28歳になると、僕は ただ 家にこもって 

耐え続けるだけでなく、何か、

自分のできる範囲でいいから 始めてみようと 思いました。

 

訪問看護師さんに 色々と教えてもらい、

札幌市内にある 作業所に通ってみました。

 

喫茶店のキッチンで 3、4時間 皿洗いをしたり、

軽食を作ったりと 軽作業だと 聞いていましたが、

思っていたよりも ハードな場所でした。

 

 

わずかですが 賃金も出て、小さなバイトを している様でした。

 

最後に 手術をしてから 

もう 3年間もの 月日が経っていましたが、

顔の痛みは まったく 軽減される事なく

どれだけ 調べ上げても、

残された治療法は 何一つ 見つからなかった…。

 

この無間地獄から 解放される 唯一の手段は、

潔く 自分の命を絶つこと。 それしかなかった…。

 

もう 充分すぎるほど 痛みに耐え忍んできたから

最期くらい 痛みで 苦しむ事なく、

眠りにつく様に 楽になりたいと思っていました。

 

ひどい人生だったから それくらい、望んでも いいだろう…。

 

 

パソコンで 安楽死について 色々と 検索していると、

遠く離れたスイスの、ある団体が 目に留まりました。

 

「 ライフ サークル 」 と 呼ばれる団体で、

何ひとつ 治療法もなく、回復する見込みのない、

重い難病や 障害で 救いもなく 苦しんでいる人達に 

ベッドに寝かせて 注射を打ち、永遠の

安らかな眠りに つかせてくれる活動を しているそうです。

 

お金儲けのためではなく、どんな 

重い障害や 難病を抱えている人にも 

命の選択ができて、最後まで 人間の尊厳を 

持たせてあげたい…と、明確な目的のある、

社会的弱者に寄り添った 人権団体でした。

 

 

安楽死を認めていない、他の外国の方たちも 

受け入れていて、日本からも ライフサークルを頼って 

スイスを訪れる患者が 数多く いるそうです。

 

あとの問題は 言葉の違いだけですが、

様々な 外国の通訳の サポートサービスをしている

企業も いくつか見つけたので 

これなら 大丈夫かな、と 思いました。

 

あとは 僕が 実行に移すだけでした。

 

親戚達は 次第に 僕の日常の

ありとあらゆる物事に 口を出してくる様になりました。

 

となりのおばさんに 100円の お菓子を貰っただけで

「 他人からは 一切、何も受け取るな、誰にも頼るな、」

 

 

「 札幌市内まで 出かけて、

話し相手を探したい。 」 と言うと 

「 100円が もったいないから 電車に乗るな、」 などと

僕のために やっていると言いながら、

ただ、やる事なす事に 文句を つけては 

日常の活動を 妨害しているだけでした。

 

「 普通の日常を 楽しく過ごしている、

健康な人達と 交流したい。 」 と 言うと

「 お前は、他の障害者を 差別するのか?

お前の話し相手は 障害者だけで いいだろ、 」 と 

何度も、会話する相手の事さえ 

いちいち 文句を付けられて

さすがに 僕も 怒りを抑えきれませんでした。

 

 

「 それなら 僕は一生、身体の健康な人達と 

会話をしたり ふれあっては いけないのか?

障害者は 普通の生活をしている人と、

交流しては いけないのか?

 

障害者の話し相手は 障害者だけでいい?

一番の 差別主義者は お前だろ、 」 と 

真っ正面から 怒鳴りつけると

親戚のおばさんは 身体を震わせて、

何も言い返せずに 帰っていきました。

 

作業所で 軽作業をしたり、少しずつ 

外を 出歩ける様になったのは

痛みが 治まってきたからでは ありませんでした。

 

 

何年も 耐え続けているうちに、

「 麻酔注射を 何十本も 打っても、

一ミリも 抑えられないほどの 強い痛み 」 で、

顔を両手で抑えて 朝っぱらから 唸り続けて

ベッドの上で のたうち回り、

近所のスーパーで 買い物をしている最中も 

意識を 失いそうになり、食品を入れた 

ビニール袋を 何度も 落としてしまう…

 

そんな 普通の日常を 送っている人なら

すぐに 精神が壊れてしまう様な

痛みとの闘いの日々に 心も身体も、

耐える事に 慣れてきて しまっていたのです。

 

まるで 人間の限界を 遥かに超える、

つらい修行を 何年も乗り越えて 

鍛えぬかれた、少年マンガの 主人公みたいでした。

 

 

「 人間の限界を 遥かに超える。 」 という表現は、

決して おおげさな言い方ではないと 感じています。

 

僕の 顔の痛みを 

「 たいしたことないのに いちいち おおげさだ、 」 と

笑う人が いるのなら、たった 一日でも、

たったの 5分でもいいから あなたも 

この痛みを 経験してみればいい、と 伝えたいです。

 

頑張って 3ヶ月間 作業所に通い続けましたが 

ふらふらで 転びそうになりながら 

やっとの思いで 帰宅し、ソファーに倒れこんで 

買い物もできず、そのまま 翌日まで 

動けませんでした。

 

 

帰りの電車の中で、学校帰りの、楽しそうに 

友達と おしゃべりしている学生達を 眺めて

「 恵まれた 子供達は、

毎日 何の苦労もせずに 遊んでいるのに 

僕だけ 一体、何を やっているのだろう…。 」 

と むなしさが 込み上げていた。

 

他の事は 何も手に着かず、

疲労感だけが溜まって 身体を壊してしまい、

3ヶ月を過ぎてから 行けなくなってしまいました。

 

せめて この孤独からだけでも 解放されたいと、

すぐ隣にある 人口200万人の 札幌市で 

人と出会える居場所を 市役所や 事業所で相談したり、

市内にある 様々な施設を 周って探しました。

 

 

平日の午前中から 人で 溢れかえっている 

札幌駅で 人混みに酔いながら、

この人たちの中にも、何か 話すきっかけが

あれば 友達になってくれる人は

いっぱい、いるんだろうな… と 想っていました。

 

日常の中で、身体を動かした方が いいと思い

別の作業所で 農家に出かけて、

草刈りの 作業をした事もありました。

 

一日中、蚊に刺されながら ただ ひたすら 

何の意味もない、草を 刈り続けていくだけの 

作業をしながら 僕は 一体、こんなところで 

何を やっているんだろう? と

相変わらず 自問自答していました。

 

 

札幌駅の そばにある 「 若者の居場所 」 で

通っている 10、20代の 若者たちと 

交流できる 集まりがあるよ、と 

市民活動センターの職員に 教えられました。

 

参加してみると どこにでも いそうな、 

明るく 話しやすい子たちと、一時間ほど 

お菓子を食べながら 楽しく おしゃべりができました。

 

「 実は 12歳から あまり 

学校に行っていないので、若い人達と 

ふれあうのは、久しぶりで 緊張しています。 」 

と 自己紹介で 告げると、

みんな すごく 心配してくれたので 驚きました。

 

 

「 中学校に通えなかったなんて とても つらいよね。

これからは 我慢してきた分、

思いっきり 人生を楽しまないとね。 」 と 言ってくれました。

 

詳しく 事情を話さなかったので どうやら

僕が 身体が弱くて、中学校に通う事が 

できなかった… とだけ 思っているようでした。

 

それ以上、僕の不幸話を 

わざわざする 必要もないと思い、

何よりも 12歳から、ほとんど ふれあった事も 

会話した事もない 若者たちが

僕の お話を聞いて、心配してくれたのが 

新鮮で 感動すら 覚えていました。

 

 

僕と 年代も近く、同じ月日の流れの中で 

歩んでいる若者たち…。

だからこそ、わずかな事情を 伝えただけで 

すぐに共感してくれたのだろう。

 

「 親のいない障害者は、学校に行くな、

12歳から 一日も 遊ばないで さっさと働け、 」 なんて 

馬鹿なことを わめき散らす若者は どこにもいない。

 

…ですが 次に いつ、みんなで 集まるのか尋ねると、

このような 交流できる集まりは

一ヶ月に 一回だけしか していないと 言われました。

 

一ヶ月に 一回…。

つまり 半年間でも たったの6回しか会えない。

仲良くなるのに 一体、何年かかってしまうのだろう…。

 

 

落ち込んで 結局、それ以来 行く事は ありませんでした。

 

訪問看護師さんは 変わらず 

同じ、40代の男性の人が 来てくれていました。

 

もう 3年以上の付き合いで お互い 

「 会話の話題が 尽きてしまったね。 」 と 

苦笑いしながら、季節が どれだけ巡っても、 

線路沿いの 真っ直ぐなだけの遊歩道を、

いっしょに 歩き続けていました。

 

変わらない、どこまでも 真っ直ぐな道、 

変わらない、小さな頃から 見慣れた いつもの風景…。

 

変わらない、ただ 我慢し続けるだけの 僕の日常…。

 

 

この 真っ直ぐな道は 一体、どこまで 続いているのだろう…。

 

僕は どこまで 歩き続ければ いいのだろう。

本当に ゴールなんて あるのだろうか…。 
 

秋になると ジャンバーを 羽織って、

手袋を履いても 冷たい指先を

ポケットの中に入れて、温めながら 歩いていました。

 

肌寒い風が 正面から吹いてきて、

顔の痛みを こらえて うつむきながら 歩き続けていました。 

( 北国では 手袋を 「 履く 」と 一般的に言います。 )

 

冬の季節が訪れると 朝晩が冷えて 

凍り付いた道を、一歩一歩、足元に 

気を付けながら 慎重に進んでいきました。

 

 

日差しで 気温が温かくなると

雪が解け始めて どろどろになった 遊歩道を 

長靴を履いても 靴の中が 

びしょびしょに なりながら 北広島駅まで 行って、

また 同じ道を 引き返すだけの日々を送っていました。

 

看護師さんは 親戚たちのことで、

「 このまま 一生、

あの人達の 言いなりになっていいのか?

操り人形の ままで いいのか、」 と

日に日に 声を荒げる様に なっていきました。

 

親戚や姉は 看護師さんの事を

「 あいつは 赤の他人のくせに、

身内の問題に すぐに 口を出してくる、 」 

と 毛嫌いしていました。

 

 

ただでさえ 訪問看護師は 忙しい仕事なのに 

僕の障害だけでなく、姉や親戚たちへの 

対処にも 振り回されて 気の毒でした。

 

心の中で いつも 「 申し訳ない…。」と 謝っていました。

 

元自衛隊の親戚は 治療中のクリニックに 電話口で

「 お前の病院は 詐欺だ、インチキだ、」 と わめき散らし、

後日、僕が 謝罪しに行き、

「 親戚が ご迷惑を おかけして 申し訳ありません…。 」 

と 頭を下げると

医師は 憔悴しきっている 僕を見て、

「 君も 本当に苦労しているね…。 」と 気遣ってくれました。

 

僕を 心配してくれていた 高校の先生にまで、

わざわざ 岡山の高校に 問い合わせて

「 他人が 余計な事をするな、口を出すな、 」 

と 散々、吠えたそうです。

 

 

その保健の先生は 

「 あの 親戚の おじさんが怖いから、

これからは 連絡を控えるね…。 」 と 

ひどく怯えていて 最後には、

「 松下君のような 不幸すぎる人生を 

送っている人は もう 面倒見きれない、

もう 関わりたくないから 連絡してこないで、 」 と

僕に 理不尽な怒りを ぶつけて、

子供の様に わめき散らした後、電話は切れました。

 

最初の頃は 親身に 話を聞いてくれていた、

福祉事業所の人も 月日と共に 

だんだんと 横暴な態度へと変わってきていました。

 

 

細身で メガネをかけた、生真面目そうな 

男性の方で 年に1、2回だけ 自宅を訪れて、

体調の事や これからの生活について、お話をしていました。

 

僕は とても 仕事に対しても、

社会的弱者の人達に対しても 誠意を持って 

働いている方なんだな、と 信頼感がありましたが

20代も 後半を迎えた頃から、

いつしか 僕と 二人きりでいる時だけ、

暴力的な本性を 隠さない様になっていきました。

 

これからの進路や 仕事の お話をしていて、

「 12歳から 教育も あまり受けていないから、

まずは 大学に入って、しっかりと

学んで これからの事を決めていきたい。 」 

と 伝えると、途端に 攻撃的な口調に なりました。

 

 

「 お前は コンビニで いいだろ、

コンビニの何が悪いんだ、 」 と 僕に向かって 

唾を吐き散らしながら、敵視する目つきで 怒鳴り出しました。

 

「 どうして 僕は、コンビニで働く事を 

強制されなければ ならないの?

自分の意思で 職業は ちゃんと選びたい。 」 と 

落ち着いた口調で 返答すると

「 わがまま言うな、コンビニだ、

お前なんかは コンビニで いいんだ、 」 と

「 コンビニ 」 という単語を 

オウムの様に 何度も攻撃的に 繰り返すのでした。

 

となりにいた 女性の職員さんも 

あまりにも 横暴な態度に 

目を見開いて 言葉を 失っていました。

 

 

その話を 耳にした姉は、

「 お前みたいな 学歴のない奴は、

一生、コンビニで バイトでも してればいいんだよ、

福祉の人も、本当は お前の事を 

見下して 馬鹿にしてるんだよ、 」 と

いつもの様に 笑っていました。

 

僕は ムチで 打たれて、働かされる奴隷じゃない…、

お前らの 奴隷なんかじゃ ないんだ…、。

 

僕は 今まで、終わりのない痛みと孤独と 闘うという、

誰も 成し遂げられない仕事を 12歳の頃から 

ずっと一人ぼっちで 働き続けてきたんだ

 

後日、あまり 福祉事業所との関係が 

悪くなってはいけないので 訪問看護師さんに 

簡単にですが、その時の事を 伝えました。

 

 

どう 返答していいのか 分からずに 

頭を抱えている 看護師さんに

「 きっと 福祉の人も、僕が いつまで 経っても

社会復帰が できる気配がないので、

こいつは ただ 仕事をしたくないから 

怠けているだけなんだな、と 

思い始めて いるのでしょう…。 」 と

ため息をついて、諦めの表情で 本心を言いました。

 

「 僕は もう、こんな 役立たずの障害者になってから

人間の暴力的な本性を 見せられるのに 疲れました… 」 

と 言葉少なに、

かすれる様な 声を絞り出して言いました。

 

 

20代半ばから、僕の身に降りかかる 災難の数々を 

そばで見てきた 訪問看護師さんは 

何も言葉が かけられない様でした…。

 

しばらく 間を置いてから、訪問看護師さんは

「 …これから 松下くんは、自分の人生を 

どうしていきたいの? 」 とだけ 呟きました。

 

「 僕にも 分からない…。 」 と 一言しか、

言葉が出ませんでした。

本当に これから 自分は どうなっていくのか、

どこに 向かっているのかさえも、

僕にも、さっぱり 分からなかった。

 

一番 その答えを知りたいのは 僕自身だった…。

 

 

ある日、平日の真夜中に 元自衛隊の親戚のおじさんが 

突然、訪ねてきて 勝手に 家の中に上がりこんできました。

 

「 最近は どうしている? 

ちゃんと 部屋の片づけは しているか? 」 と

2階の部屋を ウロウロしていると

僕が寂しさのあまり、思わず 買ってしまった、

グラビアモデルのDVDが 見つかってしまいました。

 

恥ずかしくて うつむいていると、

「 お前も 女性に興味を持つ 年頃の

大人になったんだな。いくつになっても、まったく 

そんな素振りを見せないから、おじさんは 

不安だったけど ホッとしたぞ。 」と 

安心した 笑みを浮かべて、

特に 用事もなかったみたいで、帰っていきました。

 

 

親戚達は 乱暴で 気性は荒いけど、何か、

意図的に 僕を傷つけようとしているわけでは ないのでした…。

彼らなりに、父さんの代わりに 

僕の面倒を見ようと してくれていたのです。

 

それが 分かっていたから、

どんなに 怒鳴られても、理不尽な扱いを 受けても 

じっと 耐え続けてきたのでした。

 

毎年 お盆の時期になると、その時だけは 

姉と ふたりで 両親の お墓参りに行ってきました。

 

お墓に 水をかけてあげながら、

「 一度だけでも いいから 

父さんと 母さんに、今までの事を謝罪しろよ、 」

と どれだけ 言い聞かせても、無意味でした。

 

 

姉は まったく 罪悪感のない表情で

「 悪いことなんか 一度も したことがない。

自分は 良いことだけしか 他人にした事がない、

心のきれいな人間だ。 」 と

お墓の前で、開き直って ヘラヘラ 笑っていた。

 

「 両親の遺体は もう、とっくの昔に焼かれて 

骨になったから 虐待した証拠は 見つからないんだよ、

虐待で 訴えれるものなら 訴えてみろよ、」 と

反省する気持ちなど 微塵もなく、

それどころか 悲しみに暮れている僕を 挑発してくるのでした。

 

お盆の時期が来る度に 姉に 謝罪するように 

言い続けましたが、結局、最後まで 

たった一度も、たったの 一言すらなかった…

 

姉には 人間の心というものが 生まれつき備わっていなかった…。

 

 

「 この世界で 信じられるのは、金だけだ。

身内なんか 所詮、赤の他人なんだから 

信用するなよ、金だ、金だけだ、

この世で 信じられるのは お金だけだ、 」

 

この言葉が 血のつながりを 断ち切る前に、

姉が 唯一、僕に語ってくれた 「 人生の教え 」だった。

 

…ロード・オブ・ザリングの 物語で

指輪の魔力に とりつかれて、

正気を失いつつあった 主人公 フロドに

旅を共にしていた、親友のサムは こう告げます。

 

「 …こんな事に なってしまって、

こんな 遠いところまで 来てしまった…。

 

 

心に深く 残る物語に 入り込んだ気がします。

暗闇と 危険に満ちた物語。 

明るい話に なり得ないので 結末を聴きたくない。

 

それでも 物語の主人公たちは 決して、

道を 引き返さなかった。何かを信じて 歩き続けたのです…。 」

 

僕も 画面を見つめながら、フロドと 一緒に聞き返していた。

「 何を 信じればいい… 」

サムは やつれ果てた、フロドの両肩に 

手を置いて、力強く 言いました。

「 この世には、命を懸けて 戦うに足る、尊いものがあるんです。 」

 

この言葉に 勇気づけられて、再び フロドは 

指輪を捨てる旅の 更に、過酷な道のりを 歩んでいきます。

 

僕も この言葉に、どれだけ 励まされてきたのか…。

 

 

僕にとっての 「 呪いの指輪 」 は、

決して 取れる事のない、顔の痛みでした。

 

フロドの 「 滅びの山 」に 

指輪を投げ捨てるまでの 長い旅路を、

僕の12歳から 奪われ続けてきた半生に 重ねていました。

 

指輪の魔力に負けて、醜い怪物と 

化してしまった ゴラムは 顔の痛みに敗北し、

我を見失っていく 僕の姿 そのものでした。

鏡に映る 表裏一体の、なれの果ての 僕の姿…。

 

フロドも、もしも 指輪を捨てる旅を 

途中で あきらめて しまったら、

ゴラムの様な 醜い姿に なってしまう… と

常に怯えながら 前へ 進んでいきました。

 

 

「 愛しい人、」 と 叫びながら、

愛情ではなく、呪われた指輪を 探し求めて 

寿命が尽きるまで、深い闇の中を 

どこまでも 一人ぼっちで 彷徨い続ける事になる…。

 

訪問看護師さんが、

「 松下くんの人生は あまりにも劇的だから、

映画にできるよ。文章力はあるから、

まずは 脚本でも書いてみたら? 」 と

冗談交じりに 言ってくれました。

 

「 映画にしたら 2時間じゃ 

全然 足りないから、3部作になるよ。 」 と

僕は 笑って ごまかしていました…。

 

 

 

                「 雪の降る街を 」

                            作曲 中田 喜直 引用

 

「 雪の降る街を 思い出だけが 通り過ぎていく

 

この思い出を いつの日か つつまん。

温かき 幸せの ほほ笑み…

 

雪の降る街を 足音だけが 追いかけていく

ひとり 心に充ちてくる この悲しみを

いつの日か ほぐさん。

緑なす、春の日の そよ風…。 」

 

    
  【 逃れられない冬の世界 】

 

30代とは、一人前の大人として 扱われる 

年代なのだろうか? それとも、まだ 

半人前の若者として 見られる年代なのだろうか…?

 

 

ついに 30歳を迎えてしまった 僕は 

札幌市内の麻酔クリニックに 通い、

鎮痛薬を 20種類、漢方薬も 10種類ほど 

様々な 組み合わせで 相乗効果を試しましたが、

まったく 効きませんでした。

 

親切な医師で、今までの経過を お話すると 

僕を なんとかして救いたいと 頭を抱えながら 

思いつく限りの 薬の組み合わせを 考えてくれました。

 

ですが、たったの1%も 痛みは 和らぐ事がありませんでした。

 

痛みが強すぎて 固定されてしまい、

どんなに 温めても 冷やしても、何をしても 

軽減される事は ありませんでした。

 

 

手術後からの 凄まじい疼痛が 

最後に 手術をして 5年以上 経っても、

ついさっき 執刀を 終えたかのように

変わることなく 続いていました。

 

ペインクリニックも 3ヵ所、通院して

何十本も 神経ブロック注射を 打っても 

更に神経に 刺激を与えてしまい、ただ 

痛みがひどくなり 数日間、寝込んでしまうだけだった…。

 

頭も 割れるような 頭痛が止まらず、

起き上がるのも しばらく 大変でした。

 

まるで 僕の まぶたの中にいる、怪物か何か、

得体のしれないものが 外部からの 治療に対して、

中で暴れて 必死に 抵抗している様だった。

 

 

毎日、何かに とりつかれたかの様に 

ひたすら 甘いものを食べ続けて 

食べては 吐いて、その繰り返しでした。

 

訪問看護師さんが、

「 あまり 歩き回っても 見つからないなら、

ネットで 誰かと繋がったら? 」

と 2階の ほこりを被った パソコンで、

フェイスブックを 教えてくれました。

 

期待と不安を込めて 18年前に 卒業した、

小学校の クラスメイト達を 検索してみると 

同級生の ほとんどは結婚して 子供が産まれ、

5歳くらいまで 立派に成長していました。

 

 

いつも くだらない、イタズラばかりしていた 近所の子は、

子供が 3人も産まれていたので、ビックリしました。

 

みんな どこか 面影がありましたが、

確実に 18年の月日が 経過した事を、それなりに 

人生経験を積んできた、大人の顔が 物語っていました。

 

同窓会の写真も たくさん載っていましたが、

そこには、僕だけが どこにも 写っていなかった。

 

僕は 頭が真っ白になり、

しばらくの間 放心状態に なっていました。

僕は12歳から ほとんど人生経験がなく、

成長が止まっているのに…。

 

 

もうすぐ 小学校時代の同級生の、

成長していく子供達に 学歴も 人生経験も、

何もかも 追い抜かれてしまう…。そんな 

笑えない皮肉が 頭の中に、リアルに思い浮かびました。

 

小学校を卒業したのが つい最近の様で、

思春期も 反抗期も わずかな時間しか経験していません。

 

岡山の高校には 通っていましたが、

痛みで休学したり、欠席日数が 多かったので

実際は 合計すると、一年足らずしか通学していません。

 

なので、小学校を卒業してから 教育を受けられたのは、

高校の たったの一年足らずだけでした。

 

 

毎日、通学している 中学生や高校生を見かけると

僕よりずっと 年上の先輩だと 感じてしまいます。

 

例えば、中学3年生の生徒を見ると、

僕より 二つ上の学年の先輩に 見えてしまうのです。

 

漢字の読み書きも ほとんど 独学で、

お酒も 煙草も 経験した事がありません。

 

公園で ブランコに乗って 遊んでいる、

小学生の 子供達の姿を見かけると、

一緒に混ざって 遊びたいと 思ったり、

スーパーで、小さな児童を連れて 買い物をしている、

20~30代の 女性を見かけると

「 この人が 僕の お母さんになってくれたらな…。 」 

と 考えてしまいます。

 

 

見た目も すごい、幼く 見える様で どこに行っても

「 学生さん ですか? 」 と 35歳になった 

今も 聞かれてしまいます。

 

何歳になっても 子供の様な 服装をして、

漢字も まともに読み書きできない 僕の事を、

姉は 「 お前は 発達障害じゃないの? 」と 

笑っていました。

( ブログの闘病記を 書いていく時に、

必死に 漢字の勉強をしていました。 )

 

この解決法は これからの人生で ひとつずつ、

今まで 経験できなかったことを、ひたすら 

経験して 学んでいく事。ただ、これだけだと 思います。

 

 

学校帰りの 子供達を見かけると、ふと 

「僕は この子供達の年齢から

人生を 何もかも 奪われてしまったんだな…。」 と思い

拭っても 拭っても、目に涙が とめどなく 溢れてくる…。

 

お母さんのひざ枕の 柔らかな感触、

お父さんに 肩車してもらった時の 力強くて太い腕…。

 

あの温かいぬくもりは 今の僕には 

遠く過ぎ去った過去の様に 何ひとつ 思い出せない。

そして、永遠に 僕には取り戻せないものだ。

 

両親が亡くなってから たまに自宅の庭で

椅子に腰かけて 日差しに照らされながら 

ぼんやりしていました。

 

 

あの頃 お母さんは 毎日 庭の手入ればかりしていた。

 

この花壇には どんな品種の花を 植えていただろうか?

この場所には どんな色の花びらが 咲いていたのだろうか?

 

色とりどりに 咲き誇っていた 花たちは 

みんな、どこへ行ってしまった…。

 

しばらく 手入れしていなかった、

この庭の花壇の様に 目に映る 全ての景色が 

色褪せて モノクロの世界へと 僕を誘っていく…。

 

幼い頃から 通い続けている、

近所のスーパーで 食料を買い物したり 

線路沿いの遊歩道を 歩いていると たまに、

小学生の時 クラスにいた知的障害の子を見かけました。

 

 

あの頃と まったくといっていいほど

見かけは変わっていなかった…。よく 顔を見ると

無精ひげを 生やしているのが 分かったが、

変わったと言えば たった それだけだった。

 

中学一年生の 同じクラスだった時、

体育祭の最中に 不良達から 守ってあげた事なんて

まったく 覚えていないのだろうな…。

 

スーパーの食品売り場の狭い通路で 

僕とすれ違っても、見向きもせずに 通り過ぎていった。

 

いつもとなりに 年配の女性が 付き添っているのを 

見かけていたけど あの女性は 母親だろうか。

 

 

「君は いつも心配してくれる お母さんがいるだけ、

僕よりも はるかに 幸せな人生を送っているんだよ。」 

 

心の声で 小さくつぶやき、重たい買い物袋を 

握りしめて 歩きなれた、自宅までの帰り道を 

トボトボと 引き返していった…。

 

父さんが亡くなってから、自宅に着き 

玄関のドアを開けると、必ず 小さな声で 

「 ただいま。 」と 挨拶するように なりました。

 

そういうと、静寂に包まれた 真っ暗な

部屋の奥から 「 おかえり。 」と 

誰かが 応えてくれるような 気がしていたからでした。

 

 

家族が 誰もいないと分かっていても、

毎日 挨拶を欠かさない事で 寂しさを 

ごまかして、自分を 励ましていたのかもしれない。

 

たまに姉が 自宅の様子を見に、

生まれたばかりの 幼い子供を連れて 訪ねてきました。

姉は 僕が知らないうちに いつの間にか 

結婚して、子供まで 生まれていました。

 

母親になったからなのか、あれだけ

暴力的だった 姉の性格が

ほんのわずかですが 丸くなった様に 感じていました。

 

 

秋風が吹きすさぶ中 自宅前にある、

広々とした 公園を いっしょに お散歩していると 

姉の子供が 僕になついて くっついてくる度に 

言葉では 言い表せられない嫌悪感が 

僕の感情の中に 渦巻いていました。

 

姉や近所の人達に 

「わたる君も もう 姪っ子ができて

立派な おじさんに なったんだね。」 と からかわれると

僕は ひきつった 笑みを浮かべて 

「そうだね。月日が経つのは早いね。」 と 

明るく 答えていました。

 

その 笑顔の裏側では 30代を 迎えてしまった、

あせりと不安に 襲われて 全身の震えが止まらず 

足腰から 崩れ落ちそうになるのを

やっとの想いで 気力だけで 支え続けていました。

 

 

「…僕が おじさん? この僕に 姪っ子ができた…?」

キラキラした よどみのない瞳で じっと僕を

見つめてくる子供から 目をそらし、 

近寄ってくる度に 後ずさりして 避けていた。

 

「怖い…怖い… こっちに来るな、近寄るな、

僕は まだ 小学校を卒業したばかりの 幼い子供なんだ、

こんなのは現実じゃない、悪い夢だ…」

 

その後も 姉が訪ねてくると 

少しずつ成長していく 姪っ子の姿を見る度に

ホラー映画みたいな 恐怖心が 膨らみ続けていった。

 

姉の子供も そのうち 僕を置き去りにして、

やがて 僕を追い抜いて 大人になっていくんだ…。

 

 

30歳の誕生日が過ぎ、ふと、幼い頃に読んだ、

ある本の内容を 回想していました。

 

確か 「 世界の 未解決ミステリー 」 とかいう、

怪しいタイトルの本だったと思います。

 

19世紀頃のヨーロッパで、5歳の頃に 誘拐されて 

30年以上もの歳月を 理由も 分からずに

監禁されていた幼児が、ようやく 警察に発見されました。

 

ですが 外見は 30代半ばの大人なのに

陽の光も入らない、真っ暗な 地下牢の中に

鎖で つながれて 生きてきたせいで

精神年齢が 5歳で止まったままに なっていました。

 

 

救出された時、言葉も 分からずに

「 ママ…、ママ…、」 と 小さな子供みたいに 

泣きじゃくっていたという お話でした。

 

挿絵が載っていて、真っ暗な 地下牢で 

鎖で つながれた幼児の ギョロッとした 眼だけが

暗闇の中で 光っている 不気味な絵でした。

 

子供心に 恐怖心で しばらく 記憶に残っていました。

 

どうして 今になって、この お話を 

はっきりと 思い出したのだろうか…。

今になって、この お話の怖さに 怯えているのか…。

 

月日の流れも 何も分からず、

いつしか この日常が 当たり前になっていて、

抵抗する事も 忘れていきました。

 

 

毎日、ムチで打たれ、倒れても 背後から 

激しく打たれ続け、「 逃げようとしても 無駄だ。 」 と、

諦めて 服従した、奴隷の様でした。

 

痛みのない、健康な身体だった頃が 思い出せない。

自分の意思で、自由に 身体を動かせるのは、

一体、どのような 感覚なのだろう…。

 

鎖から 解き放たれて、自由になってみたいけど

自由とは 一体 なんだったか思い出せない…。

 

「 …運命とは 地獄の機械である。 」  

 

ジャン コクトーの言葉を 思い出していました。

 

 

僕の運命は、僕を 苦しめたい、 

「 何かの意思 」 が 設計して

12歳から 人生を取り囲んだ、数えきれない 

不幸や災難という 部品を 動力にして動いている、

何者かによって、創り上げられた 

機械仕掛けの 歯車なのではないか…。

 

それからは ひっそりとした、

誰もいない 家の中で、夜中になると、

暗闇の中から あの本の挿絵に 載っていた、

鎖で 繋がれた幼児の ギョロッとした眼が、

どこからか 僕を見つめている様な 気がして、

頭から 毛布をかぶって 

朝まで 震え続けて いました…。

 

 

経験してみると 分かると 思うのですが

どんな人でも、3日間も 誰とも 会話もなく、

暗闇の中で 一人ぼっちでいると

自分が生きているのか、死んでいるのかさえ

簡単に 分からなくなってしまいます。

 

人間の精神は あまりにも 脆くて、

そっと 暗闇に触れるだけで すぐに壊れてしまうのです。

 

一週間も 一人ぼっちでいると

自分は 本当に、この世界に 存在しているのだろうか?

 

とっくの昔に 亡くなっていて、この世界の誰にも 

僕の姿は 見えていないのでは ないのか…? 

と 思い悩んでしまいます。

 

 

12歳の頃から 今日までの間に、

僕は一体、どれだけの月日を 

一人ぼっちで 過ごして きたのだろうか…。

振り返って みるだけでも 

身震いしてしまうほど、恐ろしいものです。

 

僕は まだ 呼吸をしているぞ、僕は まだ 生きているぞ、

 

… 本当に まだ 生きているのか?

僕は もう この世界に 存在しないから、

誰にも 気づいて もらえないんじゃないのか?

 

深い暗闇の中で、痛みに 思考が鈍りながらも、

ひたすら 空虚な自問自答を 繰り返していました。

 

 

いつしか、真っ暗闇の中に 

身を浸している事が 当たり前に なってくると

恐怖心よりも 安心感を 覚えてくる様になっていました。

 

底の見えない様な 深い、深い、暗闇の中こそが

僕の生まれ育った場所、

僕のいるべき居場所だと 思い始めていた…。

 

まるで、長年 そばにいてくれて、

いっしょに育ってきた、兄弟や 親しい友人の様に 

受け入れ始めていた。

 

真夜中になっても 電気を点けずに

どこまでも 広がる 真っ暗闇と 

光の射さない、無音の世界こそが 僕の本当の、

帰るべき 居場所なんだと 感じていました。

 

 

底の見えない 暗闇の深淵こそが 

僕の 本当の我が家で

物音ひとつ 聴こえない、沈黙こそが

僕にとっての 唯一の話し相手だった…。

 

           「 サウンド・オブ・サイレンス 」

                          作詞作曲 サイモンとガーファンクル 引用

 

「 「 ハロー、暗闇よ。 」 古くからの友人よ。

また君に 会いに来てしまったよ。

 

なぜなら あるビジョンが そっと忍び寄り、

僕が寝ている間に その種を 

置いていったものだから 頭に残る、その種は 

今もまだ 静寂の中に潜んでいる。

 

 

街灯の灯りの下、僕は 町の寒さに 襟を立てた。

僕の眼に ネオンの光が飛び込んだ時、

それは 夜を切り裂き、僕は 静寂に ふれたんだ…。

 

その光の中で 僕が見たのは、

一万人か おそらく もっと、たくさんの人々。

 

みんな 喋ってはいるけど、会話はしていない、

みんな 耳を傾けてはいるけど、聞いてはいない、

 

みんな 誰に 聞かせるわけでもない歌を 書いている。

そして 誰一人、この静寂を 妨げない… 」

 

季節が どれだけ巡っても カレンダーを 

めくる事もなく、時間の感覚も 忘れていき、

全ての物事から 目を背け、耳を塞いでいました。

 

 

暗闇の中で、人間としての感情を 

忘れていく事が この 永久に続いていく 

痛みと孤独の日々から、自分の身を守る、

たった一つの 防衛手段だと 

無意識のうちに 悟っていたのかも 知れません。

 

父さんが 腰掛けたまま 亡くなっていた、

ソファーに そっと 座り込み、

心不全で 亡くなってしまう前に 最後に見た 

風景を、僕も 同じ様に 眺めていました。

 

目の前にあるのは 仏壇が置いてある、

普段は 何も 使われない和室でした。

 

 

畳が敷かれてあり、小学生の頃は 

この部屋に 大きな レコードプレーヤーを置いて

父さんと 二人で オリビア・ニュートン・ジョンや 

アンディ・ウィリアムズの 名曲の数々を聴いていた…。

 

この風景が 父さんの目に映った、

この世界から 消えていく前の、

最期の かすかな 記憶だったのです。

 

僕は 一晩中、電球も点けずに ソファーに 

座ったまま 正面にある、父さんが 最期に見た、 

和室の方向を じっと見続けていました。

 

いつまでも 見つめていれば

僕を 長い間、痛みと孤独だけの人生へと 

追いやって来た 「 何か 」 が

暗闇の中から 姿を現すかも 知れない…

と 想っていたからでした。

 

 

「 父さんの次は、僕も そっちの世界に 

連れていくのだろう、充分 待ち続けてきたのだから 

早く 僕も連れていけ、 」 と 

暗闇の奥にいる 「 何か 」に 向かって

必死に 叫び続けていました…。

 

毎晩、夢の中に 父さんが現れて

鬼のような形相で 僕の 首を絞めながら、

「 お前のせいで 家族は みんな、

不幸になって 死んだんだ、なにもかも 全て、

お前のせいだ、さっさと この家から 出ていけ、 」 と 叫んでいた。

 

「 ごめんなさい…、ごめんなさい…、」 

真夜中に飛び起きて、誰もいない 家の中で、

ひたすら 謝り続けていました。

 

 

小さい頃から 大好きだった、

ヒーロー映画 「 バットマン 」 の台詞が

不意に 頭を過ぎった気がしました。

 

「 人は どうして、落ちると思う…? それは、這い上がるためです。 」

 

僕の 頭の中で、この言葉が いつまでも 

途切れる事なく こだましていた…。