一番、遊び盛りの 20代の

10年間の月日で、人とのふれあいは これだけだった…。

 

 

寂しさのあまり、誰もいないはずの自宅の中で、

子供のはしゃぐ声が 聴こえたり

見知らぬ女性の姿が 見えたりと、

幻覚、幻聴にも 悩まされていた。

 

一日中、寒気がして 身体の震えが止まらず、

夏なのに 毛布に くるまっていました。

夜中に 何度も飛び起きて、トイレに駆け込んで 吐いていた。

 

「 28~31歳の頃 」

 

ようやlく 少しずつ動き出してみても、

たった一人の話し相手を作るのも、

現実は なかなか 上手くはいかなかった。

 

 

札幌中を探して、優しそうな人と出会っても、

僕が 学歴があまりないと 分かっただけで 

無視されたり 唾を吐かれて 立ち去って行った。

 

両親がいない、障害があると 気付くと、

「 近寄るな、不幸が移るから 関わりたくない、 」と 

40、50代の大人達が 怯えた顔をして 逃げ出してしまう。

 

引きつった表情を 2、3回 見ただけで 

出会った女性達は 誰もが

「気持ち悪い、顔を見ると 気分が悪くなる、」と 

僕に 向かって、まるで 害虫に 吐き捨てる様に、

叫んで いなくなっていく…。

 

 

人生が不幸すぎるから 関わりたくない、と

言われてしまったら、一体 どうしたらいいんだ…と 

ますます 人間不信になり

部屋に 引きこもる様になっていった。

 

29歳頃から だんだんと、真っ暗闇の中にいるのが 

居心地良く 感じる様になり、真夜中も 

ずっと電気を点けずに、暗闇の中で じっとしていた。

 

今まで 恐怖の対象だった 暗闇こそが、

僕の唯一の居場所で、僕の事を 唯一、

理解してくれる 友人の様に 感じ始めていた。

 

日の当たる場所は、僕のいるべき世界ではない…と 

感じ取っていた。

 

 

「 32歳の頃 」

 

誰も 助けてくれる人はいなくて、姉と親戚たちに 

耐えられず、家を 追い出される様な形で 

宮城県に 移り住んできました。

 

約20年間もの 絶え間ない痛みと

孤独の日々の果てに、自宅さえも 失って 

見知らぬ土地で 一人で生きていく事に なりました。

 

姉、親戚達とは 誓約書を書いて 完全に絶縁しました。

 

僕が死んでも お葬式も行われない… 

お墓も 作ってもらえない…。

誰も 悲しんでくれる人はいない…。

 

 

手元に残ったのは、父さんが残してくれた 財産と、

今までの 20年間の孤独の日々を、支え続けてくれた、

数え切れないほどの 映画のDVDと 本やCD…。

 

宮城県での生活は 何もすることもなく、

どこにも 行く当てもなく、ただ 雪の降らない土地を 

さ迷い歩いくだけの日常でした。

 

七ヶ浜町の海岸で 穏やかな波を 眺めながら

これまでの半生を 振り返り、

静かに 自分の最期を 受け入れていました。

 

瞬く間に 半年間が過ぎていき、12月に、

思い切って 横浜市に 移住してきました。

 

 

大都会に行けば、たくさんの出会いがあると

思っていましたが、直後に コロナが発生して 

広まっていったので また 一年間の月日を 

薄暗いアパートの部屋の中で 耐え続けていました。

 

「 33~34歳の頃 」

 

身動きできない生活の中で、自分の闘病生活を 

たくさんの人たちに 知ってもらおうと 思い、

目の痛みを こらえながら、必死になって 

12歳からの闘病記を 書き続けていく…。

 

 

「 35歳の頃 」

 

書籍のほかに、ブログなども 完成が

近づいてきたので、春の季節が近づく中、 

もう一度、苦難の人生に 立ち向かっていく…。