12歳から 僕に浴びせられてきた、

ひどい言葉は 醜い顔の事だけでは ありませんでした。

 

「学歴がない、両親がいない、

普通の日常すら まともに送れない障害者、」

「人生が あまりにも 不幸すぎて関わりたくない、近寄るな、」

 

大多数の暴言の内容は このような言葉の繰り返しでした。

 

 

誹謗中傷を 大声で叫び続けるのは、子供達だけではありません。

むしろ、大人達や 70、80代の 

お年寄りの方が 圧倒的に多かったのです。

 

僕は 周りの人達に 避けられるようになってから、

次第に 自分の口から、学校に通っていない事や 

目に見えない痛みの障害がある事を 

打ち明ける事は 少なくなっていきました。

 

自分の境遇を わずかに話すだけで 誰もが 怯えた表情をして、

「こんなに 不幸な人生を送っている人には 

関わりたくない、」 と 逃げ去っていくからでした。

 

 

まだ たったの4、5%の体験しか 語っていないのに、

どうして 逃げ出すのだろう…

大人達は みんな 臆病なんだろうか… と 

10代の頃から、疑問に思ったものでした。

 

たとえ 自分の口からは 何ひとつ話さなくても

学校に通っていない、両親がいなくて 一人ぼっちで生活している、

どんな病気か 障害かは分からないけれども 

病院に通院している、という事は、何度か会っていると 

自然に 相手に感づかれて、ばれてしまいます。

 

「今は 大学生で 毎日、サークル活動で 

大忙しだよ。」 などと 噓八百を並べたところで

すぐに ボロが出て、余計に追い込まれてしまうだけです。

 

 

そのような事から 自分からは 何ひとつ 不幸な境遇を話さなくても、

周りの人達は 自然に離れていってしまうのでした。

 

… 12歳から 不登校になり、それからは 

   わずか 一年足らずしか 教育を受けていない、

… 顔を 札幌、東京で 11回も手術をして、メスで切り刻まれていた、

 

… 両親も 早くに亡くして、姉や親戚達には 

  精神的虐待を受けながら これまで 孤独に生きてきた、

 

… 20年以上もの長い月日を ほとんど 人との会話もなく

  ひっそりと 生き続けてきた、

 

… 日本中の医者が どれだけ 診察しても

  「こんな症例は 見た事がない、前例がない、」 と

  頭を抱えるほどの 難病との闘い…、

 

 

この中の、どれか ひとつだけでも 耳にしただけで

40、50代の大人たちが 

「この子供には 関わらない方がいい…。」 と

判断して 必死になって 僕を拒絶するのでした。

 

風邪をひいて 熱を出して、2、3日 寝込んでしまった、

転んで怪我をして すり傷を負ってしまった…

それくらいの 小さな負傷なら、周りの人達は 喜んで 

そばに付き添って、看病してくれるでしょう…。

 

でも 僕の様な あまりにも極端な、重すぎる障害や 

ひどい半生を送っていると、得体の知れないものを 

見るかの様な目で 逆に怖がられて 避けられてしまのです。

 

 

怖がって 逃げ出してしまう人達の他に、

こいつは 痛みの障害があるから 何も抵抗できない、

 

家族も いないから 誰も助けには来ない、

好きなだけ いじめていい、見下していい…、と 

社会的弱者を 目の前にした時 普段は隠している、

暴力的な本性を 剥き出しにする人が 一番多かったです。

 

それは 大人も子供も関係なく、苦労して 歩き回って 

ようやく 知り合った人達なども 同じでした。

 

福祉事業所の職員は 初めて 知り合った頃は 

穏やかで 気にかけてくれていたのに

月日と共に 傲慢な態度になっていきました。

 

 

10回目の手術を終えて 弱り切っている僕が

「きちんと 学歴を積んで、職業を 

 自分の意思で選択したい、」 と言うと

「お前は コンビニで いいんだよ、

 文句を言わずに コンビニで働けよ、」 と 

蔑むような 口調で 何度も罵られました。

 

どうして 自分で 仕事を選ぶこともできずに

コンビニで働け、と 強制されなければならないのか…。

 

その後も 他の人達がいる前だと 

声も小さくて おどおどした性格なのに、

僕と 二人きりになると、途端に 偉そうな態度になりました。

 

 

姉に 苦しめられてる僕を 馬鹿にしたり

学校にも行けず、働く事もできない事を 

あざ笑ったり、皮肉を言って 見下すのでした。

 

学校生活や 若い頃の自由な時間なんか 

どうでも いいから さっさと働け、と

平気で吐き捨てるのは 大人達や お年寄りたちばかりでした。

 

彼らは 自分達の子供は 12歳から、大学卒業まで 

10年間も、毎日 学校で 好き勝手に遊ばせて、

それでも 働かせずに 大学院や海外留学、何年も 

フリーターをさせて 生活の面倒を すべて見て、

遊び放題の人生を送らせていたのでした。

 

 

その中には 28歳を過ぎても フリーターをさせて、

彼女と 海外旅行に出かけたり、何台も 

車を乗り回したりと 優雅な 無職生活を

過ごしている人達も いました。

 

僕は このような人達に、

「いつまでも 怠けてないで 早く働け、」 と 

怒鳴られてきましたが、僕は 彼らに 逆に聞きたかった。

 

「あなたたちの子供は 一体、いくつになったら働くのか、」 と…。

 

10、20代の若者達は ひどい大人達とは違い、

短いふれあいの中で、学校生活の事で 

僕の想いを 否定する人は 一人もいませんでした。

 

 

「12歳から 奪われてしまった時間を 少しでも取り戻したい。

他の子供達と 同じように、青春時代を謳歌したい。」 

と 告げると 誰もが 

「それは 当たり前の権利だよ。中学校生活を 

3年間も 友達と遊ばずに、一人で耐えていたなんて 

それだけでも 不幸すぎるよ。これからは 

今まで 我慢してきた分、遊んでいいんだよ。」 と 

応援してくれるのでした…。

 

きっと、ひどい大人や お年寄りたちは

遠く離れた昔に 過ぎ去ってしまった、若い頃の時間の大切さや、

学校生活の事などを すっかり 忘れてしまっているのだろう。

 

自分達の10代の頃を もう一度、懐かしく 

思い返してみて欲しいと 心から訴えたいです…。

 

 

ひとつひとつの癒えない傷跡を 書き綴っていくだけでも、

きりがないくらい 膨大な数ですが

それらを いくら書いても、まったく 足りないほどでした。

 

一言で 言ってしまえば、この23年間の歳月の

全ての時間が トラウマになっていました。

 

12歳で 不登校になり、3回も 

顔を変える 手術を受けて、ようやく 

人前に出られるようになった、15歳までの 3年間。

 

12歳の頃といえば、普通の子供達は

毎日、遊びたくて 我慢できない年頃ではないでしょうか。

 

 

僕が小学生だった頃は 他の子供達はみんな、

雨が降っていて 休み時間に 

校庭で サッカーをして、遊べなかっただけで

チャイムが鳴り 教室に戻ってきた 先生に

「ふざけるな、勉強なんていいから 遊ばせろ、」 と

ギャーギャー 机を叩いて わめいていました。

 

「 10代の子供は たったの30分も 

遊ぶのを 我慢できない年頃なのです。 」

 

それなのに 僕は3年間も 学校に通えずに、

たったの一日も 友達と遊ぶ事も 

会話さえ することも出来なかった。

 

自宅と病院だけの 日常を送り、3年間も 

ずっと 顔を隠して 生活しなければならなかった。

 

 

卒業式が終える頃には、闘病記に 書いてある通り、

僕は あしたのジョーの様に 

真っ白に 燃え尽きてしまっていた…。

 

心も身体も 二度と立ち直れないほどに 

打ちのめされて、壊れてしまっていたのです。 

 

一回目の手術を受けた 14歳の頃から 始まった、

たったの 一秒たりとも 取れる事のない、

慢性の痛みとの 闘いの日々…。

 

20年以上もの 月日が流れても 

未だに 解放される事はなく、暗闇に閉ざされた、

監獄の中で ひたすら 自分の犯した罪に対して 

許しを乞い続ける 終身犯のように

痛みと孤独に 耐えるだけの日々を 過ごしています。

 

 

それは、時間と若さを 奪われてゆくだけの 

やりきれない日々でも ありました。

 

自分の意思で 何ひとつ 行動できる事はなく、

常に 目に見えない痛みに、日常生活の行動を 

ほとんど 制限される毎日です。

 

中学校に通えなかった事で 高校に進学できず、

フリースクールに入り 不良達に 振り回されたり

全寮制の高校に入れても 周りは不良達ばかりで 

ろくに睡眠もとれず 勉強も できない日々でした…。

 

痛みの障害が 更なる痛みを呼ぶ、不幸が 更なる不幸を呼び寄せる、

 

まったく 前例のない 顔の痛みの障害、

早くに 亡くなった両親、学校にも ほとんど通えなかった…

 

 

不幸になれば なるほど 

周りの人達は 僕を怖がって 離れていく…。

自分の意思では どうにもならない事ばかりでした。

 

そんな 救いのない 闘病人生は 23年間もの歳月をかけて、

僕の心に 癒えない傷跡を 深く残していったのでした。

 

これから どんなに 恵まれた環境を与えられて、

自分が望み続けた通りの 恵まれた人生を過ごせても、

心に負った トラウマの数々が癒えるまで、20年以上もの 

気が遠くなる様な 長い歳月が、必要になると思っています。

 

約23年間の孤独が 消えていくまで、

どんなに 友人や 交友関係が恵まれて、

僕を愛してくれる人たちが たくさんいても 最低でも 

20年以上もの歳月が、必要になるのでは ないでしょうか。

 

 

23年間もの 月日の間に 

たったの一秒も 解放されない痛みによって 

疲れ果てた身体は、これから 心優しい人達に 

そばに付き添って 看病してもらい 

ゆっくり 休息を 取ったとしても 幼い頃の様に 

元気な姿に 戻るまでは 最低でも、

20年以上もの歳月が 必要になるのではないでしょうか。

 

痛みのない 健康な身体に 慣れていくまでにも、

相当な時間が かかると思います。

 

自分の意思で、自由に歩んでいきたい人生を 

選択していいんだよ、と 言われても しばらくの間は 

右も左も 分からずに 考え込んでしまうと 思います…。

 

 

一ヶ月、二ヵ月くらいの 心と身体の傷ならば

長い時間が かからなくても 

次第に癒えてくるのかなと 思います。。

 

ですが あまりにも 23年間という歳月は、長すぎたのでした…。

 

その間に 心と身体に負ってしまった トラウマの数々、

失ってしまったもの、奪われていったもの、

過ぎ去って行ってしまった、

2度と帰って来ない 貴重な 若い頃の月日…。

 

人生が 75歳頃まで だとしたら、

23年間の月日は 約3分の1にも なります。

 

 

これから 奇跡的に 治療法が見つかって、

闘病生活から 解放されても 奪われた人生を取り戻し、

心と身体が 回復していくまでには

たくさんの、人の痛みが分かる 優しい心を持った人たちの

サポートや 心の支えが 何十年もの時間、

どうしても 必要になってくると思います。

 

今までの トラウマの数々を 書き綴っただけでも

長文になってしまい、

お時間を いただきまして ありがとうございました。

 

ご迷惑を おかけしてしまいますが、

どうか、僕を助けて下さい、

どうか、僕に、人の優しさや 愛情を教えてください、

誰かの 優しさに触れたいのです。

 

 

お母さんの様な愛情や ぬくもりが欲しいのです。

立ち直っていくまで 

そばで 支えてくれる方たちを 必要としています。

 

どうか、心から お願いいたします…。