「 不毛の地に立つ もみの木は 枯れる
樹皮も葉も それを保護しない
誰にも 愛されぬ人も これと同じだ
どうして 長生きしなければ ならないのか…。 」
オーディンの 箴言より
1986年に 北海道札幌市の隣にある
ベッドタウン、北広島市で 生まれた僕は 12歳まで
何不自由なく、恵まれた環境で のびのびと育ちました。
広島県から、移住してきた人たちが
多く暮らしていたので 明治時代に
「 広島村 」 と 名称されたそうです。
1996年に 広島県 広島市と、地名が混同しているのを
避けるために 「 北広島市 」 と なりました。
僕が幼い頃には 日本一、緑の多い街にも
選ばれた事がありますが、でも実際は
ゴルフ場の面積が 大半を占めているだけでした。
新千歳空港と 札幌駅の ちょうど中間にあり、
交通も 便利で 市内は 緑に包まれて
緩やかに時間が流れ、暖かい地域の方たちが
イメージする、「 住みやすい北海道 」 を
思い描いた街でした。
数年前、近所に 日本ハムファイターズの
ボールパーク建設が 決まり、今も
人口が増え続ける 数少ない街です。
父さんは 市役所職員で、息子から見ても
二枚目の人格者で 多くの人達に慕われていました。
母さんは 駅前の北広島病院で 看護師をしていて、
家庭的で 庭の手入れが趣味の 温厚な人柄でした。
父さんの 学生時代は、学費を稼ぐため
四年間、飲み屋のバイトに明け暮れ
大学には あまり 思い出がなかったそうです。
それでも 後悔はなく、自分の青春を 誇らしく思っていました。
仕事から 帰ってくると よく 下手なギターを弾いて、
音程の外れた 神田川を聴かされたものです。
そんな 両親は 他の何よりも、僕の自慢でした…。
僕はサッカーや 水泳を習い とにかく
身体を動かすことが 大好きで、毎日 日が暮れるまで
サッカーボールを蹴って 校庭を 走り回っていました。
クラス活動や 行事で リーダーを任される事が多く、
生徒会では 書記を務めて サッカーや 水泳、
英会話教室など、たくさんの習い事も
通っていたので、市内に 全部で、七校ある
小学校にも、友達が たくさんいました。
街のどこに行っても 必ず、他の小学校の
知り合いと出会ってしまい、一人に
なりたくても 周りが放っておいてくれないので
いつも 困っていました。
「 どこかに 一人で 考え事を できる場所は
ないのか? 」 と よく 友達に
愚痴っていたものです…。
近所のスーパーのとなりに 小さなレンタルビデオ店があり
スターウォーズや 未知との遭遇の影響で
70~80年代に 大量に生産された、
安っぽいCGで造られた B級のSF作品や
「トワイライトゾーン」など 懐かしいオカルトものが
店内の隅から隅まで びっしりと並んでいた。
店員の 丸メガネのお姉さんが 優しくて、
貼り終わって もういらなくなった 映画の
ポスターを いつもいっぱい 分けてくれました。
この頃から ロードショーやスクリーンなど
映画雑誌も買い始め、嬉しくて ポスターを部屋中の
壁に貼っていき、貼れる場所がなくなると 天井にまで
びっしりと貼り、隙間なく 埋め尽くしていった。
真夜中になり ベッドに横になると 天井を見上げて
思いのままに 空想の世界に浸りながら
眠りについていたものです。
2週間に一度は 休日に 母さんと二人で
中央公民館に通い、館内の奥に ひっそりと
佇んでいる図書室で スティーブンキングの
小説ばかり 借りて読んでいました。
窓際からは 公民館のとなりの
大きな広場が見えて 陽だまりの中、
お年寄りの方達が ゴロッケを楽しんでいました。
どこからか 子供の遊び声や小鳥のさえずりが
静けさに包まれた図書室まで 聴こえてきて
受付のおばあさんは いつも 眠たそうな表情をしていました。
街から 一歩、外に出ると 北国らしい
果てしない広い大地が どこまでも 真っ直ぐ続いていて
仲間達と自転車に乗って、信号も 標識もない、
田舎道を 息が切れるまで 走っていました。
どこまで 走り続けられるか、試してみようと
4、50分間ほど 途中に 自動販売機もない、田舎道を
ひたすらペダルを漕いでも、
隣り町の民家すら まったく 見えてこない。
未来の可能性は この真っ直ぐな道の様に
無限大に 広がっている気がしていました。
スタンドバイミーみたいな友情が
大人になっても いつまでも 続いていくと信じていました。
景色の全てが 黄金色に輝いて
スティ―ブン・キングの小説の 有名な台詞の様に
僕は 感じ取っていました。、
「 小さい頃は アトランティスの様な 幻の国にいるようだ。
大人になると 幻の国は 消えていってしまう…。 」
詩的な 表現の台詞みたいに、
この世界は 僕の眼には 映っていました。
あの頃は 季節の変わり目を
はっきりと感じる事ができ、この町が 世界の全て でした。
人の良心や 優しさを まったく疑うことなく 生きてきました…。
そんな僕の世界が 音を立てて 崩れ始めたのは、
小学6年生の 夏休み頃でした。
気付いた時には 両目のまぶたが
次第に ゆっくりと 下がり始めたのです。
同じころ、思春期を迎えた僕は、
いつも 騒いでいる友達と 距離を置き、
口数も 次第に少なくなり 詩集など
小難しい本を読み漁り、自分だけの世界に
居心地の良さを 感じる様になり
一人で過ごす時間が 多くなっていきました。
髪形を気にしたり、幼稚園の頃から
ずっと 一緒に過ごしてきた、クラスの女の子たちも
友達から 異性へと意識し始めていました。
秋になると 人知れずに、寂しさも感じる様になり
舞い散っていく 落ち葉に 過ぎ行く
月日を重ねて 見つめていました。
休日は 一階の レコードが置いてある 和室にこもり
オリビア・ニュートン・ジョンの ベストアルバムや
河島英五、ベンチャーズなどを 聴き続けていました。
あの頃、お気に入りの レコードは、
サイモンとガーファンクルの 「 ブックエンド 」 だった…。
思春期の始まりと 目の形が崩れ始めた時期が、
タイミングを合わせたかの様に 同時に訪れて
僕の平穏だった人生を、ゆっくりと 狂わせていきました。
「 小学校生活の思い出を残したい。 」 と
父さんに お願いをして、当時は 高額だった、
8mmの ビデオカメラを買ってもらい、
毎日 学校に持っていっては 6年間 通い慣れた校舎や、
友達の姿を フィルムに収めていきました。
一時間の 退屈な授業、
こっそり忍び込んだ 立ち入り禁止の屋上、
放課後の サッカーや バスケットの試合、
体育倉庫の中で 跳び箱の上や、マットに寝転んで
親しい仲間たちと 思いついた事を 何でも語り合う時間。
生徒達が みんな帰宅した後の、
「 愛と青春の旅立ち 」 の
下校チャイムが 鳴り響いている廊下…。
どうして あんなに 必死に、映像を残して置きたいと
撮り続けていたのかは、僕自身も
いくら 思い返してみても 不思議でした。
まるで これから 20年以上もの歳月を、
残酷に奪われてしまう事を
本能的に 感じ取っているかの様だった。
思い出を残せるのは 今だけだ…と
無意識のうちに 気付いていたのでしょうか…。
冬になり、卒業式が 近づく頃になると
前髪を伸ばし続け、「 ゲゲゲの鬼太郎 」 みたいに
すっかり つぶれてしまった 両目を
必死に 隠していました。
雪が 真綿の様に 音もなく 降りしきり、
6年間の思い出が詰まった 木造校舎や
グラウンドを 白く染めていく中、
卒業式では キロロの 「 未来へ 」 が流れていました。
「 ほら、足元を見てごらん、これが あなたの歩む道…
ほら、前を見てごらん、これが あなたの未来…。 」
卒業生が 一人ずつ、壇上に上がって
校長先生から 卒業証書を 手渡された後、
席に戻る前に、短い別れの言葉を スピーチしていきました。
他の生徒が 20秒足らずで スピーチを終わらせ、
さっさと 席に戻っていく中、僕は長々と
「 6年間の思い出話 」 を 熱く 語っていました。
「 この小学校で過ごした、6年間の思い出は、
色褪せる事なく 永遠に輝き続け…、 」
「 この 6年間の育んだ友情は、いくつになっても 永遠に… 」
昭和の 熱血学園ドラマの様な、
ベタなスピーチを している間、次の順番の子は
「 まだ 終わらないのかな? 」 と言いたげに
周りを キョロキョロ 見渡していました。
在校生たちが 舞台に上がって
合唱曲 「 さようなら 」 を 歌ってくれている間、
「 ああ、もうすぐ 楽しかった小学校生活も
終わって しまうんだな…。 」と 拭っても、
次々に あふれ出る涙を 必死に こらえていました。
となりにいた友人たちが
僕の8mmの ビデオカメラを持って、
いつの間にか 泣き顔を 撮影していて、
「 しっかり 記録しているから、思う存分 泣いていいよ。 」
と言われ、カメラを 取り戻そうと
いつもの様に じゃれ合っていました。
友達と 教室のいたる所に 黒や赤のマッキーで
自分の名前や 別れの言葉を
先生に見つからない様に 小さく 書き残していました。
卒業式を終えてから 10日後に
小学校の近くにある、小さな 町内会館で
6年1組の お別れパーティーがありました。
テーブルの上に
買ってきた お菓子の袋を破いて ばらまいて、
6年間の 思い出話というより、
最近 人気のテレビゲームや 芸能人の話題など、
いつもと変わらない、他愛のない
お話ばかりで ワイワイ 盛り上がっていました。
どうせ 中学生になっても、毎日
顔を合わせるのだから… と 誰もが 思っていたのでした。
約2時間の、お別れというより
ただ 騒いでいただけの パーティーも終わり
まだ 歩道の隅々に 溶けかけた雪が残る 帰り道を
自転車を押しながら 歩き始めると
名前を 呼び止められて、振り向きました。
小学5年生の 3学期頃から お互い
悪口を言い合い、気まずくなって 会話もなかった
クラスメイトが 僕を じっと見つめていました。
数秒 間を置いた後、
「 またすぐに 中学校で 再会しような。 」 と
曇りのない笑顔で まっすぐに、
素直な気持ちを 伝えてくれました。
「 中学生になっても また3年間も 一緒なのか。
早く 高校生に なりたいよな。 」
と 返事を返して、お互い 笑い合っていました。
春が近づくと共に、歩道の あちらこちらに
薄っすらと残っている 氷の塊が
自然に溶けて 水になって 流れてゆく様に
小さな わだかまりも 簡単に解けていった…。
目の前に 思い描かれるのは、ただ
明るい人生だけだった。それなのに どうしてだろう…。
町内会館の前で 「 中学校で 再会しような。 」 と
声を掛け合って 別れた後、ふと 振り返り
まだ 僕に 手を振り続けている、
クラスメイトの 屈託のない 笑顔を見て
なんだか、もうすぐ どこか遠くに行って
会えなくなってしまう様な、そんな 気がしていた…。
北国では 桜の開花は 5月頃なので、春の季節は まだ先でした。
「 さようなら 」
合唱曲 引用
「 素晴らしいときは やがて 去りゆき
今は 別れを 惜しみながら
共に歌った喜びを いつまでも
いつまでも 忘れずに…。 」
中学校に 入学すると
容姿の事で 周囲から 悪口を言われ始め、
「 目がきつすぎる、狐目、 」 などと
陰で叩かれ、僕の顔を見て
わざとらしく 吐く仕草を する人もいました。
仲の良かった友達も 一学年6クラスも あるので
みんな 別々のクラスに 散らばってしまい、
部活動などで 忙しくて 放課後も
顔を合わす事すら 次第に無くなっていった。
そんな 耐えがたい日常でも、自分を
見失わない様に 明るく振舞っていたのですが、
いつも うつむいて 顔を隠している 僕の事を
面白がって からんでくる 不良たちとの
もめ事にも、疲れ果てていました。
まるで 蛇の様に しつこく、ねちねちと絡んでくる、
不良達の いやらしい目つきに
学校にいる間は 吐き気を こらえるのに必死でした…。
6月の体育祭の時、クラスにいた
知的障害の子を いつもの様に からかったり
馬鹿にしていた不良達に 我慢できなかった
僕は、グラウンドの 真ん中で
「 いい加減にしろ、お前ら、
こんな事をして 恥ずかしくないのか、 」 と
大勢の生徒達が 見ている前で
大声を上げて 怒鳴りました。
担任は その様子を見て、あたふたしているだけで
まったく 頼りになりませんでした。
重苦しい空気の中、
午後になり すべての競技が終わって
教室に戻ると 僕の 机の上に
薄汚れた ボロ雑巾が置かれていました。
顔を上げて 周囲を見渡すと 不良達が
「 そのボロ雑巾で 汚い顔を拭けよ、 」
と 大笑いしていました。
僕は なんとか 平静を装い、
「 ここで 暴力を振るってしまったら、あいつらと同じだ… 」 と
自分に 必死に 言い聞かせていました。
その後 不登校になってしまう事を考えたら、
停学になっても 構わないから 思いっきり
気のすむまで 殴っておけば良かったと思います…。
それからは 不良達や、僕の顔を
「 気持ち悪い、醜い、」 と コソコソ陰口ばかり 叩く、
女子達と 完全に、対立する様になりました。
入部した バスケ部では 他の部員たちから
「 松下くんが 一番 しっかりしているから
キャプテンに 向いてるよ。 」 と 応援されましたが、
体育祭の事件の後から 上級生にも
「 あいつは正義感ぶって 優等生を気取っている、 」
などと 陰で 言われ始めました。
あまりにも幼稚で、他人の陰口ばかり 叩いている、
他の生徒達に 次第に 失望していった…。
ある日の放課後、忘れ物を取りに 教室に戻ると、
いつも 僕の容姿を見て
吐きそうな 真似をしたり、悪口を言っている女子が、
数人の女子達と 教室の隅っこに集まって
「 あいつの顔を見てると 吐き気が止まらないから
さっさと 消えてほしい、死んでほしい、 」 と
近所の噂話に 夢中な、
おばさんたちの 井戸端会議の様に
僕の悪口を コソコソ言っていました。
ドアを叩きつける様に 思いっきり 開けると、
ビクッと 一瞬、怯える様な 表情をしていました。
夕陽が沈んでいき、薄暗い教室の中で
わずかな 陽の光に 浮かび上がった、
女子達の怯えた顔は、
「 本当に醜いバケモノ 」 の様な 顔に見えました。
僕は その女子達に 近づくと
目の前で 机とイスを蹴り飛ばし、
威嚇するように 睨みつけて、
そのまま無言で 教室を 後にしました…。
その女子達も 犯罪者の様な
三白眼の鋭い目だったので
「 お前らの顔は 僕よりも、ずっと醜い顔だぞ、 」
と 言ってやりたかったですが
もう 何もかも 馬鹿らしくなっていました。
何よりも、こんな くだらない事で
人生を 振り回されている、
自分自身が 心の底から 情けなかったのです。
ますます 顔を隠して、周囲と 距離を置くようになり
入学してから わずか2ヶ月足らずで、
6月の半ばに 不登校になってしまいました。
その間も 止まることなく まぶたは下がり続け、
細すぎる、一重の線の様な 目の形になっていました。
顔を伏せ、視界は遮られて 日常生活の
動作が 挙動不審になり、友達付き合いも
ギクシャクしていき 頭が混乱していった…。
犯罪者の様な 三白眼の鋭い目を
鏡で 見る度に 吐きそうになり、
顔を手術するしか 元に戻す方法はないと、
僕は 子供心に 悟っていきました。
7月に タイミングを見計らって、今まで
目の形で悩んでいた事を 両親に、正直に打ち明けました。
父さんよりも 母さんの方が悲しんでいた…。
自分が お腹を痛めて 産んだ子が 醜い顔になり、
「 苦しんでいるのは 私の遺伝子のせいだろうか。
私のせいで 息子が苦しんでいる…。 」
そんな 自分を責める 表情でした。
母さんが とても 悲しむ事は
分かっていたので、今まで 言い出せなかった。
母さんを悲しませる事は 他の何よりも 心が痛んだ…。
母さんは 大きな猫目で
父さんも たれ目で 男前なので 遺伝ではない。
やっとの思いで 母さんを説得し、
札幌の中心部にある 美容外科に行くと
強面の医師は むすっとした顔で
僕に 整形手術のリスクを 忠告してくれました。
「 顔に メスを入れるには 君は まだ若すぎる。
心が不安定な年齢で 顔を変えるのは、リスクが高すぎる。
あとで 元通りに戻すのは 不可能なんだよ、
家に帰って、ゆっくり 考えなさい。 」 と
厳しくも、怯えている子供を
気遣う口調で 僕に 言い聞かせました。
医師の背後にいた 若い看護師さんが
「 まだ 中学生の子供なのに…。 」 と、僕を
憐れむ様な眼で 見つめていたのを はっきりと覚えています。
瞬く間に 月日は流れ、一日も早く
顔を治し、学校に戻りたいと
淋しくて 泣いてばかりでした。
よく 女性が使う アイプチも試してみました。
接着剤で 二重のラインを完成させて
しばらく 継続して続けると そのまま、
二重が癖になっていく人も いるそうですが
僕は 二ヵ月 試しても ダメだった。
ふと サングラスをしたら、目を気にする事なく
普通に話せるのでは…と 閃いて 安物を買いましたが、
実際かけてみると 小さな街では
逆に 目立ってしまい、諦めました。
3月まで 毎日 いっしょに 遊んでいた友達と、
すぐ近所に みんな変わらずに生活しているはずなのに
不登校になると 顔を合わす事も、声を聞く事も
まったく なくなって しまいました。
あの頃は まだ、携帯電話もなくて
フェイスブックも ツイッターも、インスタも
誰かと繋がるための 連絡手段は 何もなかった…。
学校に 通えなくなってしまったら
同世代の子供達との交流は おしまいでした。
学校に通えなくても 誰かと ふれあえたら…と思い、
初めて 顔を出してみた フリースクールは
6月まで通っていた、東部中学校の すぐそばにありました。
東部中学校から 徒歩で 15分ほどの距離にある、
中央公民館の裏の、駐車場の片隅に
ぽつんと 建っている、小さな
プレハブ小屋みたいなのが フリースクールでした。
毎日、600人もの生徒達が 授業を受けている、
中学校の 大きな校舎とは違い、たったの 5人ほどの
中学生が 狭い部屋の中に 座り込んでいて、
正直に言うと あまりの落差に、がっかり していたものです。
その中に 一人だけ、当時の
流行っていた言葉でいう、ギャルっぽい
女の子がいて 一学年上だったので、
弟の様に 僕を 可愛がってくれました。
金髪に染めた人と 会話するのは、
生まれて初めて でしたが
人懐っこい性格に なんだか救われていました…。
サングラスを買ったけど
それっきりになっている事を 話すと
「 今度、サングラスをして フリースクールに来て。
わたる君の サングラス姿を見てみたい、 」
と からかわれたのも 懐かしく 覚えています。
結局、顔の事が 気になってしまい、
たったの数回だけしか 行けませんでしたが、
あの女の子は 今頃 どうしているのかな…、
と ふと 思い返す時が、今でも たまに あります。
小学生の頃から 毎週通っていた
市役所前の英会話教室も 中学校に
行かなくなってから 通う事が難しくなり、生徒達が
みんな帰宅した後、2年ほど お世話になった、
女性の先生に 別れの挨拶をしに 訪ねました。
マライア・キャリーの様に 口唇がふっくらしているのが
印象的な 20代後半の可愛らしい 先生でした。
小学校の高学年になるにつれて、いつしか
先生の事を 「 あこがれの大人の女性 」として
恋愛感情を持ち、意識する様になっていました。
僕が やんちゃだった頃は、いつも 授業中
大声で騒いで、先生を困らせてばかりだったのですが
思春期の始まりが近づき、口数が減り
内向的な性格になると 先生も 僕に対して
距離を置かずに プライベートな お話をしてくれたりと
次第に 心を開き始めてくれました。
辺りは すっかり暗くなり、生徒達がいなくなった教室で
ひとりで 後片付けをしている先生に、
「お久しぶりです。」と 声を掛けました。
不登校になった事が言い出せず 詳細は語らずに
「実は 学校の部活動が忙しくなり
通う事が難しくなったので 今日は
お別れの挨拶をしに来ました…。」と だけ告げました。
「 そっか…。わたる君がいなくなると
他の生徒達も みんな 寂しくなるね。
これから 学業以外の事も だんだんと
忙しくなると思うし…、元気で過ごしてね。 」 と
少しだけ 寂しそうな表情を浮かべていました。
僕は それ以上の言葉を
何も言えなくなり 歯切れの悪いまま、
「… それでは 失礼します、先生も お元気で。
さようなら…。」 と 勢いよく 教室のドアを閉めて
そそくさと その場を後にしました。
建物の外に出てから 英会話教室のあるビルを
振り返って見上げると まだ 教室の灯りが 点いていました。
「これで お別れなのか。あまりにもあっけないな…。」
まだ 僕は13歳になったばかり。
これから 素敵な女性との出会いなんて
いくらでもあるから 大丈夫…。
暗い夜道を歩きながら 見上げると
頭上に キラキラと 煌めく星々を眺めて
自分に言い聞かせていました…。
いつも 本を借りに出かけていた、中央公民館の
図書室は 僕が不登校になった頃 駅前に
新しく 大きな図書館ができてから 人が来なくなり
いつの間にか ひっそりと無くなってしまいました。
その後 図書室だった部屋は しばらく
空き部屋になっていましたが、北広島についての
様々な資料を保管しておく 資料室に変わっていました。
映画のポスターを いつも店員の
優しいお姉さんに もらっていたレンタルビデオ店は
市役所の手前の大通りに 大手レンタルショップの
ゲオが開店してから、次第に 客足が 遠のいてゆきました。
中央公民館の図書室と 同じ様に
気が付いた時には ビデオ店の看板が無くなっていた…。
あの優しかった店員のお姉さんは その後 どうしているだろうか…。
もう 映画のポスターも もらえなくなったので、
いつしか部屋の壁から 一枚、一枚と
古くなったポスターは 剝がされていった。
東部中学校を 不登校になった頃、
この街の見慣れた景色も 季節が移り変わる様に
どこからか吹いてきた 新しい風に流されて
少しずつ 変わり始めていた。
当たり前の様に 目の前にあった大切なものが
タンポポの綿毛が ささやき声も立てずに
一本、一本、空に舞っていくみたいに、
静かに消えていく 人生の儚さを
この頃から 僕は 感じ取れる様になっていた…。
「 なにもない 」
作詞作曲 岩沢厚治 引用
「 失くしたものを 探し歩いている。
耳を塞いで 目を閉ざして… それでも何かを探して、
行き詰まりと 始まりを感じてる。
駅の裏側の 細い路地を抜けて、歩き慣れた
この道を…。何も起こらず、何も起きずに
時計の針は 2時を回る。
ああ、聞こえない… 何も分からない、届かない…
悲しくても 涙しかでない、
それでいい、それだけなんだよね…。」
13年間 この街で 暮らしていたのに
まるで 見知らぬ街に迷い込んだような 錯覚を覚え、
両親が 夕方になり、仕事が終わって
帰ってくるまで 物音ひとつしない 家の中で
一人、どうしようもなく 寂しかった。
まだ 不登校になって 半年も経っていません。
ですが それだけで、心は もう 打ちひしがれていました。
寂しさのあまり、部屋の窓から 雲一つない
青空を見上げると たくさんの友達や
見知らぬ人達が 空に浮かんでいる 幻覚まで
見えてしまう程でした。
この頃から、僕は 映画や音楽の世界を
旅するようになり、空想が 僕の居場所であり
映画や 本の登場人物になり、
あるいは 心許せる友人となり、
僕に 語りかけてくる様に なりました。
学校に通えない 日常で、何かを学ぼうと 必死でした…。
学校に行けない日々を 模索する中、中学2年生に なりました。
両親が 悩んだ挙句、
僕が、顔を変えるかどうかで 悩んでいるなら、
「 思い切って 転校してみたら どうか、 」 と 考えました。
本当に 顔を手術したら、それこそ 周りから
整形したことで 陰口を言われたり、
笑い者にされ 学校に戻れなくなってしまう。
子供は 普段、虫も殺さないような子も
他人の容姿に対しては 恐ろしく残酷です。
それなら 誰も 僕の顔を知らない、別の中学校に通えば、
誰にも 手術した事を 気づかれないと思ったのでした。
転校先に選んだ学校は、僕の住んでいる 地域とは
逆方向の 市内の端っこにある 緑陽中学校でした。
自宅から徒歩で 40分以上 かかり、
バスで 通学するしか ありませんでした。
何ひとつ 問題が起きない、学年3クラスの
平和な中学校で 生徒達は 礼儀正しく
穏やかな子が多いと 評判でした。
本当かどうか 分かりませんが、
噂話では、生徒が 消しゴムを なくしただけで
学年中が 大騒ぎになったそうです。
担任に その話が 本当かどうか尋ねると、
何も答えずに ただ、口を大きく開けて 笑っていました
フリースクールで 僕を可愛がってくれた、
金髪の女の子が この 緑陽中学校の出身でした。
「 毎日、平和すぎて つまらないから、
通学するの 止めちゃったんだよ。 」 と
不登校になった理由を、あっけらかんと 語ってくれました。
まだ歩道の所々に 雪が残っている
肌寒い4月。 新しい中学校は
たったの 三日くらいしか 通えませんでした。
授業に ついていくのも 大変でしたが、
僕はもう 醜く つぶれた一重の眼を
周りの子たちに 見られるのが 苦痛で耐えられなかった。
二年一組のクラス目標は なぜか「 雑草魂 」 でした。
クラスメイト達は みんな親切で 大人びた子が多く
前の 東部中学校とは違い、いじめや問題児も 少なく、
落ち着いて過ごせる 理想的な学校でした。
本音は 卒業式まで 残りの2年間、
みんなと一緒に この学び舎で 過ごしたかったです。
ニュースで よく見る、鋭い目つきの犯罪者の様な
三白眼の悪人面。 鏡に映る顔は、
もう 僕ではない、別の誰か…。
眼は 心の窓と よく言いますが、
僕は 目つきの様に 心の奥底まで 醜いのだろうか。
成長期とともに 心が繊細になり、心と目の形が
だんだん ずれて、一致しなくなっていきました。
自分の人柄に ぴったりと合う、
大きく 丸い形の優しい瞳が
鏡を見て はっきりと イメージできたのです。
もう 前髪を伸ばし、眼を隠して 生活するのは嫌だった。
「 被害妄想が強すぎる 」 と 父さんは
心配していましたが 醜い容姿になってしまった 人間にしか、
この苦しみは 理解されないのかも 知れません。
「 外見ではなく 内面を磨け、」 と 軽々しく 言う人達が
よく いますが、心の持ち方を 変えるだけで
容姿に対する、偏見や 美醜の悩みが
解決するのなら 誰一人 悩まないでしょう。
父さんは、大事な息子の顔に メスを入れるくらいなら
精神病院に入れた方が ましだと
札幌の精神科を 無理やり たらいまわしにしました。
医者達は、話も 何も聞かずに カルテを見るなり
2分もしないで 「 君は 醜形恐怖症だね。」 と
勝手に 決めつけてきました。
醜形恐怖症とは 誰も 何も言っていないのに、
過剰に 自分の容姿が 「 醜い、不細工だ、」 と
コンプレックスを 感じてしまう、精神病の一種です。
(目や 鼻の形、足が短い、身体が毛深い などです。)
人によっては 日常生活に 支障をきたすほど、
思い悩んで しまいます。
ですが、僕は決して 醜形恐怖症では ありませんでした。
実際に 「 目が細すぎる 」 と たくさんの人達に言われたし、
眼科や 形成外科の先生が 定規みたいなもので、
眼の大きさを きちんと 計ってくれました。
「 目が細すぎて、1、2回の手術じゃ
あまり まぶたが上がらず 形が大きくならない。」 と
はっきり言われ、市立札幌病院の 眼科の女医さんは
「 眼瞼下垂症 」 という 診断書を、丁寧に書いてくれました
この症状は まぶたが下がって、
眼が塞がったような状態に なる病気です。
まぶたを閉じたり、開けたり 動かす、眼瞼挙筋が
何らかの異常が起き、機能しなくなって しまうものです。
一般的には お年寄りの方達が
発病してしまう事が多い 症状なので
僕の様な 10代の子供が 眼瞼下垂症に
かかってしまうのは 本当に めずらしいとの事でした。
「とりあえず この新薬を試して、」 と
僕が 何かしゃべる前に、次の患者、と
流れ作業の様に 追い出されました。
毎日、味もない白い粒を 朝昼夜、正確に 飲み続け、
良くなるどころか 苛立ちが溜まっていくばかりです。
一ヶ月後、精神科に 診察を受けると
「 これ 別の新薬だから 試して。 」 と 大量に出して
「 じゃあ、一ヶ月後ね。はい 次の人、 」 と
まともに会話もできず、
エスカレーター式に 追い出されてしまう。
ただ 薬を飲まされるだけ…。
まるで 新薬の実験台でした。
寂しさが消える薬… 怒りを抑える薬…
次から次へと 味気ない 白い粒が増え続けていく。
一ヶ月、二ヵ月と 貴重な10代の青春が、
無意味に 奪われていく…。
自分の容姿に自信がなくて 悩んでいる人が 精神病なら、
世界中 どれだけの人達が 精神病なのだろうか…
北国の涼しい8月、駅前の夏祭りに出かけ
人混みの中 見物していると、
誰かに 僕の名前を呼ばれました。
振り返ると 中学一年の時、同じクラスにいた、
可愛い女の子が 嬉しそうな表情で 立っていました。
辺りは 真夜中で 暗いのに
とっさに うつむいて、顔を隠し、
「 ごめんね。」 と 小声で つぶやき
逃げる様に、その場を 立ち去りました。
帰り道、祭りの賑やかな音が 遠ざかっていく中、
止まらない涙を ずっと拭っていました。
少しだけ 大人になった、女の子の笑顔を思い返す度に、
「 学校に通えば 毎日 会えるのに… 」 と
やりきれなかった。
不登校に なった頃から、父さんと ふたりで、
農家の おじいちゃんの家を訪ねた帰りに
ドライブがてらに いつも立ち寄っていた場所が ありました。
その場所は おじいちゃんの家がある、
長沼町のとなりの、炭鉱の町 「 夕張市 」 でした。
北海道の中央部の 空知地方の山あいに、
人口 約8800人が暮らしている、
夕張市の街並みが 細長く 広がっています。
市内には 数多くの炭鉱が点在し、
その為に、炭鉱労働者たちが
生活していた社宅が そのまま残っていて、
炭鉱が閉鎖されてからは
市営住宅や 団地として 引き継がれていきました。
夕張メロンの産地として 全国的にも 知られていて、
1990年に 全ての炭鉱が 閉鎖されました。
その後、深刻な 財政難になり、
2007年に 財政再生団体に 指定されました。
明治初期から 炭鉱の町として、栄えていた
夕張は 多くの石炭を産出し、石炭の鉱脈が
見つかってからは 三菱など、いくつもの鉱業所が
次々に建設されていき、国内有数の産炭地として、
移住してきた入植者たちで 街は賑わい、
人口は 11万人を超える、大きな都市にまで 発展しました。
しかし、昭和30年代から
エネルギー革命により 石油へと シフトしていき、
時代の流れと共に 急激に、街は寂れていきました。
鉱業所は 閉鎖され、炭鉱の閉山が相次ぎ
石炭産業の衰退は 時代の変化に 抗う事はできずに
90年に 最後に残っていた、三菱炭鉱が閉山されました。
石炭以外に 街の産業基盤が なかったため、
働き手の若者達が 札幌など、大都市へと
流出していき 人口が激減し、少子高齢化が
あっという間に 進んでしまいました…。
炭鉱の町として 栄えていた頃の
面影も残っていないほど、すっかり
荒れ果ててしまった 夕張の市内を、父さんと
いっしょに散歩していると 僕には
この時間が 止まってしまった様な、寂れた街並みが
居心地の良い場所に 感じられていました。
かつては 目を見張るほど 栄え、
小学校は 何百人もの生徒達が、
狭い木造校舎に すし詰め状態になり、
繁華街の飲み屋は 仕事帰りの労働者たちで
活気に溢れていたのに…。
今は 人の姿さえ、あまり見る事はなく
杖を突いた お年寄りが、空っ風に あおられながら
寂しげに 散歩している光景を
ぽつぽつと見かけるだけに なっていました。
肌寒い秋風が 隙間だらけの、
立ち並んでいる、殺風景な団地や 空き家から
吹いてくる度に 身体だけでなく、
心の芯までも 寂しさに 冷え込んでくる様でした。
学校に通えなくなってからの僕の心境を、
夕張の街が 物語ってくれているみたいで、
この街を歩いてると 寂しさよりも、
僕の孤独を受け入れてくれる、唯一の居場所だと
親しみを持って、感じ取っていました。
帰り道に、車のカーオーディオに
カセットテープを差し込んで 河島英五の
「 時代おくれ 」を よく聴いていました。
僕が機嫌よく、耳を傾けていると 父さんが
「 お前は この歌みたいに 時代おくれの
男になるなよ。 」 と いつも 笑っていました。
僕は からかわれる度に、
「 まだ14歳だから、これから時間は
いくらでも あるよ。 」 と 答えていたのも、
今となっては 懐かしい思い出でした…。
「 時代おくれ 」
作詞作曲 河島英五 引用
「 一日 二杯の酒を飲み、さかなは特に
こだわらず マイクが来たなら 微笑んで
十八番を ひとつ、歌うだけ…。
不器用だけれど 白けずに、純粋だけれど
野暮じゃなく… 昔の友には 優しくて、
変わらぬ友と 信じ込み、あれこれ
仕事も あるくせに 自分の事は後にする。
目立たぬように、はしゃがぬように
似合わぬ事は 無理をせず…。
人の心を 見つめ続ける、時代おくれの男になりたい。 」
…それは 不思議な光景でした。
14歳の子供が 横暴な態度で 威圧し、
すぐに怒鳴り散らす 大人達を必死になだめ、
「 落ち着いて、冷静に話しましょう 」 と
相手を刺激しないように 語りかけ、理解を求めるのです。
これが学校なら 立場が逆なのに…。
父さんは 鬼のような形相で
「 薬を飲まないなら お前は 精神病院行きだ、
俺に逆らうのか、 」 と 怒鳴り散らしていました。
ある 初老の医者は
「 僕は ただ、少しだけ 顔を良くして
学校に戻りたいだけなんです 」 と 言うと
「 精神病じゃないなら さっさと帰れ、
時間を 無駄に取らせやがって、」 と 待合室まで、
響き渡るほどの 大声で わめき散らしました。
若い看護師さんは 申し訳ない… と
言いたそうな表情で 僕に 何度も、頭を下げていました。
他の医師達も 腕を組み、高圧的で
まともに 会話もしてもらえませんでした。
初めて見る、子供への思いやりがない、
大人たちに 僕はただ 震え上がっていました。
僕が出会った 精神科医の大半は このような人達でした。
学歴だけで 生きてきた様な 人間ばかりだった…。
帰りの車の中で 悔しくて ボロボロ泣いていると
父さんは 僕を睨みつけ、
「 お前は 黙って 医者の言う事を
聞いていればいいんだ、 」 と 唇を かみしめていました。
優しかった 父さんも、この頃から
別人のように おかしくなり始めました。
雑草が生い茂り、錆びた ブランコが
朽ち果てた 鉄クズの様に佇む、
誰からも 忘れ去られてしまった 公園の
ベンチに腰掛けて いつも 時間をつぶしていました。
いつまでも フォークソングの
名曲 「 悲しくて やりきれない 」 が
耳を塞いでも 鳴り止む事が ありませんでした。
「 胸にしみる 空の輝き…
今日も 遠く眺め 涙を流す。
悲しくて、悲しくて とても やりきれない。
この 限りない、むなしさの救いは ないだろうか…。
この燃えたぎる 苦しさは 明日も続くのか…。 」