そして 2年生も、三学期になり
僕は またしても、地元の高校に編入して
最後の一年間を せめて、平穏に
過ごしたいと 考えていました。
騒がしい、不良ばかりの 学校生活も
寮生活にも 疲れ果てていた。
もう 人生に、何も 望んでいなかった。
ただ 平穏な日常を送れれば それだけで良かった…。
帰省中に 僕の地元、北広島市の となりにある
恵庭市、千歳市の高校を いくつか
校内見学を してみましたが、どこも
定員がいっぱいで 編入は難しいとの事でした。
しばらく 離れていた故郷は、
何も変わる事なく、音もなく 降りしきる雪が
目に映る風景を どこまでも
真っ白な 静寂の世界へと、塗り替えていました。
千歳駅の近くにある、公立の千歳高校の 校舎の中を
放課後、先生が時間を取って 見学させてくれました。
岡山の高校とは 違う、その土地で
生まれ育った人にしか 感じられない、
一年間の半分が、雪に大地が覆われてしまう、
北国の校舎の匂い…。懐かしい、ふるさとの匂い…。
教室に残り、受験勉強に 励んでいる生徒、
参考書を片手に 廊下を歩いている子や
部活が終わって、「帰りに ファミレスでも 寄っていこう、」 と
はしゃいでいる 女子生徒たち…。
僕の地元、北広島から 通学している生徒も 数多く いました。
生まれ育った街の人と 同じ校舎で 過ごせると
考えただけで、旅愁の旅人が 我が家に
帰って来たかの様に 心が温かくなりました。
校舎の窓から 千歳の街並みを 見渡すと、
冬の寒さで 外に出歩いている人は 少なく
街中が ゴーストタウンみたいに、
怖いくらいの静けさで 包まれていました。
時折、どこからか 学校帰りの子供達が、
雪玉を投げ合って はしゃぐ声が聴こえてきます。
冬になると、外の世界が 静けさに包まれていくのは
音を響かせる「 振動 」 を、八角形や 六角形など
複雑な形をした、雪の結晶が吸収してしまう からでした。
結晶の隙間の部分に 音の振動を
閉じ込めてしまうので 遠くまで届かなくなります。
何よりも この静けさに 懐かしさを覚えて、
僕の心は 大きく 揺れ動いていました…。
戻りたい…。 僕が送るはずだった、
ありふれた日常に 戻りたい…。
帰り道、車内のラジオから、平原綾香さんが
歌う、「 明日 」 が流れていました。
北海道を 舞台にした、
「 優しい時間 」という ドラマの主題歌です。
包み込んでくれる様な メロディーが、
北海道を 出ていった僕を、
「 帰って来ても いいんだよ…。」 と
暖かく 迎え入れて くれている様でした。
それでも 僕は どうする事もできずに
遠く離れた 岡山に戻るしかなかった。
諦めて 卒業式まで 無力な日々を耐え続けていました…。
3年生に進級してからは、不良たちとも 離れ
いくらか落ち着いて 過ごせました。
紅葉の季節の ある日、
教師が 授業中に 痛みに耐えられずに、
保健室に行こうとする 僕を、
「お前、また 保健室に行くのか、いつまでも
さぼっていないで 大人しく 座ってろ、」 と
クラスメイト達が 見ている前で、
みせしめの様に 怒鳴り散らしました。
どうして これだけの痛みと 毎日、
闘っているのに、怒られなければ いけないんだ…。
悔しくて、授業中、声を上げて 泣き続けました。
その話を聞いた 父さんは、平日に 仕事を休んで、
すぐに 岡山に飛んできました。
怒鳴った教師を 呼び出し、
声を荒げて 厳しく 叱りつけたそうです。
放課後、岡山市内を レンタカーで ドライブして、
立ち寄った居酒屋で 焼き鳥を 数本、食べました。
父さんは 僕の頭を 優しく 撫でて、
「お前も もうすぐ 20歳だな。 こういう店で、
早く一緒に お酒を飲もうな。」 と 語りました。
「それ、河島英五の歌の 歌詞のパクリだよ。」 と言うと、
「お前と話の合う、高校生なんて いるのか?
千昌夫のアルバム 聴いてる事は
誰にも 言わない方が いいぞ。」
と言われ、二人で 笑っていました。
夜中になり、寮までの 暗闇に包まれた
田舎道を 数少ない、街灯の光だけを
頼りに 車で走っていました。
途中で 寄った CDショップで買った、
ノラ・ジョーンズの アルバムを聴きながら
わずかな 灯りしか見えない、夜道の風景に
怯えていると、となりの 父さんの横顔を見て
ほっとしていました。
中学の時は、お互い分かり合えずに
傷つけあったけど、父さんは
小さい頃の優しかった、父さんのままだ。
「 僕には 父さんがいるから 大丈夫…。
父さんがいれば 寂しくない、
どんな 暗闇の中でも 怖くない…。 」
横顔を見ながら そう 感じていました。
「 野風増 」
河島英五 作詞作曲 山本寛之 引用
「 お前が 二十歳になったら
酒場で ふたりで 飲みたいものだ。
お前が 二十歳になったら 思い出話で酔いたいものだ。
したたか飲んで ダミ声上げて お前の 二十歳を祝うのさ
いいか、男は 生意気くらいが 丁度いい。
いいか、男は 大きな夢を持て…。 」
…あと 半年の高校生活も 緩やかに 時間が過ぎていった。
最後の文化祭で、僕がいた
専門授業の 国際コースは、セリフが 全て、
英語の演劇 「 ピーターパン 」 を 披露しました。
僕は緊張すると 更に表情が ひきつってしまい、
声を出せなくなるので 裏方の音響係を 担当しました。
国際コースの 授業中に、
正直に 顔の痛みの事を 打ち明けると
「そうだったんだ…。今まで 一緒にいたのに
何も気付かなくて ごめんね。」 と
みんな、心から 僕の事を 気遣ってくれました。
授業を ひとまず中断して、みんなで
お互いの悩みや、思っていることを 語り合う時間になりました。
中学校時代に、にぎやかな 周りの生徒に
ついていけず、不登校になってしまった事、
家庭環境が あまり良くなくて、自宅から離れるために
全寮制の この高校を選んだ事…。
それぞれに抱えてきたものを 打ち明けて
いきながら、国際コースの 仲間たちの絆は
これまで以上に 深まっていきました。
夏休み中に 台本を書き上げ、放課後
教室に集まって 小道具や 宣伝ポスターを作り
爽やかな 秋晴れの下、屋上で
台本片手に セリフの練習をしていました。
文化祭 当日の本番では、音響の機械が故障してしまい、
急遽、使い方が よく分からない、
別の機械に 差し替えられてしまったので
汗びっしょりに なりながら、
なんとか 無事に 成功させる事が出来ました。
後夜祭が終わった後、体育館で 表彰式が行われて、
今年の文化祭で、もっとも 素晴らしい活動を
見せてくれた、専門コースは
僕たち、国際コースが 見事に選ばれました。
国際コースは 10人ほどいましたが
みんな 落ち着いた生徒ばかりで 仲が良く、
居心地の良い 大切な居場所でした。
半数は女子生徒でしたが、
僕の顔を見ても 不快感を 見せる事もなく
卒業式まで 友達で いてくれました。
みんな、元気だと いいのですが…。
退寮式では、先生たちと 卒業生 全員で
長渕 剛の 「 乾杯 」を 肩を抱き合って 大合唱しました。
「乾杯… 今、君は 人生の 大きな、大きな舞台に立ち…。」
選曲は、もちろん その世代の先生方でした。
「どうして 長渕 剛?」 と、きょとんとした
顔をしてる生徒が 何人もいて、隣にいた友人と
目が合って、思わず 吹き出してしまいました。
欠席日数が あまりにも 多かったのですが、
授業態度が良いことと、一年生の時に
成績が良かったことを 理由に
なんとか無事に 高校を卒業できた僕は、
北海道に帰郷してから、札幌学院大学に 合格しましたが
休学して 痛みの治療に 専念する事にしました。
ペインクリニックに行き、顔の周辺に
神経ブロックの 麻酔注射を、
何十本も 打ちましたが、余計に
神経に 刺激を与えてしまったようで、
鋭い痛みは 更に 強くなってしまいました。
半日ほど まぶたが激しく痙攣し、温めたタオルを
顔の上に被せても まったく抑える事が できません。
その間、起き上がる事もできず、両手で 必死に 顔を覆って
ベッドの上で 悲鳴を上げて もがき続けていました。
眼の周囲は、細かい神経が たくさん走っていて
指先と並んで、身体の中で
特に 痛みに敏感な、痛点だそうです。
神経が細かいので CTや MRIも 撮りましたが
何も 映りませんでした。
北広島市内にある、鍼灸整骨院にも
週3回 通院して 治療を始めました。
小樽の元暴走族の方が 院長をやっていて、
どこか やんちゃだった頃の 面影が残っていて、
19歳になった、僕の事を とても可愛がってくれました。
平日の昼間は 患者が少ないので、
2階のベランダで よく若い頃の話を してくれたり、
お互い子供のような冗談を言い、ふざけ合っていました。
20歳くらいのスタッフも 4人いて
年齢が近いので 友達の様に 気軽にお話ができました。
初対面で いきなり、「松下くんは ドラゴンボールで、
どのキャラクターが 一番好き?」
と 聞かれて 面食らってしまいました。
NHKの朝ドラ、「 まんてん 」 のヒロインを演じた、
宮地真緒さんに そっくりな スタッフさんがいて、
まるで 大学の後輩に 話しかける様に
僕と 気軽に会話してくれるので、
鍼灸院に通うのが、いつも 楽しみな時間になっていました。
待合室のテレビ画面には、
甲子園球場で 球史に残る 激闘を繰り広げる、
斎藤佑樹と 田中将大が映っていました。
自律神経失調症かと言われ、
改めて 日常生活を 一から、整えてみたりもしました。
慢性の痛みが 治まらないのは、
痛みの発生している部位が原因では ないそうです。
手術後、痛みを出す信号が 脳から発信されて
それに まぶたの筋肉が 反応して ぎゅっと引き締まり、
血管が圧迫され 血液の循環が悪くなり
痛みの信号が 止まることなく 流れ続けている状態だ、と
数人の医師から 指摘されていました。
痛みの信号が ブレーキが効かず、
アクセルを踏み続けている状態に なっているそうです。
痛みが出ている 部位ではなく、頭に向かって
アプローチする事が 正しい治療法との事でした。
それを改善するのが 脳からの信号を
ブロックする、神経ブロック注射でしたが
僕には 更に痛みが増してしまい、逆効果でした。
圧迫されている 血管を拡張し、
血液の流れを 正常に するため、
こめかみや 首の辺りに 針を 数本 刺し、
血行を促進させる施術も 行いましたが
修3回、半年間 試してみても、
まったく 効果は 表れませんでした。
低周波治療器を使い、
痛みの部位の そばに 微力な電流を流し、
脳への 痛みの信号の伝達を 鈍くさせたり
超短波や 超音波治療器で
温熱や 高速の振動を与えて、
血流を良くしても、何一つ 変わらない…。
冷え症が原因かと、腹部に 熱で
身体を温める、器具を巻いたりもしました。
「どうして これだけ、試しても 良くならない?」 と
多くの医師たちも 頭を抱えていました。
総合病院の 麻酔科では、
「慢性の痛みが 何年も 続くのは、
男性よりも 女性の方が圧倒的に多い。
女性の方が 神経が細く、心が繊細な人ほど、
激痛が 長く継続していくみたいだ。
君は見た感じ、繊細な人柄だから
女性に近いのかもしれない。」 と 教えてくれました。
7月になると、僕は 前と同じ
市立札幌病院の眼科で 4回目の手術を受けました。
実は、色々と省略して 書いているのですが、
3回目の手術を終えた後も 何人もの女性たちに
「顔が怖い、ひきつっていて 気持ち悪い、」 と
罵られたり、目が合っただけで
吐きそうな顔をして 避けられたり…。
そのような事が これまで 何度も ありました。
自信を失いつつあった 僕は、危険を承知で
「あと少しだけ 目の形を 大きく見せたい。」 と
女医さんに 相談したのです。
悩んだ末に 2.5ミリほど まぶたを上げると、
手術後、小さく 二重のラインがつき、
鏡を見て ほっと していました。
休日は よく 新千歳空港の隣にある、千歳市まで
ドライブをして、市内から 少し離れた場所にある、
人気のない 工業団地の公園で
父さんと キャッチボールを していました。
12歳からの 辛い半生の中で
高校を卒業し 北国に帰郷してからの 1年間が、
もっとも 心も身体も 平穏に過ごせた時間でした。
「父さんの楽しみは、いつか わたるの事を 好きになって
そばにいてくれる 彼女を見る事なんだ。」 と、
帰り際に 沈んでいく 夕陽を背に、
いつも 同じ言葉を 繰り返していました。
父さんは きっと 自分の最愛の女性を
失ってしまった 悲しみの分、僕に 恋する相手を
見つけ、幸せになって 欲しかったのだろう…。
市内の 鍼灸整骨院で 週3日、
針治療など リハビリを続ける生活が続き、
秋になると、「 いちご白書 」 という、
60年代の学園紛争を描いた作品を 父さんと観賞しました。
ベトナム反戦運動や 公民権運動などで
揺れ動いていた 激動の時代に
特に やりたい事も 目標もなく、だらだらと
怠惰な 学生生活を送る 主人公が、
デモに参加していた 女の子に 一目惚れしてから、
自らも 学生運動に 加わります。
最初の動機は ただの女の子目当ての
下心でしたが 次第に 理不尽な社会を 変えていく、
革命家へと 目覚めていく、熱い青春の物語でした。
日本でも バンバンの「 いちご白書を もう 一度 」 という
フォークソングが 大ヒットし
当時、多くの若者が レコードで聴いていました。
主題歌 「 サークルゲーム 」 の歌詞、
「 楽しむんだ、人生は 長くないから。
時の巡りが 遅くなり 止まるまで…。
明日を 夢見る少年は もう 20歳。 」という 部分を聴いて、
「あっという間に お前も 20歳になるぞ、」 と
父さんは おどけていました。
リハビリと治療法を探す 生活が 一年経ち…。
2007年2月2日 日本テレビの
女性アナウンサー、大杉君枝さんが
出産後の 「 線維筋痛症 」 という
痛みの障害に苦しみ、自ら 命を絶たれた、と
連日、ニュースで 大きく報道されていました。
ニュースの中で、千歳市にある 北星病院の
リウマチ科の医師が、初めて 耳にする
「 線維筋痛症 」という 難病について 取材で語っていました。
「病気で 手術をしたり、事故にあい
大けがをした部分が、表面の傷が治り、
回復しているのに 目に見えない慢性の痛みが
いつまでたっても 治まる事なく 続いていく事、
どれだけ訴えても 見た目では 分からないため
周囲に理解されず、孤立していき、
うつ病を 発症したり、精神も病んでいく事、
心も身体も 追い詰められて
患者の約三割が 自死を意識している。」
…すべてが 僕の症状と ぴったりと合っていました。
普通の日常を送る事が 困難な状態になっても、周囲から
「どうして 当たり前の事ができない、
働かずに 怠けてるだけだ、」と 責め立てられ、
「怠け病、」 「詐病、」 とも 言われるそうです。
線維筋痛症を調べると、最初の方に書いていた、
「理容院で 髪を切ると、なぜか痛みがひどくなる。」
という症状も 載っていました。
大杉さんの事は ニュースで 初めて 知りましたが
今まで この痛みで 苦しんでいたのは
僕だけじゃなかったんだ…、と テレビ画面に映る
大杉さんの顔写真を見て、自然に 涙が溢れていきました。
生まれたばかりの 赤ちゃんは、これから どうなるのだろう…。
大杉さんの分も 僕は 頑張って 生きなければ…
と あの時、心に誓ったのです。
3月に 予約していた 北星病院に行くと
ニュースに出ていた、医師の診察を受けて、
今までの経過を 正直に話し、
いくつか簡単な質問に 答えると
すぐに 「 線維筋痛症 」だと 診断をされました。
ノイロトロピンという 薬を処方され、2週間分 渡されました。
「こんな オレンジ色の 小さな粒を
飲むだけで 治るのか?」 と、中学生の頃、
精神科を たらい回しにされた
トラウマもあったので 疑問でした。
ですが、10日も経つと
わずかですが 痛みが消えてきたのです。
顔の表情も 次第に 柔らかくなり
「こんなに あっけなく、僕の闘いは 終わるのか」 と
心から 驚いていました。
ですが、僕の出口のない、痛みとの闘いの日々は
ここからが 本当の始まりだったのです…。
「 ラーン・トゥービー・ロンリー 」
「 荒れ果てた世界に 生まれ落ちて
限りなく 続く、空しい日々。
お前を支える者は、どこにいるのか。
お前を慰め、抱きしめてくれる者は?
孤独だけを 一人の友として 自らを支えて 独りで生きてゆく。
一度たりとも 夢に見た事がない。
人の腕に 抱きしめられる事を…
深い孤独の中で 独り、笑っている お前…。
荒野に 生まれ落ちた子供…
孤独だけを 一人の友として
相手のいない、愛を育み 独り、生きてゆく。 」
「 オペラ座の怪人 より 」 引用。
今まで 出会った 大半の女性に
「顔が怖い、目つきが気持ち悪い、」 と 避けられた、
トラウマから、コンプレックスの塊に なっていた僕は
「これから まだまだ 先の長い、人生の中で
少しでも 僕の事を 愛してくれる人に
出会う事が できるのだろうか…」と 考え込んでいました。
そして、また 新しい季節が訪れる 4月の初めに、
市立札幌病院の眼科で 5回目の手術に挑んだのでした。
リスクに怯えながらも、誰かに愛されたい
想いの方が 強かった。警戒しながら
わずか1、5ミリだけ 上げる事に決めました。
手術後、麻酔が切れてくると、じわじわと
それまで 経験したことのない様な、
凄まじい痛みが 襲い掛かってきました。
12歳からの、まぶたの神経を
切り刻まれるような 鋭い痛みではなく
まぶたの薄い皮膚を、上方に 引っ張り上げて、
強制的に 糸で縫い付けている… そのような痛みでした。
説明が難しいのですが、引きちぎられる様な 激しい力で
まぶたの皮膚を 無理やり、引っ張り上げて
きつく 縫い付けられている、耐え難い痛みでした。
今までの痛みなど 比較にも ならなかった。
たったの 1,5ミリ 上げただけなのに、
ノイロトロピンを いくら飲んでも 効かない。
どの医師に 診てもらっても
「こんな症状は 見た事も聞いた事もない、
手の打ちようがない、」 と 同じ事を 言われるだけでした。
表情は 前よりも はるかに ひきつり、
顔の左半分の方が 右半分よりも 強い力で
上に引っ張り上げられ、口元から 歪んでしまい、
左右の表情のバランスがおかしく、声を出す事も
困難な状態に なってしまいました。
「 線維筋痛症の 神経の痛み 」 と、
「 引きちぎられる様な 皮膚の痛み 」、
この 二つの痛みを 背負ってしまったのでした。
痛みが強すぎて 顔全体に広がっていき、
笑う事も、悲しむ事も、常に 顔が引きつっている
状態なので 上手く表情を 作る事ができない。
24時間、どんなに温めても 冷やしても
まったく 痛みが和らぐ事がなく、
たった1秒も 安らぎが訪れない。
夜になっても まぶたを 閉じることさえ
困難になってしまい、睡眠を とることも
ほとんど できなくなってしまいました。
毎日、睡眠時間は 3時間もなく、ようやく
眠れても 痛みで 何度も 飛び起きてしまい、
昼間も ふらふらで 精神状態も 壊されていき、
大学も 辞める事になりました…。
そんな 狂気じみた痛みに 支配されていく
日々の中で、高校生の時に、父さんと
映画館で見た、「 オペラ座の怪人 」 の
ファントムの台詞を 思い起こしていました。
「 さあ、戻ろう、暗い絶望に 満ち溢れた地下牢へ、
私の心を 閉じ込めている、あの地底の牢獄へ…。
この先に あるのは 地獄のような暗闇…。 」
ファントムは、幼い頃から 音楽を教えて
大切に育ててあげたのに 自分ではなく、
裕福な貴族の ハンサムな青年を選んだ、
クリスティーヌを 力ずくで 連れ去り、激しく問いかけます。
「 なぜ、私は 闇の世界の囚われ人なのか、
罪を犯したのではなく、この醜い顔のせい、
いつも 人に追われ、憎しみを浴びる。
優しい言葉を知らず、同情してくれる友も いない…
何故だ、何故なんだ…、 」
産まれた時から オペラ座の 地下迷宮で、
愛を知らずに育ってきた ファントムの嘆きが、
僕自身の嘆きの様に 感じとれていました。
これまで 周って来た、病院の医師達に言われたのは
「大きな怪我を してしまったり、
火傷を負ってしまっても、身体の 他の部分から
皮膚を引っ張って来て 傷付いている 部分の上に、
覆い被せる様に縫合する事で、回復していく事ができる。
一般的には、どんなに皮膚を 引き伸ばしたり、
強引に 引っ張って、縫い付けても、
時間の経過と共に、自然に
自分の身体の 一部として、慣れていくものだ。」
と 医学的に 説明してくれました。
ですが、この 皮膚を引きちぎられる様な 痛みは、
いつまで経っても 取れる事はなく、
35歳になった 今も、まったく 変わらずに
痛み続けています…。
高校を卒業後、通院していた 一年間の間に
映画の世界で、僕は ふたりの
素晴らしい友人と出会っていた。
彼の名前は、ラモン・サンペドロ と言いました。
スペインで 生まれ育った ラモンは、10代の
若かりし頃から 冒険心と 広い世界を
この目で見てみたい 探求心を抑えられず、
ノルウェー船の 搭乗員として、世界中の各地を
自由気ままに 放浪していました。
そんな 人生を愛し、思う 存分、謳歌していましたが
1968年、25歳の時、自宅近くの海岸で
いつもの様に遊びで 崖から 飛び降りると、
波が引いている事に 気づかず
海底に 頭を激しく 打ちつけてしまいます。
首から下が、まったく 動かない不随になり
全身麻痺の状態として、それから
26年間もの 気の遠くなる様な 歳月を、
ベッドで寝たきりのまま 過ごしてきました。
兄夫婦の 献身的な介護に 支えられながらの
毎日でしたが、ラモンは 「 尊厳ある死 」を 求めて、
国に 裁判を起こします。
スペインでは カトリック教会の権威が
強いために 「 自殺するのは罪 」 だと
安楽死は 国の法律で 禁止されているのです。
ラモンの弁護を 担当する事になった、弁護士のフリアは
自らも 進行性の 重い難病を抱えていたので、
ラモンの良き理解者と なっていきました。
ラモンの意思を 確認するために、
これまで 数え切れないほど
聞かれてきた問いを、もう一度 投げかけます。
「ラモン、どうして あなたは 死にたいの?」
いつもの 問いに対する返答は、
「 このような状態で 生きるのは 人としての
尊厳がないから…。何も 周りは恐れる必要はない。
「 死 」は 伝染しないよ。 」 だったのでした。
「 …例えば、君は そこにいる。
わずか 1メートル。 その距離は、僕にとっては
無限だ。君に触れようと 手を伸ばしたくても、
永遠に近づけない。叶わぬ旅路、
はかない幻…。 だから 僕は 死を選ぶ。 」
26年間の ラモンの悲しみは 経験した
本人にしか分からない、他の誰にも たどり着く事が
できない境地へと、達していたのです。
それは 人生に対する 諦めであり、
安らかな 死に対する 憧れでも ありました。
ある日、港町から 地方局のラジオで 働いてる、
ロサという女性が 訪ねてきました。テレビで
ラモンの裁判の事を知って、興味を持っていたのです。
過去に離婚歴があり、そばにいてくれる
男性の愛情を 必要としていた ロサは
常に紳士的で 話し上手な ラモンに惹かれていきました。
「 長い間、辛い半生を 過ごしてくると
自然に学んでしまうんだ。 涙を隠す方法を…。 」
どんな状況でも ユーモアを忘れず、
会話だけで 他人を楽しませてくれる ラモンは、
寝たきりの状態にも 関わらず、
常に たくさんの女性達に 囲まれていたそうです。
裁判の打ち合わせに よく 訪ねてくる様になった、
フリアと 次第に 心を打ち解けていきました。
この 26年間で ラモンが失っていったもの…。
たった一度しかない 人生の 儚い時間、
これからも そばにいてくれるはずだった 大切な恋人、
世界中を旅して 出会った友人達…。
ラモンにとって、生きる事は 自由を謳歌する事だった…
婚約者のいる フリアに 叶わぬ思いを抱き
空想の中で ラモンは ベッドから起き上がり、
自由に 空を飛び回り、海岸を
散歩していた フリアと 唇を重ねているのでした。
それから 旅立つ前に、自分が生きてきた証を
書き残すかの様に ラモンは 著作の本を、
家族の協力を得て 描き始めました。
車いすに乗って、裁判所まで 行きましたが
法の壁の前には あまりにも 無力で、
ラモンの訴えは すぐに却下されたのでした。
残された手段は 自ら 命を絶つ方法だけ…。
周りの人達を 巻き込むわけにはいかず、
悩み苦しんでいる ラモンに、フリアは
「私と いっしょに、旅立ちましょう…。」 と 微笑みました。
フリアは お互いに、自分たちは 分かちがたい絆、
安らかな死で 深く 結ばれているのを
はっきりと 感じていたのです。
ですが、ラモンの書籍が 完成した時、
フリアから 届いた手紙に 書かれていた事は、
ラモンを 更なる絶望へと追いやります。
突然、フリアは 約束していた決意を 翻したのです。
その夜、打ちひしがれた ラモンは
家中に 響き渡るほどの大声で、号泣し続けました。
「 どうしてだ、どうして 僕は
みんなの様に 自分の人生に 満足できない、
なぜ、僕は死にたい、なぜなんだ… 」
翌日、久々に訪ねてきた ロサは
思わぬ言葉を 口にしました。
「 手を貸して欲しい…? 」
ロサは ラモンの望みを 叶える事で
自身の愛を まっとうする道を 選んだのです。
旅立ちの場所は、ロサの暮らす、ボイロの 海の見える部屋。
1998年1月に 青酸カリを ストローで 飲み干した後、
ラモンは 26年間もの月日を、囚われた半生から
ようやく 解放されたのでした…。
もう一人の友人は 「 潜水服は 蝶の夢を見る 」
という 書籍を発表した、ジャン・ドミニク・ボビー でした。
ファッション誌として 有名な ELLE誌の
編集長として 思うがままに、誰よりも
充実した人生を 送って来た ジャンでしたが
42歳のある日 前触れもなく、脳梗塞で 倒れ、
生死を彷徨った 挙げ句に目覚めると
左眼の まぶた以外は 動かせない状態になっていた…。
身体的自由を 全て 奪われた状態、
「 ロックト・イン・シンドローム 」 という 障害になっていたのです。
言語療法士の アンリエットさんは
彼の左眼の まばたきが、
唯一の 伝達手段であると 気づき、
まばたきの回数から、伝えたい言葉を 一文字ずつ
受け取り コミュニケーションを 図っていきます。
「まるで 何かの標本の様だ…」
指一本 動かせない身体に、ジャンは 絶望します。
「私の人生は、今一歩の ところで
大切なものを 取り逃がす事の連続だった…。
愛する事が できなかった女性、
遠のいて行った幸せ、結果が分かっていたのに、
勝者に賭ける事が できなかった レース…」
今の自分は 深い、真っ暗闇の海の底へと、
身動きが まったく 取れない、
重たい潜水服を着て、沈んでいくだけだ…。
「もう 自分を憐れむのは やめた。」 と
ジャンは 空想の中で 生きていくしかない、
人生に 希望を見出していきます。
身体は動かないが、自由になるものが 3つある。
まず 左眼の まばたき、そして 記憶と想像力だ。
想像力と記憶だけでも、僕は 潜水服から 抜け出せる…。
蝶が自由に舞う様に、自分を 何処にでも 連れていける。
ある日 倒れる前に、自伝本を書く 契約を結んでいた、
出版社の方が 訪ねてきて、決意した ジャンは
まばたきだけで 書きたい文字を
ひとつひとつ 伝えて 物語を完成させていきます。
約20万回もの まばたきを 繰り返し、
全ての情熱を 一冊の本へと 捧げていくのでした。
理学療法士との リハビリで
ジャンは 首が動かせるようになり、車椅子に乗って
家族と 海に遊びに行くことも 出来ました。
僕は 確実に 回復していっている。
いつの日か、季節が巡り 秋が来て、冬を越せれば
暖かい春の季節に、蝶になって 飛び回れるかもしれない…。
希望を胸に 本の執筆を 進めていく中で
重たい潜水服は 徐々に軽くなっていく。
蝶になる前の さなぎの様に、羽ばたく事を
夢見ながら 彼は 物語を紡いでいった…。
ジャンが 亡くなったのは、奇しくも
自伝本 「 潜水服は 蝶の夢を見る 」 を
出版した 数日後でした。
97年3月に 合併症を 起こしたのが原因でした…。
僕は この二人と 年代や、障害の内容が
違っていても、不自由な生活を 強いられ、
心の中で 思い描いていた風景や
自らの人生を 振り返っていき、反省していた事、
闘病生活が 始まってから
人生と、どう 折り合いを付けていったか、
愛を求めて 空想の世界を 旅していった事…
などが あまりにも 僕と似ているので
僕自身の物語を 見ている様でした。
どうしても ラモンと ジャン・ドミニクを、他人だとは 思えなかった。
映画の中で、初めて 存在を知った時
二人とも もう、亡くなっていましたが、
この スペインとフランスで 実在した、二人の
歩んできた 壮絶な闘病記は、その後の 僕の
心の在り方にも、大きな影響を 与えていきました。
ラモンと ジャン・ドミニクが 亡くなった時は
98年と 97年の わずか 一年足らずの差でした。
この時期は、僕が 10歳の頃で
毎日 小学校に、当たり前の様に通い
これから訪れる 不幸など 何ひとつ考えることなく、
今だけを 精一杯、楽しんでいた時に
二人の 尊い命は 静かに燃え尽きたのでした。
翌年の99年に 中学校に入学した頃から
僕の 終わりの見えない闘病記が スタートしたのです。
まるで リレーをしていて、ラモンと ジャン、
二人の命のバトンを 僕が受け取って、あの時に
走り出していたのかな、と 勝手に 空想していました…。
二人の命を 僕が この先へと繋いでいかなければ…。
僕は こんな状態になっても、二人の様に まだ生きている…。