僕は この世界に存在してはいけない、
もう、この世界から 消えなければ…。
となりのおばさんが 気付いて、
暗闇に包まれた 静寂の世界に すべての悲しみを
覆っていく様に とめどなく 雪が降りしきる中、
僕のとなりに 腰掛けて 震えながら
深夜なのに そばにいてくれました。
いつまでも 暗闇に 降り注いでいく雪が、
僕には いつしか、死の灰に見えてきた。
映画 「 シンドラーのリスト 」 でも描かれた、
アウシュヴィッツ収容所で、
ガス室で殺害された、女性や子供の遺体を焼く、
焼却炉の煙突から 夜空に舞って、
死の灰が 街中の 辺り一面に 降り注ぎ、
モノクロ映画の様に 白く染めていく…。
もう 決断する時は 来ていました。
今まで 先延ばしに してきただけだった。
もう 終わりにしよう、せめて
雪の降らない 暖かい土地で、海でも 眺めながら
心穏やかに 人生の終焉を迎えよう…
そして選んだ土地は 宮城県でした。
20歳頃から、ずっと 暮らしてみたいと言っていた場所。
「 …「 人生は 楽しむ前に苦しみがある 」 と 父さんは言った。
人生、若い時は楽しいはずだ、
最悪の部分は これで終わり…。 これからは 良くなるだけ。
俺は 年寄りじゃない、だけど 年を取った…。 」
( 映画 シンレッドライン より )
部屋を掃除していたら、小学生の頃
卒業式の半年前に、思い出作りに 8mmのビデオカメラを
学校に持っていき、友達と 撮影していた映像を
コピーした、DVDが見つかりました。
手振れがひどく、画面が揺れてばかりで
とても 見れたものじゃなかったけど、
大きな瞳で 輝いていた頃の 僕が映っていました。
別れの挨拶をする為、市立札幌病院に 行ってきました。
15歳の時、手術をしてくれた 心優しい女医さんと
それから 何度か訪ねて 色々と相談していたのです。
僕にとって、短い時間の ふれあいでしたが
もう一人の お母さんの様な存在だった。
「 私が 初めて 手術をしてから、もう 17年も経つんだね…。」
女医さんに そう言われて、お互い
しばらく 言葉が出ませんでした。
女医さんの顔には しわが いくつも刻まれていて、
髪には 白髪が混ざっており
月日の流れを しみじみと 感じていました。
もう 60歳近くに なるのだろうか…。
父さんと一緒に 初めて この病院を訪れて
緊張で 震えている僕を、
穏やかな笑顔で 迎えてくれた あの日の事を
昨日のことの様に 覚えていました。
あの日は 待合室の窓の外に 目をやると
初雪が ぽつぽつと 降り始めていた。
冬の季節が 訪れても
父さんと 母さんの ぬくもりを、となりで感じられていた。
でも、今は 父さんも 母さんも
二人とも、僕のとなりに いない…。
僕も 確実に 老いていた。
あの頃、診察に来ると いつも 僕を見かけて
「 わたる君、元気にしてる? 」 と
話しかけてくれた 親切な看護師さんたちも
他の病院に 移動になったのか、
辞めてしまったのか、もう 誰一人いなくなっていた。
見知らぬ顔の人ばかりで、誰も、
僕の事を 覚えている人は もう いないんだな…。と
どこか 物悲しい気持ちになりました。
待合室で、母親と並んで
椅子に 腰掛けている、中学生くらいの
子供を見かけ、遠い昔の 自分を重ねて
ぼんやりと 見つめていました。
「 長い年月が経ったね。今まで
苦労してきたよね…。 いつになったら わたる君に
安らぎが 訪れるのだろうね…。 」
僕も 女医さんも 今までの歳月が
胸に込み上げてきて、二人とも、気づいたら
自然に 涙がこぼれていました。
短い会話の流れから、僕が これまで
背負い続けてきた 重荷を感じ取ってしまったのか、
女医さんの となりにいた、見知らぬ
若い看護師さんも 懸命に 涙を拭っていたのが、
いつまでも 心に残っていました。
それは 思いやりと優しさに 満ちあふれた 美しい涙でした…。
市立 札幌病院とも、思えば 長い付き合いでしたが お別れでした。
広々とした 吹き抜けのホール、
待ち時間に 読書をして くつろいでいた、
日当たりのいい 窓際のテーブルとイス、
短い時間だったけど、僕の育った居場所。
さようなら…。
引っ越しする直前に、去年の秋頃に 知り合った、
近所の プロテスタントの教会の牧師に
「 生活が追い詰められて しまったので、
仕方なく 引っ越す事になりました、 」
と 素直に 事情を打ち明けました。
途端に 穏やかな表情が 別人の様に変わり、
「 これまで 優しくしてやったのに、
お前には 感謝の気持ちは ないのか、
どうして お前は わがままで 身勝手なんだ
お前みたいなやつは さっさと 教会から出ていけ、 」
と 唾を吐きながら 怒鳴り散らされ
無理やり 追い出されました。
こちらの言い分など 何も聞かず、一方的に
抵抗できない障害者を 悪者だと決めつけて
気のすむまで 罵り続けたのです。
感謝もなにも、日曜日の礼拝に
たったの数回だけ 訪れて
わずか5分、10分ほど お話しただけでした。
牧師に理不尽に 怒鳴り散らされている間、
僕は 怒りを通り越して 言いようのないむなしさが
次第に胸の奥に込み上げてきた。
この牧師は 貧しい人々を救うと言っておきながら
これっぽちも 貧しい人の気持ちが分かっていないんだ…。
今まで 僕を あざけり 蔑んで、遠ざけてきた、
恵まれた人間達と 同じ、
お金と贅沢しか 知らない人間なんだ。
痛みも孤独も 貧しい生活も たったの一日も
経験した事がないから 理解できないんだ…。
結局、この人も 社会的弱者の苦しみなど、
まったく 理解できない人でした。
あなたの仕事は 聖書の教えを守って
貧しい人々を 助ける事ではなかったのか。
教会は 親のいない子供や 障害者を
いじめて 追い出すような場所なのか…。
本当に 貧しい人間には 救いなど何もなかった。
冷たい風が いつまでも心の奥に 吹き荒れていました…。
僕の様な 「 社会の底辺 」の存在は、
20年間も 痛みと孤独に耐えるだけの
人生を送ってきても、たったの数回、
たったの5分、10分 誰かと 会話しただけで
「 学歴もない、親のいない障害者のくせに
わがままだ、贅沢だ、 」 と
非難されて しまうのでした。
誰かに頼る事も 甘える事も 決して許されなかった…。
近所迷惑も考えられずに 深夜に
大声を上げて 泣き叫びながら 帰宅しました…。
ペットの散歩を している人に
「 君、どうしたの?何かあったの? 」 と
声をかけられましたが 何も答えられず
近所中に 響き渡るほどの大声で
道に迷った 幼い子供の様に
いつまでも 泣き続けていました…。
「 学歴がない、親がいない、病気や障害がある…。 」
どれか ひとつでもあるだけで ひどい差別を
受けている人は この世の中に たくさんいます。
僕は この不幸を 3つとも、背負って生きてきたので
その何十倍も ひどい差別と偏見を 受け続けてきた。
歴史を振り返ると 奴隷にされた
貧しい人達だって、毎日 人とふれあい
誰かと会話をするし 家族や友人もいる。
それなのに 僕は 20年以上 孤独に耐えてきたのに
一週間に一度、たったの30分ほど、会話しただけで
「わがままだ、何様だ、」と 怒鳴り散らされた。
ひどい時は 一ヶ月に一度、たったの5分ほど
会話しただけで 「厄介者の障害者、どこかに
行けよ、」と 馬鹿にされた。
奴隷たちよりも 遥かに ひどい扱いを受けてきて
ただ 一人ぼっちで耐え続けるしかなかった。
翌日から 激痛で 起き上がれなくなり
一ヶ月以上も 布団の中で 寝込んでしまいました。
さすがに 僕の姉でさえも、
その話を聞いて 驚いていたらしく、
「 そんな 頭のおかしい人間には 二度と近寄るなよ、 」 と
わざわざ 連絡をくれたのでした。
誰も会話してくれる人が いないので
やむを得ず 電話の悩み相談に かけてみました。
「 僕は 誰かと交流したり、
会話する事も 許されないのでしょうか?
僕が おかしいのでしょうか… 」 と
消え入りそうな声で 聞くと 紳士的な
おじいさんの声で 優しく 語りかけてくれました。
「 君は 何も おかしくないよ。
当たり前の幸せを望んでいる、誰よりも 普通の人だよ。
非難する周りの人達が 頭が おかしいんだよ。 」
と 言ってもらえて、言葉も出ずに、
ただ うん、うん、と頷いていました。
一ヶ月間、そばにいてくれる人も、
心配して 連絡をくれる人も 誰もいなくて、
真っ暗闇の中で 布団に くるまって
痛みで、うめき声を 上げ続けていました。
全身麻痺になり、26年間も 首から下が動かないまま
寝たきりだった、ラモン・サンペドロの様に
僕も 真夜中に、誰もいない家の中で
大声を上げて 泣き叫んでいた。
「 どうしてだ、どうして 僕は みんなの様に、
自分の人生に 満足できない、
どうして 僕は死にたいんだ、なぜだ、なぜなんだ、 」
暗闇に向かって、いくら 叫んだところで
答えなんて 帰って来るはずは なかった。
15歳の頃、東京の大都会の中を
なぜ、自分が ここにいるのかも 分からずに
さ迷い歩いていた時に、出会った、
聖書の様に 大切にしていた本の
難病で苦しんでいる子供の お話を 思い起こしていました。
英国の 裕福な貴族の家庭に 生まれ育った少年は
治療法が何もない、未知の難病にかかると、
贅沢な生活しか 興味がない両親に
人里離れた施設に 置き去りにされたのでした…。
真っ暗な病室で 誰も そばにいてくれない…。
医者も看護師も 苦しんでいる僕に 何も出来ない…。
ようやく 馬鹿な僕も 気付いていった。
「 僕は 生まれた時から 一人ぼっちだった。 」 と…。
5月になり、ようやく 地元を旅立つ時がきました。
北国の 遅い春の訪れを 感じさせる、
爽やかな風が 吹いていました。
あのまま、他の子達と 同じように、
ありふれた日常を送っていたら、
高校、もしくは 大学を出て、
20歳前後で この街を離れていたはずだ…。
小学校の同級生たちは みんな、北国の
冬を嫌って 東京など、雪の降らない関東方面に
巣立っていき、もう 誰一人 残っていない。
僕だけが この街に置いてけぼりになって 取り残されていました…。
幸福だった 最後の日々を過ごした、
北の台小学校は 校舎の老朽化で
改修工事が行われていて、壁の至る所が
頑丈に 補強され、まるで 手術をして
つぎはぎの身体に なってしまった様でした。
校舎の裏に周り、放課後、
いつも みんなの溜まり場になっていた、
体育倉庫の 窓を覗くと
片隅に 壁掛け時計が置かれていて、
コチコチと 秒針が 時を刻み続けていた…。
僕の時の歩みは 12歳で 止まったままだけど、
20年の月日が経過した 学び舎の中で、
秒針は 前に向かって
とどまる事なく 進み続けていました。
古ぼけた木造校舎は 子供達を 優しく 見守りながら
緩やかに年齢を 重ねていっている様でした。
古くなった市役所も 取り壊しが決まり、
父さんの思い出が詰まった建物も
端の方から 少しずつ 解体されてしまっていた。
いつから 計画が進んでいたのか 分かりませんが
同じ敷地の中に 建物全体が ガラス張りの、
いかにも現代的な 小綺麗な 新庁舎が
新しい、街のシンボルとして 建設されました。
引っ越しの住所変更などの 手続きをするために
新庁舎を訪れてみると 広々とした建物の中は まだ
空きがあるスペースが 多く ガランとしていて、
どこか寂しげに 僕の眼には映っていた。
最上階は 喫茶店になっており、
テラス席まで 用意されて 市民の憩いの場として
親しまれる様に なっていました。
テラス席で 北広島の街中を見渡しながら
紅茶を飲んで くつろいでいる市民の方が ちらほらいた。
古びたビジネスホテルから 高級ホテルみたいに
様変わりしてしまった庁舎内を 歩き回っていると
ワクワクする気持ちよりも 言いようがない悲しみが
徐々に 胸の奥に込み上げてきた。
この場所には 父さんがいない、どこにもいない…。
お父さんが 僕を育てるために 毎日 勤めていた
市役所の建物は もう 消えてなくなってしまったんだ…。
お父さんは 本当に、この町から いなくなってしまったんだ…。
庁舎内で 辺りを見渡しても、父さんと親しかった
同僚や 葬儀に来てくれていた
友人達も 見かける事はなかった。
みんな、もう定年退職で 辞めてしまったのだろうか。
子どもの頃、放課後になると みんなの秘密基地になっていた、
「 風の子公園 」の 木造のアスレチックは
長い年月 雨風に打たれて 木片が腐ってきたので
取り壊されて、代わりに 冷たい金属製の鉄棒や
ブランコが 殺風景の中に 無造作に たてられていた。
町はずれにある、今となっては 誰一人
子供たちが遊びに来なくなった 風の子公園の
面積のほとんどは 高齢化で増えた、
お年寄りの方達のための
ゴロッケ場に 造り替わっていた。
小学生の頃、木製のアスレチックを 秘密基地にして、
日が暮れるまで お互いの悩み事や 将来の夢を語り合った事…
木の板のひとつひとつに マッキーペンで
好きな女の子の名前を ハートマークで囲った、
相合傘の落書きや 少年ジャンプの マンガの絵を
書き綴っていた事を 覚えてくれている、
あの頃の友達は 誰か一人でも 残っているだろうか。
いつの間にか 僕らの大切な居場所だった秘密基地が
取り壊されて 無くなってしまった事を
知っている友達は 一人でもいるだろうか。
風の子公園の事も もう みんな忘れてしまったのだろうか…。
僕にとっては ランドセルを背負って
北の台小学校に 通っていたことも
風の子公園の秘密基地の事も
昨日の出来事の様に 鮮明に記憶しているのに。
引っ越しの準備をするために 古くなった
ソファーや タンスを、広い車庫に運ぼうと
玄関前で 作業していると すぐ隣のアパートに
住んでいる、中学生の女の子が
「 もうすぐ 引っ越すんですか? 」 と 話しかけてくれました。
あの、お姉さんの様に 想っていた女性が
暮らしていた アパート…。
「 宮城県の多賀城市に 移り住むんだよ、 」
と 一息ついて 告げると
「 多賀城市なら 小さい頃に 引っ越していった、
友達が暮らしてますよ。
生活が慣れるまで 一人で 大変だと思うので、
よかったら、紹介しましょうか? 」
と わざわざ 気を使ってくれました。
「 心配してくれるのは 嬉しいけど、
30歳を過ぎた おじさんが、中学生くらいの女の子と
一緒にいると、それだけで 通報されてしまうよ。 」
と 冗談交じりに 言うと
「 えっ、大学進学のために、引っ越すのかと思ってました…。 」
と 驚きの表情を 浮かべたので、
ふたりとも 一瞬、間を置いた後、笑ってしまいました。
その女の子は、僕が 何事もなければ
3年間 通うはずだった、東部中学校の生徒だったので
約15歳も 年下の後輩に あたるのでした。
卒業式の数日前に、2年生の頃に編入した、
緑陽中学校に 戻って来れて 校舎の玄関で
3年間の学校生活を 何もかも 奪われてしまった…
と 泣き続けていた、思い出したくない
中学校時代の 悲しい記憶。
あれから もう 約15年間も
月日が流れてしまって いたんだ…。
月日の流れは、本当に 残酷なほど
あっという間に 過ぎ去っていました…。
15年以上も前に、卒業するはずだった 東部中学校は
現在 どうなっているのか、色々と質問すると
ひとつひとつ、丁寧に 答えてくれました。
全校生徒数は 600人も いた頃から、
少子化の影響により 550人ほどまでに
わずかですが 減っていました。
校内で起きている、非行や いじめの問題は
僕が在籍していた頃よりも 遥かに
ひどくなっていて、数年前には ある生徒が、
ひどい いじめを受けていた事を 教師たちが
表面化させない様に もみ消していた事が判明し、
新聞に でかでかと掲載されてしまった、事件があったそうです。
中学校生活の思い出話を 聞かせてもらいながら
どこか 懐かしい気持ちになっていました。
この街を 離れる直前に 最後の最後になって、
ようやく 短い時間だけれど、
本当の中学生に なれた気がしていました…。
「 これから 剣道部の練習があるので、頑張ってきます。 」 と、
大きな竹刀を 軽々と持ち上げて、女の子は
中学校の方角へと 歩き去っていきました。
年齢の離れた後輩の 後ろ姿を 見送りながら
「 これから 大人になっていく 道のりの間に、
たくさんの困難が 待ち受けているけど負けないでね…。 」 と
心の中で 何度も つぶやく様に
エールを送っていました。
いつも DVDを借りた 帰りに立ち寄っていた、
ゲオの前にある、セブンイレブンの店員さんに
「 もうすぐ 引っ越すので、
このコンビニに 来るのも 最後になるんですよ…。 」
と なんとなく 話しかけてみると
「 そうなんですか? いつも 立ち寄ってくれていたので、
なんだか 淋しくなりますね…。 」 と
心配そうに 言ってくれました。
12歳の頃から 毎日の様に、ゲオに通っていた僕の事を
店員さんは ちゃんと覚えて くれていたのでした。
引っ越しの作業をしていると、
犬の散歩をしていた 見知らぬ お婆さんたちが、
「 わたる君、どこかに引っ越しちゃうの? 」 と
話しかけてきました。
この人達は 初めて見る顔だけど、近所の人かな? と
想っていると 「 お姉さんや親戚の人は、
一体 何をやっているの、」と 聞かれました。
「 …実は あの人達が 引っ越す原因なんです。 」
と 後ろめたい口調で 話すと、
「 そっか、面倒を見てくれていると、思ってた
身内の人が、本当は とんでもない黒幕だったんだね… 」
と 心から 心配してくれました。
「 この辺りは、もう お年寄りばっかりだから
若い子がいなくなると、もっと 寂しくなっちゃうよ…。 」 と
残念そうに、僕の手を握って
「 これからも しっかり、自分の道を
歩んでいきなさいよ。 」 と 応援してくれました。
顔も よく知らない人達でも、僕の事を
気にかけてくれていた人達は 近所にいたんだ…と
旅立つ日が近づいて、ようやく 気付きました。
北海道を離れる、出発の日の前日に
夕方に 北広島駅まで 出かけていき、
「 明日には 僕は ここから 旅立って、
二度と 帰れないんだ…。」
と 改札前に 立ち尽くしていました。
その時、改札から 出てきた女性に
「 わたる君なの? すっかり 大きくなったね。 」
と 声をかけられました。
その女性は 中学を不登校だった時に、
一時期だけ 通っていた、フリースクールのスタッフさんでした。
とても 面倒見の良い方で、
僕の父さんの お葬式にも 来てくれていました。
フリースクールで 初めて 出会ってから、
もう 約20年間もの 歳月が経っていました。
もうすぐ 60歳になろうとしていた スタッフさんは
札幌市内で 別の仕事について、
慌ただしい日々を 送っていたそうです。
僕は 嬉しさのあまり 笑顔になって、
「 もうすぐ この街を出ていってしまうけど、
最後に 会えてよかったよ。 」と 正直な想いを伝えました。
「 顔つきも あの頃から、ずっと
大人っぽくなってるから、もっと 自信を持ちなさい。
向こうに着いたら すぐに 頼れる人を見つけるのよ。 」
と 30代になった僕を、
元気よく 見送ってくれたのでした。
僕は この街で 暮らしていたんだ…。
この街に、確かに 存在していたんだ…。
荷物を送った後の、何もかも無くなってしまった 家の中で
最後の夜を 一人淋しく 過ごしながら、
自分を 励まし続けていました。
出発の日の朝に となりの家の おばさんが、
玄関前で 見送ってくれました。
「 淋しくなったら、いつでも 帰ってくるのよ。 」 と
心配してくれましたが、
振り返ってみても、思い出深い 我が家には、
僕の帰りを待っていてくれる人は 誰もいない。
駅に 見送りに来てくれる 友人もいない…。
何度も振り返って、名残惜しそうに
僕の後ろ姿を見つめている おばさんに 手を振り続けました。
僕に 最後まで、優しくしてくれたのは あなただけだった…。
自宅は 僕がいなくなったあと
取り壊して、土地も売る事が 呆気なく 決まりました。
姉や親戚から 守ってくれる人も 誰もいなかった。
何もかも 全て 奪われてしまう…。
もう 帰郷する事も できない。
僕が人生に疲れた時、戻れる場所も どこにもない。
生まれた時から この小さな町で 暮らしてきたのに、
街中の どこを歩いても 見知らぬ人ばかり。
30年間 暮らしてきた 故郷を 旅立つには、
あまりにも 寂しい別れでした。
20年前の 輝いていた思い出なんて、
すっかり 色褪せて 記憶の片隅に 眠っているだけだ。
これからも 思い出す事はないだろう…。
駅前の デパートが建っている通りを 見納めに 歩くと
母さんが働いていた、北広島病院は
建物が 老朽化で使えなくなり、
入り口の前に 立ち入り禁止の看板が 置かれていました
となりに ガラス張りの近代的な、
新しい病院が 建設されていました。
廃墟になった 北広島病院の建物を 見つめて、
「 さよなら、母さん…。 」 と
涙声で つぶやいて、立ち去りました。
北広島駅に着くと、改札の前で
立ち止まる事も せずに 電車に乗り込み、
新千歳空港へ 走り出しました。
「 時が癒せない傷がある。 僕は 旅立たなければ…。 」
フロドには 旅立ちを見送ってくれる、旅の仲間達がいた…。
悲しみと絶望に 飲み込まれてしまいそうな時、
そばにいてくれる仲間は 僕には 誰か、いただろうか…。
ロード・オブ・ザリングの ラストシーンを
思い返して、後ろを 振り返りもせず、
流れゆく景色を 見つめながら、
ただ、やるせない喪失感に 駆られていました。
さようなら。ふるさとに さようなら…
僕に、さようなら…。
「 これが 神から与えられた 杯ならば、
とにかく 自分は、それを 飲み干さなければいけない。
僕は ようやく ここまで 孤独に耐えてきた。
これからも なお、耐えなければいけないのか、
まったく 一人で…。 神よ、助けたまえ、 」
( 小説 「 友情 」 ) より。
「 時間が全てなんだ。
何でも 買えるのに、時間だけは 買えなかった。 」
クリント・イーストウッド
5月に 宮城県の仙台空港に 降り立った僕は
杜の都、仙台市の 隣にある
太平洋沿いの史都、多賀城市が 新しい住処になりました。
多賀城市の人口は 6万人ほどで、
仙台駅まで 20分くらいの距離でした。
どこか 僕の地元と 街の景色や
空気感も似ていて 多賀城市を選んだのは
あれだけ嫌っていた 故郷の事を 無意識のうちに
心の片隅で偲んでいたから だったのでしょうか…。
海岸が近いからか、もうすぐ 夏なのに
北国の様な、涼しい風が吹いていました。
ニュースの 天気予報を見ると
「 今年の 宮城県の初夏は
めずらしく 北海道よりも 気温が低くなっています。 」
と 流れていて、思わず 冬の季節を、
そのまま 北国から 持ってきてしまったのかな… と
想像して 一人で 微笑んでしまいました。
12歳から 経験も知識も ほとんどないので
銀行や市役所など、手続きが分からない事だらけで 大変でした。
多賀城市の 最初の印象は
地元より、ずっと「 寂しい場所 」でした。
駅前には 図書館くらいしかなく、辺りは 夜になると
灯りも少なく、歩くのも ためらうほどでした。
塩釜市など 海沿いの港町を 探索していると、
まだ 津波の爪痕が 悲劇を語りかける様に、
歳月の流れを 感じさせずに 残っていました。
東日本大震災の時、津波は 僕のアパートの近くの、
多賀城駅の前まで 迫って来たそうです。
仙台港から 駅までは、2、5キロほどしかなく
多賀城市は 188人もの方が、
津波に飲まれ 亡くなったそうです。
暮らし始めてから いつも デパートに
買い物に出かける時に 通っていた、
国道45号線や 産業道路は
レストランや 電気屋が建ち並んでおり
賑やかな場所に 見えていましたが、
津波の被害が 最も大きく、渋滞していた 車の列が、
逃げる事も出来ずに 流されていったのでした…。
「 雪の世界 」 から
解放された 安堵感はありましたが、
荷物の届いていない 空っぽの部屋で
すぐに 不安が込み上げてきて 隅っこで うずくまり、
朝まで 震えていたのを 覚えています。
「 災難は 誰かの頭上に 舞い降りる。
今回は私だった。だが、不幸が これほど恐ろしいとは…。 」
中学生の頃、よく 観賞していた
映画 「 ショーシャンクの空に 」を 久々に見てみました。
妻と その愛人を 殺害した容疑で、
無期懲役を 言い渡された 平凡な銀行員アンディ。
刑務所に 入れられると、
囚人たちに 日常的に 激しい暴行を受け、
牢獄の中で、誰にも 届く事のない冤罪を
声が枯れるまで 訴え続けます。
偶然にも、冤罪の証拠を 掴みましたが
銀行員の肩書があり、多額の裏金隠しに
アンディが必要な 所長は、
懲罰房に閉じ込めて 抵抗する気力を奪っていきます。
刑務所では 選択肢は 二つ。
必死に 生きるか、必死に 死ぬか…。
…初めて 出かけたのは 日本三景と呼ばれる 松島海岸でした。
遊覧船に乗って、心地よい
潮の香りと 海風を感じながら
「 僕は こんな遠くまで 来てしまったんだ。 」 と
ようやく 実感が湧きました。
福祉の支援を 受けるために
精神科に 相談に行くと、初対面の医師に
「 障害者なんかに、友達や 話し相手なんて
贅沢だから 必要ないだろ、
20年間 耐えたなら、残りの人生も
一人ぼっちで 耐えろよ、 」 と 馬鹿に されました。
あまりにも 理不尽な扱いに、身体を震わせていると
「 ほら、さっさと 出て行けよ、」 と
手で追い払う 仕草をされました。
市役所では、どこの課だったかは
忘れてしまいましたが 初めは 職員の二人とも、
にこにこ 微笑んでいたのに
僕の事情を お話すると、
「 君の 20年間の 痛みや孤独なんか
どうでもいいんだよ、何でもいいから
さっさと働けよ、 」 と 顔を 醜く歪めて
ねちねちと 罵り続けてきました。
にこにこ顔からの あまりの豹変ぶりに 僕の眼には
なんだか人間に化けている、化けタヌキに見えていた。
ねちねち 小言を言われている間、
脳裏に 思い浮かんでいたのは
ジブリアニメの 「 平成 狸合戦 ぽんぽこ 」でした。
二人の職員の顔を 見つめながら
どちらか、片方は キツネなのかな…
と 思わず 考えてしまいました。
アパートの近所の おばさんには、
「 なんでもいいから 相談しなさい。」 と
言ってくれたので 事情を話すと
「 あんたは もう、いい年した 30代の大人でしょう、
お金が もったいないから、今すぐ
治療を止めて さっさと働きなさい、」と 言われました。
線維筋痛症の事も 丁寧に伝えても
「 痛みなんか、心持ち次第で どうにでもなるでしょ、 」 と
あまりにも 支離滅裂で、
滅茶苦茶な事を 言われてしまいました。
心持ち次第で どうにかなるなら、
この世界に 病院も医者も 必要ないだろう…。
相変わらず 激痛で ふらふらと
歩道を歩いていると、通行人の人達に
「 おい、邪魔だ、さっさと歩けよ、」と よく 怒鳴られました。
息切れしながら 歩道の端に座り込むと、
その横を 見知らぬ人達が
僕に 見向きもせずに 足早に通り過ぎていく…。
「 ここは どこだ…。 僕は 今、どこにいるんだ…。」
誰も 何も 答えてくれない。
20年間もの歳月を 理不尽に奪われ
見知らぬ土地に来ても ひどい差別が 待っていただけだった。
新幹線に乗って 東京の病院に行き、
最後に 手術を受けた、品川の形成外科医よりも
腕がいいと 評判の形成外科と、
美容外科のクリニックを 3件、周ってきました。
3人の名医は 頭を抱えて、
「 今まで 何度も 手術を繰り返しているし、
品川の医師が 見た事も 聞いた事もない、
かなり 特殊な まぶたの施術方法を
勝手に 執刀したみたいで、どうやって
修正手術をしたら いいのか分からない。 」との事でした。
これまで 「 見た事のない、痛みの障害 」 と
言われてきましたが お次は
「 見た事のない、特殊な手術法を 勝手にされてしまった。 」
まで 加わってしまいました。
疲れ切った身体で アパートに 帰宅すると
NHKで 安楽死の特集が放送していて、
僕が調べていた、スイスの ライフサークルの
代表の方が出ていました。
難病で、長い間 苦しみ続けていた、
日本人の女性患者に ゆっくりと 注射を打ち、
そのまま ベッドの上で 友人に看取られて
眠っていく様に 亡くなるまでの 映像が流れていました。
この特集は 大反響を呼んで、何よりも
テレビ放送で、人の命が消えていく姿を 目を背ける事なく、
最後まで 映しきった映像は 衝撃的でした。
僕は この特集が終わっても
画面から 眼をそらす事ができず、
しばらく テレビの前で 立ちすくんでいました。
まるで、テレビの中から 死に呼ばれている様な 気がしていた…。
僕は 安らかに 眠りにつく様に、
この世界から 消えたいと 心から願っていました。
最期くらい 痛みから解放されて 自由になりたい…
ただ、安らぎが欲しいと…。
「 昨日までの 私は、自分の道を 見つけられる自信があった。
輝いていた光は どこ?
私のものだった人生は どこ?
でも まだ希望はある。息をしている限り…。
失った日々を 思い出している。
大切な時間を 忘れてしまうなら、倍の お金を払っても
記憶を残したい。思い出を…。 」
( 映画 アナと 世界の終わり より )
アパートの 隣の部屋の住人は、
小学生の お子さんが 2人いる家庭でした。
40代くらいの お母さんが すごく 豪快な人柄で、
夕方になると 学校から 帰って来た、
元気いっぱいの 子供達に
「 ちゃんと 手を洗いなさい、
食事の最中は 大人しくしてなさい、」 と
お説教する 大声が 薄っぺらい壁を通して、
毎晩のように 僕の部屋にも 響き渡ってきました。
僕は 隣の部屋から 生活音や
お母さんの 子供達を叱る 大声が聴こえてくる度に、
「 すぐ隣にも 人が暮らしているんだ。
僕は 一人ぼっちじゃないんだ…。」 と
耳を澄ませて、温かいぬくもりを 感じていました。
ある日、朝方に ゴミを捨てに行くと
隣のお母さんと 顔を合わせたので 挨拶すると
元気よく 答えてくれました。
「 いつも うるさく しちゃってごめんね、
私は 小さい頃から すごく 声が大きくて、
周りに迷惑ばかり かけちゃっているのよ… 」 と
そう言った後、また 豪快に
大声を上げて 笑うのでした。
僕は その飾らない、人懐っこい人柄が
いっしょにいて 居心地良く 感じられて、
顔を合わす度に 少しずつ 世間話をする様になりました。
翌日、いつものように 子供達が 帰宅すると、
「 あんたたち、隣の部屋の お兄ちゃんは
北海道から 一人で来てるのよ、
顔を合わせたら ちゃんと挨拶するのよ、」 と
言い聞かせる声が
しっかり 僕の部屋にも 聴こえてきたので、
思わず 笑みが こぼれてしまいました。
スーパーで 買い物をしているだけで
北海道にいた頃と 変わらず、
痛みで 意識を失い 倒れそうになり、
手荷物を落とす事も よくありました。
自分が 今、大人なのか 子供なのかも分からずに、
月日の流れから 完全に 取り残されてしまっていた。
いつの間にか 何処かに 置き忘れてきた
「 春の季節 」を、時々 思い返していました。
「 虹色定期便 」の すみれ役の少女も、
もう 30歳を過ぎているだろう…。
結婚して 子供も いるかも知れない。
「 君の心へ 続く 長い一本道は、
いつも 僕を 勇気づけた。とても 険しく
細い道だったけど 今、君を迎えに行こう。 」
ありがとう…。 本当に 長い道のりだったけど、
僕は ここまで 歩いてきた。
姉、親戚達とは 契約書を書き 絶縁し、
僕は 21年間の 訳の分からない闘いの果てに、
見知らぬ土地で 完全に 一人ぼっちになりました。
手に取った 契約書には、
「 どこに引っ越しても 自分達が やってきた悪事を
何ひとつ、誰にも 話すな、」と 脅すような 文面がありました。
まるで 暴力団からの 脅迫状を見せられている様だった。
「 こんな お前たちに
都合のいい条件を 認められるわけがない、」 と
僕は 頑なに断り、その文面は 消されました。
親戚の 最期の言葉は、
「 お前は 頭がおかしいから
宮城に行っても 精神科に行け、」 でした。
必死に 耐えてきた僕を、
自分たちに 逆らう人間は 頭がおかしいと
精神病に仕立て上げ、追い出す事に 成功したのです。
「 父さんと 母さんに、最後まで 一言も謝罪しないのか、」 と
怒りで震えていると 姉と親戚は
お互いに 目をやり、にやにやしながら
薄気味悪い、笑みを浮かべていました。
12歳から 今まで、たったの一言も 姉の口から
弟の事を 思いやってくれる言葉を 聞いた事はなかった…。
体調を気遣ってくれる 言葉すら 最後まで 何ひとつなかった。
僕が死んでも 葬儀も 行われない。
お墓さえ 作ってもらえない。
いつでも この世界から 消える事ができると、
波の穏やかな 海を眺めながら 想っていました。
夕陽に 照らされた水面に、
散らばった 光の粒が、さざ波に 揺られながら
いつまでも 眩しく 輝き続けていました。
この光の粒の数と 同じくらい、
未来には 可能性が たくさんあったはずなのに…。
沈んでいく 夕陽を見ていると、
どうして こんなに、物悲しい気分に なるのだろう…。
まるで 僕の悲しみを
代弁してくれている様に 感じていました。
約20年間の 月日が経っても、
相変わらず 壊れた レコードの様に、
「 悲しくてやりきれない 」 のメロディーが
頭の中で 流れ続けていました。
これからも 一生、鳴りやむ事は ないのだろうか…。
この世界には、生まれてきては いけない人間が
確かに存在するんだ…と、
やるせない気持ちと共に
自分の運命を 静かに受け入れていました。
北海道にいる頃から よく聴いていた、
東日本大震災の 復興支援ソング
「 花は 咲く 」 を 震災から、
少しずつ 立ち直っていく 街並みや 人々に
自分の心境を重ねて 耳にしていました…。
歌詞にある、「 真っ白な雪道 」 と
「 懐かしい、あの街を思い出す。」 という 言葉に、
自分の捨て去った 故郷を 思い起こしていました。
「 花は 咲く 」
作曲 菅野よう子 引用
「 真っ白な雪道に 春風 香る…。
私は 懐かしい、あの街を 思い出す。
叶えたい夢もあった。 変わりたい自分もいた。
今はただ、懐かしい あの人を思い出す…。
誰かの歌が 聴こえる、誰かを 励ましてる、
誰かの笑顔が 見える、悲しみの向こう側に…
花は 花は 花は 咲く。 いつか 生まれる君に…
花は 花は 花は 咲く。 私は 何を残しただろう
花は 花は 花は 咲く。
いつか 恋する君のために…。 」
天候に恵まれた日は、電車に乗り ふらふらと
町から町へと 渡り歩き、
仙台駅前の広場で ベンチに腰掛け、
仲間達と 大声を上げて 笑い合っている、
時間を持て余した 暇そうな学生達や
肩を寄せあい デートしている カップルを眺めて、
ひとりきりの 寂しさを ごまかしていました。
痛みが取れて、「 普通の人間 」に ならない限り、
僕は 決して、こっち側の世界には行けない。
光が眩しい…。