中学校まで 歩いて 20分ほど、
その距離は 今の僕には
永遠に感じられるほどに、あまりにも遠かった。
本当なら 毎日、全校生徒が 600人もいる、
校舎の中で 何も制限される事もなく
自由気ままに 友達を たくさん作り、
義務教育も きちんと受けられて、好きなだけ
青春を謳歌する 日々を送っているはずなのに…。
真っ暗な家の中で 感情を すべて押し殺し、
たった一日も 遊ぶ事もできず、
ただひたすら 陽の光の入らない牢獄で、
解放される日を 叶わないと分かっていても 待ち続ける、
終身犯の様に 月日だけが 残酷に過ぎ去っていった。
「 再手術は 傷が完全に回復するまで、
最低でも 半年は待ちなさい。 」 という
医師の判断を、一日でも 早く 学校に戻りたい…と
必死に 説得し 聞き入れて もらえました。
4ヶ月後、子供達は 夏休みの真っ只中の 8月に、
2回目の手術を 同じクリニックで 受けました。
僕は ちゃんと話を聞いてくれる 医者に変えたいと
伝えましたが、父さんは
「 もう 医者を探すのは 面倒だから、
同じ医師に 執刀させないなら 精神病院行きだ、 」 と
脅しをかけ、半ば 強制的に
同じ医師の再手術を 受ける事になりました。
「 面倒って なんだ? 」
「 僕のことを 父さんは なんだと思っているんだ? 」
もう 父さんの 顔を見るのも怖かった…。
医師は 明らかに機嫌が悪く、さっさと終わらせたい、と
考えているのが 態度に はっきりと出ていました。
前回を教訓に 次は 最初の手術の
3倍ほど、まぶたを上げてみました。
医療の知識など まったくないので
一体 どうすればいいのか、僕には 分かりませんでしたが
「 きっと これでいいんだ… 次は きっと うまくいく… 」
と 不安な思いを 必死に 拭おうと、
自分に 言い聞かせていました。
2回目のメスが ゆっくりと まぶたに入り、
また 30分の拷問の様な時間を 耐え抜いて、
手鏡を見ると、そこに映っていた顔は、
またも 何も変わっていない、三白眼の鋭い目のままでした。
途端に 激しい過呼吸が起こり、胸の動悸が激しくなり
冷たいコンクリートの床に うずくまり、
意識が遠のいて いきました…。
目の形が あまりにも 細すぎて
別の医師に 忠告された通り、1回や 2回の手術では
形はたいして 大きく ならないのです。
しばらく部屋に こもって、食事もとらず 泣き続けていました。
数日後、父さんは 衰弱しきった 僕の姿を見て、
「 どうして お前は 家族を苦しめる?
どうして お前は周りの人を、みんな不幸にするんだ? 」 と
拳を振り上げ、怒鳴り続けました。
まるで ホロコーストのドキュメンタリー映画で 見た、
ドイツ国民に向かって、大げさな 身振り 手振りで
演説をしている アドルフ・ヒトラーの様だった。
優しかったはずの 父さんの顔が、
アドルフ・ヒトラーに そっくりに 見えてきて、
僕は これから 精神病院ではなく、ガス室に
送られるのでは ないのか、と 怯え始めていました。
ホロコーストでも 600万人のユダヤ人の、
女性や子供よりも 先に、
身体障害者や 精神病の人達が
「 医師達の積極的な 勧め 」 に より、
ガス室に送られて 命を落としていったのです。
「 よくも、俺に逆らったな、お前を 精神病院に
ぶち込んで やるからな、 」と わめき散らす声が…、
「 よくも、俺に逆らったな、お前を 強制収容所に
ぶち込んで、ガス室に送ってやるからな、 」
に だんだんと 聴こえてきた…。
母さんは なにも言わず、部屋の片隅で 泣いているだけ…。
鬼の様な形相の、父さんの葛藤が
息子の僕は すべて 分かっていました。
僕を救いたいけど どうすれば いいんだ…
方法が分からない…。
【 報われなかった 卒業式 】
2001年9月11日 2機の旅客機が
澄み切った青空の下、ツインタワーに
突っ込み 炎を噴き上げる映像が
どのチャンネルでも 流れていた。
すさまじい轟音を立てて 崩れ落ちていく
巨大な建物、血だらけで 逃げ惑う
ニューヨークの人々… テロリストの仕業だと
大統領は カメラに向かって 叫んでいる。
新聞を読みながら 父さんは
「 大変な事になった… 」 とだけ つぶやきました。
僕は慌てずに 2階に行き、窓を開けて
穏やかな 初秋の風を感じて そっと 目を閉じました。
どこか遠くから たくさんの悲鳴や
高層ビルが崩壊していく
激しい音が 聴こえてきた 気がしたが、
風の音色に 耳を傾けているうちに
かき消され、次第に 遠ざかっていった…。
「 俺は 精神と魂の中だけで 生きているんだ。
最後には この刑務所も消え、
ルービン・カーターも消え
残るは ハリケーンの名のみ。
その後は 永遠の空白が…。 」
わずか2年半の 耐え忍ぶ日々で
ルービンの言葉に 共感できるほど
僕は 心を 打ち砕かれていました。
でも ルービンは、長い投獄生活の果てに 自由を手にした。
僕も いつか その日が来る。
最後の力を振り絞り、新しい紹介状を持って
札幌駅の近くにある、市立 札幌病院の 眼科を訪れました。
これまで 僕は、たくさんの医療関係者の人達と 出会って、
病院の裏側の お話を 耳にしてきました。
あそこの大学病院は、患者を モルモットの様にしか
見ていない、ひどい医者ばかり… だとか、
ある病院の 看護師さんには、
「 大学病院は 映画 「 白い巨塔 」の様な
医者同士の どろどろした 権力闘争が凄いんだよ。 」
と 言われて 昭和の頃みたいな話が、
今も あるんだ… と 驚いていました。
市立病院も 大学病院みたいな 怖い場所なのだろうか…。
総合病院なので 多くの患者が 出入りしていて、
吹き抜けの 大きなホールもあり
開放感のある きれいな建物でした。
窓も少なく、あまり 陽の光も 入らないほど
閉鎖的な大学病院とは、大きな違いでした。
たくさんの人達で 院内は溢れかえっているので
緊張感も 次第に薄まり、安心していました。
紹介されたのは、眼科の 40代の穏やかな女医さんでした。
うつむいて 上手に話せない僕に、
「 落ち着くまで 待っているから 大丈夫だよ。 」
と 優しい目で にっこり 微笑んでくれました。
今まで会った、傲慢な医者達と この人は違う…。
この女医さんなら きっと 僕を救ってくれる…
と 直感的に 確信しました。
12歳からの状況を 詳しく説明した後、
僕は 「 眼瞼下垂症 」 と 診断されて、
正式に病名を貰い やっと、これまでの苦労を 認められました。
「 眼瞼下垂症 」 と はっきりと 大きな文字で
表示された、診断書まで 書いてくれて、
僕は 大勢の拍手に包まれて、壇上に上がり
これまでの 一人ぼっちの闘いの
功績が称えられて、賞状を受け取った様な 気分でした。
…ルービンは、刑務所の面会室で
強化ガラスを 何度も叩いて、弁護士に訴えていた。
「 もう待てない、私は もう50だぞ、
今までに、約30年も 監禁された…、早く ここから出せ、 」
テレビ画面の中で、僕も いっしょになって 叫んでいた。
「 もうすぐ 3年だぞ、
ここから出せ、一日でも 早く出すんだ、 」
再手術は 半年後に… と言う 女医さんを説得し、
札幌中が 真っ白な白銀世界へと 染まっていった、
12月20日に 3回目の手術が 決まりました。
吐く息が白くなり、いつの間にか
学生たちは 高校受験の ラストスパートに入っていた。
学習塾、高校受験、将来の進路…
今の僕には 想像も つかない、
ニュースで よく見る、世界の紛争地域みたいに
どこか遠く離れた国の 出来事の様だった。
待合室で 呼吸を整えて、3度目の手術台へ 向かいました。
経験を積んで 慣れてきたのか、最初の手術の時と違い、
心は平常心を保って 落ち着いていました。
横になると、看護師さんが そっと手を握って
「 終わるまで 隣にいるから 安心してね。 」
と 小声で 優しく言いました。
握ってくれた 手から伝わる ぬくもりに
僕は どれだけ 勇気づけられて きただろうか…。
3度目の麻酔注射が まぶたに入り、
僕は そっと、両目の まぶたを閉じていきました。
女医さんは 執刀中に何度も 僕のことを気遣って、
「 大丈夫?気分は 悪くないかな? 」 と
声を かけてくれました。
「 気分が悪くなったら 我慢せずに 手をあげてね。 」
と 言われましたが 僕は 今までの
2回の手術にも 耐え抜いてきたんだ、
あと 1回くらい、あと 1ラウンドくらい、
最後まで 闘ってやる…。と 心の中で 叫んでいた。
手鏡を持って、慎重に 何度も 目の形を確認しながら
施術は ゆっくりと進んでいきました。
丁寧な手術を してくれたので、
予定していた時間より
10分ほど かかり、無事に終わりました。
大げさな 眼帯のガーゼを 目に貼られ、
待合室で 休んでいる間、辺りを見渡すと、
僕が 夕方の 最後の患者だったらしく、
吹き抜けのホールも 人は まばらで
いつも 慌ただしく たくさんの人が行き交っている、
病院内は 不自然なほど、静けさに包まれていました。
窓の外は 雪が ぱらぱらと降っていて、
この静けさが 闘いを終えた僕には なんだか心地よかった…。
帰りの車内の窓から 通り過ぎていく
景色を眺めてると 聴きなれた クリスマスソングが
どこからか流れてきて、札幌市内の ところどころにある、
装飾された、ツリーの灯りが いつもより 眩しかった。
大きな 眼帯のガーゼを 貼られた目で
通りを行き交う、幸福そうな カップル達を 眺めながら
「 世間は もう クリスマスなのか…。 」
と 思わず 小声で つぶやきました。
2週間後、腫れが治まった 目の形は、
元の形に比べたら まだまだ
細かったのですが これで 頑張っていくと
覚悟を決めるしか ありませんでした。
顔の腫れが 落ち着いても、
僕は あしたのジョーみたいに
言葉通り 真っ白な灰になって、燃え尽きていました。
一日中、放心状態で 何も手につかず、テレビも点けず、
部屋の窓から見える 雪景色を眺めながら、
ただ ぼんやりしていました。
「 憎しみで投獄され、愛が 私を檻の外へ…。 」
釈放され、自由を手に入れた ルービンの言葉が、
いつまでも 耳に残っていた。
僕は 本当に 自由になったのだろうか…。
際限なく 降り積もっていく 雪を
いくら 眺めていても、何も 答えは出なかった…。
正月になると 不登校になっていた、緑陽中学校の
クラスメイト達から、たくさんの年賀状が届きました。
「 みんなも 松下くんに 会いたがっているよ。
早く 学校に戻って来てね。」
「 クラス全員が揃って、仲良く 卒業式を迎えたいよ。 」
など、僕を心配してくれる言葉が いっぱい書かれていました。
おそらく、担任の先生に言われて
年賀状を みんな、送ってくれたのでしょうが
それでも 泣きたくなるほど 励まされたものでした。
時間と共に 徐々に 気力を取り戻し、
約2年ぶりに 懐かしい中学校に 帰って来た時、
早春を迎える季節の 3月になっていて、
卒業式の わずか数日前でした。
数十年ぶりに 戻ってきたかの様な、
愛おしい 木造校舎の匂い…。
長い廊下の端まで 響き渡る 生徒達のはしゃぐ声…。
3年生たちは、卒業式の予行練習で
体育館に 集まっていて 忙しそうでした。
放課後、夕暮れに赤く染まっていく 教室の中で
やるせない気持ちを 抱え込んだまま、
ひとり 佇んでいました。
使い古された机の ひとつひとつに 手を置き、
僕は この教室で 最後の一年間を
クラスのみんなと 送るはずだったんだ…。と
やり切れない、感傷に浸っていました。
先生が 声をかけてくれたのか、
部活などの用事があって残っていた クラスメイト達が
僕に気づいて 次々と 教室に集まってきました。
あっという間に 僕の周りを囲んで、
「 もうすぐ 卒業式だよ、みんな 松下くんが
学校に来るのを、ずっと待っていたんだよ。 」 と
心から 喜んでくれました。
待ち望んだ 瞬間だったはずなのに、
数日しか 登校していなかったので クラスメイト達が
誰が誰だか ほとんど 顔を覚えていなかった。
ショートヘアの 人懐っこい女の子も
すぐに 僕のそばに 駆け寄ってくれたけど、
どんな言葉を かけたらいいのか、まったく分からなかった。
みんなの話題にも まったく ついていけない。
「 僕の 3年間の楽しかった思い出は
精神科を 無理やり たらいまわしにされて、
メスで 顔を切り刻まれていた事かな。 」 なんて
言ったら、みんな どんな顔を するだろうか。
そんな 皮肉しか 思い浮かばない…。
たった一度しかない、中学校生活を
何もかも 全て 失ってしまった…
いや、何もかも 奪われてしまった…。
他の生徒達が帰宅した後の、静まり返った
校舎の玄関で、大声を上げて 3年分、泣き続けました。
「 3年間…、3年間も
何もかも 犠牲にして、闘ってきたのに…。
僕は間に合わなかった、どうしてなんだ…、 」
体育館の出入り口の付近に もう、無慈悲に
「 緑陽中学校 第~回 卒業式 」 と
書かれた看板が 立て掛けられていた。
まるで 3年間も 牢獄の中で 冤罪で服役していた僕に
「 死刑宣告 」を するかの様に…。
ようやく、中学校に帰って来れた…、と 思ったら、
来週には 卒業式が終わって、
この校舎から 追い出されてしまう…。
せっかく再会できた クラスメイト達とも
すぐに 離れ離れになってしまう…。
生徒達は みんな 帰宅して、人の気配のない
薄暗い校舎の中に 下校チャイムの音色だけが
不気味に 響き渡っていました。
僕は もう、ここには いられないんだ…。
まだ 雪が冷たく 降りしきる中、遠回りをして
こそこそと惨めに、家路を歩いていました。
転校前の 不登校になっていた、東部中学校の
生徒達と 顔を合わせるのを 避けるためです。
デパートや スーパーが並び、
仕事や学校帰りの人で、賑わう 駅前の通りではなく
あまり人を見かけない 住宅街の中を、
重い雪に足をとられて ふらつきながら、
とぼとぼと 歩いていました。
何も報われなかったけど、3年間 一生懸命 闘ったよね。
励ましも 声援も 聴こえてこないけど、
精一杯 頑張ったよね。
ゴールテープも 見えないけど、僕なりに
不器用だけど、前に向かって 走り続けてきたよ。
淡い雪が 僕の 3年間の悲しみを、
すべて 優しく包み込むように 降り積もっていき
この小さな街を、幼い頃から
見慣れてきた、真っ白な景色に 変えていました。
静寂の中に、雪を踏みしめる 靴音だけが
はっきりと聴こえていました。
冷たい指先を こすって 温めながら、
また 一歩ずつ、踏み出しました。
「 天使たちの歌 」
作詞作曲 坂本サトル 引用
「 道は険しいけれども、これから 出会う人々や
春を待つ 道端の草や花、氷の下で 流れる川
そして やがて広がる、街明かりでさえもが
疲れた君を 癒してくれるだろう…。
いつか君が 誰もいないゴールで その旅を
静かに 終える時が来ても 耳を澄ませば 聞こえるはず
空から降り注ぐ、祝福の喝采と
君を包み込む 天使たちの歌。 」
中学校の卒業式が 終わって、しばらくしてから
担任の先生が 自宅を訪れて、
卒業アルバムと 卒業式の時に 記念撮影した、
クラスの集合写真を 届けてくれました。
たったの数回だけしか 会った事のない
クラスメイト達は みんな、こんな顔を していたんだ… と、
ぼんやり 集合写真を見つめていました。
その中には、僕の顔だけが どこにも 写っていなかった。
転校してきた、中学2年生の時から
卒業までの 2年間、このクラスメイト達と、
仲良く 中学校生活の思い出を 作っていけたのかな…。
でも もう、いくら後悔してみても、過ぎ去った季節は
2度と 帰って来ることは なかった…。
内申点がないので 高校に 進学できなかった僕は
どこにも 行く当てがなく、たまたま見つけた、
寮がある フリースクールに 入ってみました。
そこは特殊な フリースクールで
授業の内容に ダンスレッスンが含まれていて、
ダンスを学ぶために 入学してくる若者たちも 大勢いました。
自由な校風なので 髪を染めたり
ピアスをしている生徒が ほとんどで
僕は完全に 一人だけ 場違いで 浮いていました。
勉強を学ぶ事もできず、いつも 隅っこで
つまらない教科書を開いたり、読書をしていました。
僕は 病院から 解放されてからも
3年間、ほとんど 人と会話した事がなかったので
言葉の発音が 上手くできず、
3回の手術の トラウマも重なり
数ヶ月間 声を出す事が、できなくなってしまいました。
他者との コミュニケーションが まったく取れず、
周りの生徒達が せっかく、話かけてくれても
小さく うなずくのが やっとでした。
寮の部屋では 大阪からやってきた、
同世代の不良達と 相部屋になってしまい
地獄のような日々を 送ることに なってしまいました。
一人は ヤクザの組長の息子と名乗っていて
もう 一人は 自分の母親を刺して、鑑別所に
入っていたと 自慢げに語る、本物の悪童たちでした。
目つきや素行の悪さが 普通の生活を過ごしている人達と
かけ離れていて、関わってはいけない
人種の連中だと 一目で 理解できました。
3年間の 拷問の様な日々で
心も身体も 壊されきっていた僕に
毎晩 因縁をつけ 絡んできて、
心が休まるどころか 更に ひどく、壊されていきました。
「 俺は 自分の母親を刺したんだぜ、すごいだろ、」 と
いつも 深夜まで 鑑別所に入っていた 自慢話を
延々と聞かされ、ヤクザの息子は 一晩中、
鼓膜が破れる程の 大音量で
ヒップホップの曲を 流し続けていました。
僕を 睨みつけては
「 いつも 怯えた顔を していないで、俺たちに
ガンを飛ばすくらいの、度胸を見せてみろよ、 」
と 事あるごとに 挑発してきました。
「 つい数か月前に 両目を、3回も手術した
ばかりなのに、どうして 関西のヤンキー達と
睨み合いを しなければ ならないのだろう…。 」 と
心の中で つぶやいては ため息を ついていました。
結局、そのフリースクールは 3ヶ月で
疲れ果てて 辞めてしまい、3度目の手術を終えた
後よりも 更に ボロボロになった姿で 帰郷しました。
父さんは ガンを再発し、2度目の手術を受けて
入院していました。母さんも 乳がんの
抗がん剤治療と エスカレートしていく 姉の暴力で
別人の様に やつれていました。
そんな 両親の姿を 見ていて、
「 本当は 僕が ふたりを支えなければ
いけないのに… 申し訳ない…。 」
という 罪悪感が 次第に 強くなっていきました。
どこか遠くに、逃げたい感情を 抑えきれず、
両親を説得して、半年ほど
東京で 学生寮に入って 暮らし始めました。
北海道を 離れる前に 映画館で
母さんと 「 ビューティフル・マインド 」 を 観賞しました。
ゲーム理論の研究をし、ノーベル経済学賞を
受賞した、数学者 ジョン・ナッシュ。
30歳頃、パラノイド型 統合失調症になり、
70年代に 症状が回復していったのですが、
彼の症状が和らぎ 立ち直っていったのは
薬物ではなく ( 本人も 薬物療法を 拒絶した )、
妻 アリシアさんの 献身的なサポートと 穏やかな日々、
研究者として まだ 「 在学 」 していた、
プリンストン大学の 学生が、
彼の奇妙な言動を 拒絶反応を 示さずに、
受け入れてくれた事だったそうです。
僕が 何よりも 感動したのは、
アリシアさんの どんな時でも ナッシュを
そばで支えて 愛し続ける、ひたむきな姿でした。
アリシアさんの愛情が あったからこそ、
ナッシュは 辛い半生も耐える事が できたのです。
そして、これが 母さんと過ごした 最後の時間でした。
…34歳になった 今も 心の傷が癒えず、
母さんの顔を 思い出す事も 苦しくて、あまりできません…。
大都会の 東京を選んだのは、
地方から上京する、若者達のように
都会に行けば 何かが見つかると思っていたのです。
雪に覆われ まるで 監獄にいるような
北国から 逃げ出したかった。
開放的な 夏の空気を 味わいたかった。
新宿から 京王線で 5、6駅目の場所にある、
調布市の仙川で 生活していましたが、
平日の昼間でも 駅周辺の商店街は
人混みで ごった返していて、歩くのも 大変でした。
密集した住宅街の中には ベンチに腰掛けて
くつろげる公園も 広場もなく、言葉通り、
「 コンクリート ジャングル 」の中で
生活している様でした。
引っ越してから 少しして、父さんから 連絡がありました。
僕が 東京に引っ越して、一週間後に
父方の 農家の おばあちゃんが、
老衰で亡くなったと 告げられました。
それまでは いつも通りだったのに、夕方になっても
戻って来ないので おじいちゃんが 様子を見に行くと、
自宅前の庭の中で 倒れて 亡くなっていたそうです。
いつも 休日に、農業の お手伝いをしに行くと
喜んでくれて たくさんのお菓子や 飲み物をくれました。
穏やかな人柄だったので、
僕も 小さい頃から なついていたのに…。
「 あんなに 可愛がってくれたのに、
おばあちゃんの お葬式に出られなくて ごめんね。 」
と 父さんに話すと、怒る事もなく
「お前は 何も気にしなくて いいんだよ。
また 北海道に 帰って来た時にでも、
父さんと ゆっくり、お墓参りすれば いいさ。」 と
励ましてくれました。
父さんの方が 落ち込んでいるのでしょうが、
僕に気を使わせない為に、無理をして
明るく 振る舞っているのが、子供心にも 伝わってきました。
学生寮の寮母さんが 心配して
「パソコンで 人と交流したり、出会える場所を探したら、」
と 教えてくれましたが
パソコンの使い方も さっぱり 分からなくて
まだ 携帯電話すら 持っていなかった。
立ち並ぶ高層ビルが すきま風も通さない、
真夏の 東京の中を、小学生の子供が着るような
地味な服装で あてもなく うろうろしていました。
値段が安いから、という理由だけで
地味な服を着ていて オシャレをするという感覚も
当時は よく分かりませんでした。
「 東京砂漠 」の孤独を 身をもって 経験し、
新宿御苑で 鳥のさえずりを聴きながら、
「 どうして 僕は こんなところにいるのだろう…。」
と いつも想っていました。
本当なら 今頃、他の生徒達と いっしょに
近くの高校に入り、ありふれた、
退屈だけど 愛おしい日々の中で
小さな幸せを 噛みしめながら 過ごしていたはずだ。
変わり映えのない日常の 何の刺激もない。
芸能人になりたいとか オリンピックを目指すとか、
大きな夢や 目標を持つこともない。
どこにでも ある、ただ ありふれた平穏な日々。
関東の ジメジメした うだるような 真夏なのに、
コンクリートジャングルの中では 青い海から
風に乗って流れてくる 潮の香りや
夏の匂いを感じられず、カレンダーを
8月に めくっても なんだか一人だけ、
冬の季節に 置き去りにされている気分だ。
さざ波の音を聴きたいけど 仙川駅で
電車の路線図を見ると、湘南の海も 遥か遠くにありました…。