「 誰にでも 平等に 生きる権利がある。 」 

と よく綺麗ごとを 聞くが、

この世界には 平等な事なんて 何一つ ないんだ。

 

この世界は 理不尽な物事で 満ち溢れていて、

不平等だからこそ 人間社会は成り立っているんだ…。

 

僕は 平穏な人生を送りたい。

ただ それだけが望みだったのに…。

 

 

次から次へと 襲い掛かる、

不幸や 災難と 闘うだけの21年間で

次第に 僕自身を 見失っていった。

 

新しい土地に 引っ越しても、

今までの 冷たい言葉、一人ぼっちで 

暗闇を、さまよい続ける日々が 

永遠に 続いていくだけだった。

 

たまたま 立ち寄った コンビニで 

手に取ってみた 漫画に、

このような 主人公の台詞が書かれていた。

 

「 理不尽な人生に 立ち向かうには、

自分が 理不尽な存在に なるしかない…。」

 

 

 

 

 

学校で 壮絶な いじめを受け続けてきた 

高校生の主人公が、ある日 突然、

いじめの首謀者だった 女子生徒を 鎖で繋いで 

監禁し、ひたすら 拷問をして 苦しめていくという、

過激な 内容の物語だった…。

 

大人しい性格で、何をされても 

調教された 犬の様に 従順だった、 

主人公が 自分の中に 眠っていた暴力性を 

エスカレートさせていく 前半から 

次第に 物語が一転して 進んでいきます。

 

後半になると いじめを計画し、主人公を

陥れた 本当の黒幕が 明らかに

なっていくという 謎解きに 変わっていきます。

 

 

いじめの首謀者だと 今まで 思い込んでいた、

女子生徒も 実は 自分と同じような 

心の傷を負った、被害者だったと知り、

ふたりの人生を 弄んできた 黒幕の男との

戦いへと 武器を手に取り 身を投じていきます。

 

「 いじめられている時は 今日も 試練に耐えられた…。

僕は頑張った…、と 終わった時に

妙な 達成感を 感じるんです。

 

そんな無意味な 自己満足…、

そんなモノは 何の意味もない、

我慢しても、奪われていく だけなのに。

理不尽な人生を 殺すには、

俺が 理不尽になるしかない…。 」

 

 

監禁してから わずか数日で

怒りのあまり、黒幕たちを 容赦なく 殺戮していく 

「 怪物 」へと 主人公は 目覚めていったのでした。

 

この 過激な暴力表現に あふれた物語の結末は

元の日常へと戻った 主人公が、

監禁されていた 女子生徒と 

お互いの心に抱えてきた、深い傷を 分かち合い、

手を取り合って 前へと進んでいく、

希望に 満ち溢れた ラストシーンでした。

 

「 最後には 幸せになる事が、

僕たちの 理不尽な人生への復讐。 」

この言葉に なんだか 救われた様な 気がしていました…。

 

 

終わりの見えない 長く 苦しい旅路の中で

いつも 安らぎを求めるのは、お母さんの愛情でした。

 

子供に 一番必要なのは、母親の愛情です。

 

乳がんと 姉の暴力で、

苦しみながら 亡くなった、僕の お母さん…。

僕に 少しだけ、愛情を 与えてくれて 

消え去って行った 近所の お姉さん…。

 

映画の世界の中で 出会った、

どんな 困難が降りかかっても、

子供に 精一杯の 愛情を注いでくれる 母親たち…。

 

 

僕は ただ、お母さんの 愛情が欲しかった…。

 

         「 ローズ 」

                作詞作曲 アマンダ・マクブルーム 引用

 

「 夜が 耐え難いほど 孤独で、

 道が 遥か遠くに感じる時、愛は 幸運な人や、

 強い人にだけ、与えられると 思った時

 

 どうか 覚えていて…。

 

 冬の厳しい寒さを 雪の下で 耐えている種が

 太陽の愛を受けて、

 春には バラの花を 咲かせることを…。 」

 

         「 春の季節を思い描いて…。 」

 

 

宮城県にも 紅葉が美しい、

初秋の季節が 近づいてきました。

 

多賀城市の となりの、港町として 

有名な 塩釜市にある、塩釜教会の 

外国の宣教師の方と 知り合いになり、ある日 

気分転換にと、ドライブに 連れて行ってくれました。

 

海岸沿いの国道を 走り続けて 

目的地に着いた時には もう 午後になっていました。

 

周辺には お店など見かけない、

森林だらけの寂しい場所に 車を停めて、

「 一体 ここは どこだろう? 」 と 見上げると

坂道を 上って行った先に、

小さな仮設住宅が ぽつぽつと建ち並んでいました。

 

 

東日本大震災によって、住み慣れた自宅も、

ふるさとも 失ってしまった人たちが

賑わっている市街から 遠く離れた、

このような 寂しい場所で 生活していたのでした。

 

もう 津波が発生してから 5年以上もの歳月が流れたのに…

 

ここで 暮らしている人達も 

僕と同じように、帰る居場所を 失くしてしまったんだ…。

 

やりきれない侘しさが 秋風に吹かれて、

さらさら… と 揺れる、すすきの音色と共に 

自然と 胸の奥に込み上げていました。

 

 

宣教師の方は 

「良い運動になるから、いっしょに 

雑草取りを しませんか?」と ビニール袋から 

軍手を2枚 取り出して 言いました。

 

夕暮れになるまで 腰を抑えながら 

仮設住宅の となりの庭の中で、黙々と 

伸びきった雑草を 一本、一本、引き抜いて行きました。

 

仮設住宅で 生活している お婆さんが 

「 いつも ありがとうね。 

これくらいしか お礼は できないけど… 」 と

お菓子や野菜を 分けてくれました。

 

作業を終えて、玄関前に ふたりで腰掛けて 

休んでいると、宣教師の方は ビニール袋から 

お菓子の 「 柿の種 」を 取り出して、

「 お疲れ様だったね。」と 僕に ひとつくれました。

 

 

一口 食べると、ツーンとした辛さが 

口の中に広がっていき 「 この味はなんだ? 」 と 

他のものを見ると、柿の種の製品名の横に、

小さく 「 わさび味 」と 書かれていました。

 

「 美味しいでしょう? 僕も 一口 食べたら 

ハマってしまったよ、 」と 宣教師さんは 笑っていました。

 

一度 食べたら なぜか 癖になる味で、

辺りが暗くなっていく中、しばらく ポリポリと音を立てて

柿の種のわさび味を ほおばっていました。

 

帰り道の途中で 大型デパートに立ち寄ると、

店内のマクドナルドで ハンバーガーを ご馳走してくれました。

 

 

宣教師さんは、自分は お腹が空いていないから…と

僕が 一生懸命に、ハンバーガーに食いついてる姿を 

微笑みながら 見つめていました。

 

僕を 見守ってくれる様な この優しい眼差しは 

遠く、過ぎ去った昔に どこかで 見覚えがあった…。

 

一体、それは 誰の眼差しだっただろうか…。

 

ひと月に 一回だけ、多賀城駅の すぐそばにある、 

宣教師さんの自宅で 「 聖書を読む会 」 の

集まりがありました。 僕以外に 7、8人ほど、

近所で暮らしている、教会の女性達が訪れていました。

 

いつも 元気いっぱいの お母さん達に圧倒されながらも、

みんな 僕の事を可愛がってくれて

この時間だけは 楽しい ひと時を過ごせたのでした。

 

 

宣教師さんの 奥さんが ご馳走してくれた 

手作りのカレーは 今まで 口にした事が

ないくらいの美味しさで、しばらく 

「 もう一度 食べたいな… 」 と 言い続けていました。

 

宮城県で 過ごした半年間で、

唯一の幸福だった 思い出でした…。

 

ですが これまで 経験してきた様に、

ひと月に 一回だけの 集まりなので

他の時間は ただ 一人ぼっちで、見知らぬ土地を 

彷徨い歩く事しか できませんでした…。

 

いくつか、英会話サークルなども 見学してみましたが

人数が少ないので サークル自体が、

もうすぐ無くなると 言われてしまいました。

 

 

ある 福祉施設の所長には 

「他の障害者は、みんな 日常生活も 

まともに送れないほど 苦しんでいるのに 

自分だけ、幸せに なろうとするなよ、

普通の人生なんか 望むなよ、

障害者らしく お前も もっと 苦しめよ、」 

と 散々、嫌味を言われました。

 

この所長に とって、障害者とは 

ほんの少しの 幸せを望む事も 許されず、

常に 苦しみ続けなければ いけない存在らしいです。

 

偽善者の皮を被った、暴力的な 差別主義者たちに 

振り回されるのにも もう 慣れてきていました。

 

 

中国映画の 「 芳華 」 という作品で 

心を打たれた台詞が ありました。

 

70年代の 中国が舞台で、

17歳の主人公は ダンスの才能を 認められ 

憧れだった、軍の文芸工作団に 入団します。

 

文工団とは、兵士たちを 歌や踊りを披露し 

鼓舞する、役割を担う 歌舞団の事でした。

 

母と再婚相手の実家に 居場所がなかった 主人公は

希望に胸を膨らませ、入団したものの

これまでの生い立ちが 貧しい環境で 

育ってきた事から 周囲は 裕福な若者たちばかりの、

文工団のメンバーに 馴染むことができず

次第に 失望感を 感じていくのでした…。

 

 

「 不幸せだった人ほど、純粋な 善を見分け 大切にするのだ。 」

 

裕福な生活しか 知らずに育ってきた、

他の若者達と 自分が 決して 相容れる事は

ないと 気付き、主人公が 文工団を 

立ち去っていく時に この台詞が 語られます。

 

貧しさしか知らずに 育ってきた人こそが、

本当の幸せ、本当に 正しい物事を 

見分け、大切にしていく事ができるのです。

 

僕も この主人公の気持ちが、とても 理解できていました。

 

貧しい生い立ちの人にしか 見える事のない、

美しいものが この世界には、

光の粒の様に 溢れかえっているのです…。

 

 

銀行や 市役所の 様々な手続きで

ほとんど読めない、難しい漢字ばかりの 

書類に目を通して 名前や年齢を 記入しながら

「 僕は 今、何歳 なんだろう…。 

どうして 32歳と 書かなければ ならないんだ? 」 

と 首を傾げて いました。

 

「 僕は 12歳なのに…。 まだ、12歳なのに…。 」

 

半年が経ち、僕は まだ、

雪の降らない宮城で 日常を送っていました。

 

どうしてか、僕は まだ、呼吸をして生きていた。

 

数え切れないほどの 映画や本の物語が 

僕の心の中で 息づいて 生命を与えてくれていた…。

 

 

季節は 紅葉の色が 美しい秋になり、

僕は 七ヶ浜町の海岸で、打ち寄せる波を 

日が暮れるまで 眺めながら

浜辺の歌を よく聴いていました。

 

            「 浜辺の歌 」

                           引用

 

「 明日 浜辺を さまよえば、昔のことぞ 忍ばるる… 

風の音よ 雲のさまよ 寄する波も 貝の色も…。

 

夕べ 浜辺を もとおれば、昔の人ぞ 忍ばるる…

寄する波よ 返す波よ 月の色も 星の影も…。 」

 

昭和の名作 「 二十四の瞳 」 で、唄われていた曲です。

 

 

東日本大震災で 津波に流され、亡くなられた方々に 

別れも言えなかった 両親を重ねて、いつまでも

さざ波の音色に 耳を傾けていました。

 

父さんも 母さんも 会いたくても もう会えない。

どこか遠くへ 行ってしまった…。

 

穏やかな波は、寄せては 返して 

一定のリズムを 繰り返すだけでした。

まるで、悲劇など 何事も なかったかの様に…。

 

僕のせいで 子供を流産してしまった、

近所の お姉さんも 今頃 どこにいるのだろうか…。

 

元気なら もう 60歳近くになっているはずだ。

僕の事は まだ覚えてくれているのだろうか…。

 

 

風の噂では、旦那さんの 仕事の都合も あり、

関東のどこかに 引っ越していったそうです。

 

北海道を離れる前に、旦那さんと いっしょに 

僕の 父さんとも 話し合い 

僕の心に 大きな傷跡を残さない為に

真実を隠し通す事を 3人で決めていたそうです…。

 

父さんは 最期まで その約束を 健気に守り続けていたのでした。

僕を これ以上、傷つけないように…。

 

自分の置かれている状況を 何も 

抵抗する事なく、この穏やかな さざ波の音色に 

身を任せる様に 静かに受け入れていました。

 

親の死に目にも 会えなかった人間なのだから、

当然の ふさわしい末路だと 思っていました…。

 

 

「 別の人間になりたい…。

  私を知る人が 誰もいない場所で。

  

  過去のない人の様に…。 」

                  ドラマ 「 マイ・ディア・ミスター 」 引用。

 

日本三景の松島の 南側に位置し、

太平洋沿岸の海岸に沿って、七つの集落があった事から

「 七ヶ浜町 」と 名付けられた、この街も

東日本大震災が起こった あの日、

太平洋沖地震が 巨大津波を 引き起こし 

10メートルもの津波が、

猛威を振るって 海辺の街を 飲み込んでいきました。

 

小さな半島の様に 海に突き出した地形の

七ヶ浜町は 太平洋に面する、

東、南、北の 三方の海岸から 津波が押し寄せて

瞬く間に、街の面積の 4分の1が 浸水していきました…。

 

 

人気もなく さざ波の音色だけが 流れて来る、

七ヶ浜の 静かな砂浜を眺めた後に

たまに 七ヶ浜町内にある 図書館を訪れて、

夕暮れまで 本を読んでいました。

 

詩集が並んでいる コーナーの本を、

一冊ずつ 手に取っていると、

たまたま 見つけた詩集に

母恋椿という、名曲の歌詞が載っていました。

 

            「 母恋椿 」

                       作曲 白根一男 引用

 

「 夢の古巣に 待つものは 昔恋しい、山と河

 

お母さん、お母さん、呼んでみたとて 

泣いたとて、母は帰らぬ 空の星…。

 

 

ひと目逢いたい 母さんは、今や この世の人じゃない。

 

お母さん、お母さん、情けあふれる 

白椿、僕を残して なぜ散った…。

 

優しい面影 胸に抱き、今日も続ける 歌の旅…。 」

 

母恋椿の歌詞は まるで 見知らぬ土地で 

ひとり、あてもなく、小舟に乗って 漂っている様な

僕の心情を 歌ってくれているみたいで 

涙が 溢れてきました…

 

この詩集を 借りてからは よく 七ヶ浜町の

砂浜で、太平洋の海を 見つめながら 

母恋椿の歌詞を 何度も 読み返していました。

 

 

このまま 一人ぼっちで 誰にも 看取られずに

アパートの部屋で 孤独に死んでいくよりも

両親が残してくれた お金があるうちに

たった一人でも そばにいてくれる人を 探した方がいい…。

 

仙台市内の メンタルクリニックで 

ようやく 僕の 今までの事情に 耳を傾けてくれる、

親切な医師と出会って、何度か お話すると

障害者手帳と 障害年金の、診断書を書いてくれました。

 

高校の担任だった 楠田先生は 

自身も 脳卒中で倒れて 重い身体障害を持ち、

左半身が麻痺したままの 

辛い闘病生活を 送りながらも 

今も 僕を見捨てずに、心配して 連絡をくれます。

 

 

教職を辞めてからは、もう 一度 

大学に入り直し 障害に挫ける事なく、

前向きに 新しい勉強を 学び始めています。

 

父さんと 同じ年齢で、

まるで もう一人の 父親の様に 慕っています。

 

映画化も された、愛読書の 

「 恋は 雨上がりのように 」 は

陸上部のエースだった 17歳の女子高生が、

怪我を負って 走れなくなり 挫折していた時、

自分を 励ましてくれた、40代の 

ファミレス店の店長に 片思いする物語でした。

 

 

告白された 店長の男性は、

学生時代に 小説家になりたい夢を

追いかけていた頃を 思い出し、

自分の 若かりし頃の想いを 託すかの様に、

17歳の少女に また走って欲しい、との 

思いから かけた言葉は

僕が 言われている気がしました。

 

「 君にも あるんじゃないのか。

待たせたままの 季節の続きが…。」

 

その言葉を 聞いた少女は、

こぼれ落ちる 涙と共に 溢れてくる想いを、

一言の台詞で 表します。

 

「 … 走りたい。 」

 

 

ショーシャンク刑務所から 脱獄を決意した 

アンディは 友人レッドに こう 告げます。

 

「メキシコ人は、太平洋をなんて 呼んでるか 知ってるかい?

太平洋の別名は 「 記憶のない海 」。

そこに住みたい、記憶のない場所に…。

 

海岸に ホテルを建て、古いボートを買って

客を乗せて 釣りに出る。 妻を撃ってなんかいないが、

十分すぎるほど 償いをした。

ホテルやボートなど、ささやかな夢だ。」

 

小さな ロックハンマーで、20年間 

掘り続けた 独房の壁から 雷鳴と 大雨の中、

下水管を 400メートル 川まで 這って歩き、

アンディは ついに 自由を手にしました。

 

 

そして、所長のため込んだ 不正蓄財4200万を持って

太平洋の どこまでも 青い海へ…。

 

「 レッド、希望は素晴らしい。何にも 替え難い。 」

 

彼は 自由に 飛ぶべき鳥だったんだ…。

 

ある女性の noteを 読ませて頂いて、

惹きつけられた 優しい言葉がありました。

 

「 音も 光も なくなったって、

あなただけは あなたがいる事を、

あなたとして 生きている事を 解り続ける事ができる。

 

音楽も 映画も なくたって、あなたは美しかった。

あなたの世界は 美しかった。

 

 

それを 本当に 破壊されきってしまう事だけは、

どうしても 駄目だというのが 赤の他人の 私からも 

大声で 叫ばずには いられない願いです。 」

                                 引用

真夜中の コンビニ帰りに、

街灯に照らされた 暗がりの道で

スマホの画面越しに 伝わってくる 優しさが

僕の心の痛みに そっと触れていました。

 

僕は 覚悟を決めて、

日本中から 名医の集まる東京で、

治療に 専念するためと、良い出会いを求めて

おととしの12月に 横浜市に 引っ越してきました。

 

小さな出会いから、徐々に 広がっていくといいのですが…。

 

 

「素晴らしきかな、人生」 の 

ジェームズ・スチュアートみたいに、

最期の時が 訪れるまで、

誠実さと 良心を持ち続けていけたら…。

 

本当の悲しみは、全ての闘いが 終わった後に

嵐の様に 僕の身に 訪れるのだろう…。

 

今は 小さな物事ですら、満足に 考えられないほど 

心が弱って、追い詰められている状況だからです。

 

身体が回復し、いわゆる、一般的な幸せを

望める 豊かな人生が 送れるようになった時に 

その時に 初めて、これまでの 

23年間もの悲しみが 火山が噴火する様に、

どっと 噴き上げてくるのだと 思っています。

 

 

その時、僕は 正気を 保っていられるのでしょうか…。

 

「 この 長旅の結末は まだ分からない。

 無事、国境を 越せるといいが…

 親友と 再会できるといいが…

 

 太平洋が 青く 美しいといいが…。  

  俺の希望だ。 」

 

             レッド  ( ショーシャンクの空に より )

 

なぜか いつも 恋しくなるのは、

静寂の中、音もなく 降りしきる、 

真綿の様な 雪と きれいなものも 汚いものも、

何もかも 真っ白に 塗り替えられた情景でした。

 

 

心の中で 今も、遠い故郷を 思い続けているのでしょうか…。

 

          「 切なき思ひぞ 知る 」

                             引用

「我は 張り詰めたる 氷を愛す

斯る 切なき思ひを 愛す

 

我は その虹のごとく 輝けるを見たり

斯る 花にあらざる 花を愛す

我は 氷の奥にあるものに 同感す

 

その剣のごとき ものの中にある 熱情を感ず

 

 

我は つねに矮小なる 人生に住めり

その 人生の荒涼の中に 呻吟せり、

さればこそ 張り詰めたる 氷を愛す

 

斯る 切なき思ひを 愛す。」

 

僕も この詩の様に、凍り付く 冬の季節でも、

その中から 美しいものを見出し、

耐え忍んでいく日々が 続いても、

常に 誠実な心を持ち続けたい。

 

氷の奥にある、切なき思いを 大切にできる人でありたい。

 

 

2月になった ぽかぽか陽気の小春日和に

なんとなく 思い立って 

新川崎駅まで、散歩をしに 出掛け

何かに導かれるように 駅前の通りから 

滑らかな坂道を 上っていくと 街中を見渡せる、

小高い丘の上に 一本の桜の木が ありました。

 

幹が太く、長い枝の先まで 一輪の花に 

10枚程度の花びらが、見事に 咲き誇っていました。

 

まるで 僕に向かって 両手を広げて、

「 ずっと ここで 君を待っていたんだよ。 」 と

優しく 語りかけてくる様でした。

 

 

両親も、学校生活も 故郷の街も 21年間の歳月も、

何もかも 消え去ってしまったけれど…。

 

すみれも もう、いなくなって しまったけれど…。

 

春の季節は どこへも行かずに、

ずっと 僕が来るのを 待っていてくれていました。

 

その背景に見渡せる、のどかな市街地に 

花びらの薄桃色と 澄み切った春空の 

白く霞んだ ほのかな陽光が 

お互いを 譲り合うように 次第に 

ゆっくりと溶け込んで、優しく 降り注いでいきました。

 

 

住宅地の中を、ラケットバッグを 肩にかけた、 

部活帰りの中学生達が 友達と 楽しそうに

会話を弾ませながら 帰路を歩いていました。

 

君たちも 僕も、希望溢れる 人生への一歩を 

まだ 踏み出したばかりなんだ…。

 

灯りのともった 自宅に着くと、

お母さんの 温かい手料理が待っている。

 

土の中では、草木が芽吹く 春の足音が 

「 まだか、まだか、」 と 

すぐ そこまで 近づいている。

 

「 春に 」 を 合唱する、子供達の 

きれいな歌声が 爽やかな そよ風に乗せて 

どこからか 聴こえてくるようでした。

 

 

すみれは もう、どこか遠くへと 

消えていって しまったけど 

きっと、あの娘と 同じ様に 透き通るような 

大きな瞳をした、優しい女の子が 

ここから 見渡せる 街並みの中にも

たくさん 暮らしているのだろう…

 

すみれは 最後に 消えていった時、

かすかに 口元が動いていたけど

どんな 言葉を ささやいたのだろう…。 

 

今なら、あの時 聞こえなかった 言葉が

はっきりと 僕まで 届いていた。

 

「 また いつか、どこかで 私と出会ってね…。 」 

 

 

きっと すみれは 最後に 

僕に向かって、微笑んで くれたんだ…。

 

僕が 希望を捨てずに、

春の季節が 巡って来るまで

生き続けてくれる事を 信じてくれていたんだ。

 

「 この場所から もう 一度、

本当の幸せを 探していこう…。小さな幸せを…。 」 

 

僕は ベンチに腰掛けて、いつまでも 

新しい季節の始まりを 眺めていました…。

 

 

これが まとめてみた 僕の21年間です。

 

とても個人的な 辛いお話ですが、

最後まで 読んで頂き、ありがとうございました。

 

僕と 初めて 会った方々は

「 辛い人生を 過ごしてきたのに、

穏やかな人柄なので 驚きました。 」 と 言ってくれました。

 

もし そう 見えるのなら、僕が 今日まで 

どんなに 他人に傷つけられても 

非難されても 誠実な人間でいようと、

闘い続けてきたのは 無駄では なかった。

 

これから いい出会いがあると、信じていきたいです。

いつか訪れる 春の季節を 思い浮かべながら…。

 

 

横浜市に 引っ越ししてから 

すぐに10件ほど、都内の名医に 

診察を受けたのですが 今までと 同じく、

なかなか 治療法が 見つからないとの事でした。

 

まだ しばらく 闘病生活は続いていくと考え、

まずは 何よりも 一人ぼっちで 

暗闇の中を 歩くのは もう やめよう、と思いました。

 

僕の 今までの半生を、手紙や 

本などに 包み隠さず 書き綴り、

たくさんの 心優しい人達に 知って頂いて

応援して もらえたなら…。 

との すがるような 想いでした。

 

 

12歳から どんなに、辛くても 寂しくても

癒える事のない 疼痛で 苦しんでも、

心の支え どころか

会話してくれる人さえ ほとんど いませんでした。

 

宮城県の医者には

「 障害者なんかに、友達や 話し相手は 

贅沢だから 必要ない、 」 とまで 言われました。

 

数多くの 心無い人達に

「 普通の日常を送るな、幸せな人生を望むな、 」 

と 罵倒されて きました。

 

心ない人達は たった一日も、

痛みも 孤独も 苦労した経験もなく、

贅沢しか知らずに 生きてきたので

人の痛みや 苦しみが まったく 理解できないのです。

 

 

横浜市に 引っ越して来てからも

社会に、上手く適応できない 若者を支援する、

「 若者の居場所 」 には

「 障害者は 面倒だから よそに行って、 」 と

断られて、様々な事情に より 

あまり 学校に通えなかった、若者たちに 

教育のサポートをする 団体には

これまでの12歳からの 全ての事情を お話しても

「 君は もう、大人だから どこか別の場所に行って、」

と 冷たく あしらわれました。

 

僕は いくら、12歳から ほとんど 

学校に通えなかった、と 説明しても まともな教育を 

受ける事すら 許されませんでした…。

 

 

本当は 誰でも 平等な人生を送ったり、

幸せを望む 権利は あるはずです。

 

僕も 今まで 苦しんできた分、

これからは 誰かに頼ったり、甘えられたり、

友達や そばにいてくれる人に 

支えられて 幸せな人生を送れたら…。

 

少しでも 12歳から 

失った歳月を 取り戻していけたら…。

 

それが 一番の願いです。

 

失った歳月を 取り戻していくという事は、

自分自身の心を 取り戻していく事でも あります。

 

 

約20年間にも及ぶ、

一人ぼっちで 暗闇の中で 過ごした時間、

約20年間の 取れる事のない 痛みとの闘いの日々…。

 

たくさんの人に 傷つけられたり、障害を持ってから 

非日常の中で 味わってきた、数えきれないトラウマ…。

 

治療法が見つかり すべての闘いを終えたら

誰かに そばで 支えてもらい、

20年分、身体も ゆっくり 休めたいです。

 

これから 何十年も かけて、

心と身体に負った傷を 癒していきたいです。

 

 

痛みの治療法が 見つかるまで 

まだ しばらく時間が かかり、

これからの生活費や アパートの家賃、

病院の医療費なども 払っていき、

経済的にも 苦しくなってきています。

 

これからも 長い期間の治療や リハビリ、

何回も 難易度の高い手術が 必要になり、

ほとんど 前例がないため 保険が効かず

手術費用だけでも 20~30万円も、かかってしまいます。

 

障害が治ったら 大学に通いたい夢があるので

少しでも お金は 節約して 残したいです。

 

あまり 知識もないので 様々な手続きや 

日常生活の事で、分からない事が 多く

そばで 教えてくださる方がいると 助かります。

 

 

ご迷惑を おかけする様で すみませんが、

雪の降らない 暖かい地域で 

たくさんの心優しい人と出会い 多くの 

サポートや支援、誰かの助けを 受けられたら 

心から 嬉しく思います。

 

これからは 一人でも多く、

たくさんの人達に 僕の障害の事を 知って頂き

交流していきたいと 希望を持っています…。

 

お手数を おかけいたしますが、

この 小さな物語を 読み終えた後、

ご家族や 仲の良い友人、知り合いの方などへ、 

 

 

「 こんな半生を 送ってきた 青年がいて、

友人や 支援してくれる人を 求めているよ。 」 と

メッセージなどで 次々と 広めていって 頂けると 

とても助かり、感謝いたします。

 

「 メールアドレス    wataru_w0626@yahoo.co.jp 」

 

「 松下 航 」 の名前で フェイスブックも しています。

プロフィール画像は ひな人形 の写真です。

 

どちらでも 気軽に メッセージを頂けたら 嬉しいです。

どうか、よろしく お願いいたします。