親戚達の 心ない暴言や 

ひどい物言いが、日に日に目立ってくるようになりました。

 

病院のデイケアにも 一時期 通っていたのですが、

今までの様に 自分の事で 精一杯なのに

精神病の人達の 面倒を見る事になってしまい

疲れ果てていた 僕は、

心も体も、健康な人達と 触れ合いたいと 言うと、

「お前は 他の障害者を差別するのか、

お前の話し相手は 障害者だけでいい、」 と 罵られました。

 

障害者は 健常者とは 触れ合っては 

いけないのでしょうか? 障害者は 障害者だけとしか 

交流しては いけないのでしょうか?

 

 

差別しているのは あなたの方ではないのか…。

 

人との交流を求めて 札幌市内に出かけようとすると、

「電車代 100円、200円が 勿体ないから 

どこにも 出かけるな、」 と 文句を付けられたり、

近所の人が お菓子を分けてくれただけで

「他人には 一切 頼るな、

甘えるな、何も受け取るな。」 と言われました。

 

痛みで動けず ベッドで 寝たきりの生活になっている僕に

「自分では 何も出来ない卑怯者、」 と罵ったり、

他人に 容姿の事などで 

ひどい言葉を浴びせられ 傷つけられても、

「どうせ 悪いのはあんたでしょ、」 と 

夫婦 揃って ありとあらゆる事に干渉し、

嫌味や 偏見に満ちた暴言を 吐き続けるのでした。

 

 

そんな 親戚達を 

姉は 「馬鹿で 単純だから 扱いやすい。」 と

自分に都合のいい様に 言いくるめて

身動きがとれない僕を 精神的に追い詰めていったのでした…。

 

その様子を見ていた 訪問看護師さんは、

なんとか間に入って、僕を守ろうと してくれていたので

訪問している時間は 不用意に 

僕に 手が出せなくなっていました。

 

両親の残してくれた財産の事や、これからの事、

僕の 痛みの障害の事まで 口を出して 絡んできては、

あまりにも、理不尽なことを 言い続けて 

僕の人生を 更に 狂わせていきました。

 

 

母親の親戚たちは、父さんが 高額な お金を貸してしまって、

ほとんど、お金は 戻って来る事はなく 

それからは 絶縁状態になっています。

 

北海道を離れる事になり、姉、両方の親戚たちとは 

全て 絶縁し、見知らぬ土地で 

僕は 完全に 一人ぼっちになったのでした。

 

僕は 今まで 気付いていなかっただけで

本当は 生まれた時から ずっと一人ぼっちだった… 

と ようやく、理解していきました。

 

中学生の間に 精神科も 無理やり 

10か所以上、たらい回しにされていきました。

 

 

ただ 何も味のしない、白い粒を 飲まされ続けて、

「君は精神病だから 薬を飲み続けていれば、

おかしい頭も いつか治る。」 と 同じ言葉を まるで 

洗脳教育の様に 繰り返し言われるだけでした。

 

医師達は いかにも、高学歴の権威を振りかざすような、

とても 高圧的な態度の人ばかりでした。

患者は 黙って 医者の命令に従っていればいい、

そのような 思想を持っているのは 

その態度から 理解できました。

 

当時14歳の幼い子供が 何も 

意見を言う事もできず、抵抗する事も 許されずに、

ただ 薬を飲まされるだけの 無気力な日々に 

耐えるだけの日常を 強いられていたのです。

 

 

中学3年生に なる頃には 言葉も 

あまり喋れなくなり、ほとんど死人の様に 青白い顔で

表情も失っていしまい、奴隷の様に なっていたのでした。

 

岡山の高校から 帰ってきてからも 

訪問看護師さんに 自宅に来てもらうために、

仕方なく 精神科に通院していました。

 

5回目の手術を終えて、痛みが 何倍にも 

膨れ上がってしまった時は 隣町にある、精神科病院の 

精神病棟に 2週間 入院する事になってしまいました。

 

窓中には 逃げ出せない様に 鉄格子の様な柵があり、

トイレに行く時も 職員が すぐそばで 見張っており、

まるで 刑務所に 入っているような生活でした。

 

 

真夜中になると、決められた時間に 入院患者たちは 

行列を作り、一人一人 白い粒の薬を与えられて、

飲みほすまで 職員が チェックしているのです。

映画や ドラマで見た 精神病棟のままの光景でした。

 

周りの入院患者たちは 若者は一人もいなくて、

40代くらいの患者さんに

「君は まともな人に見えるから 一日も早く 

ここから 出なくちゃだめだよ。」 と 忠告されました。

 

2週間後 解放されてからは、ひと月に 一回ほど、

北広島駅の近くにある、メンタルクリニックに通院していました。

 

 

今までの事情を きちんと説明すると、

「気合で 大抵の物事は なんとかなる、」 と 

根性論を 熱く語る、おじいちゃん先生は

薬物療法を止めて、診察だけに してくれました。

 

この 「北広島メンタルクリニック」に 通院している間に、

他に行く当ても なかったので 29歳頃の時に

院内にある デイケアに 一年間 通っていました。

 

デイケアは 落ち着いた空間で 

テレビと くつろげるソファーも置いてあり、

10人ほどの 患者さんが通っていました。

 

どちらかと言うと 物静かで 大人しい人達が多く、

40、50代が ほとんどで、僕は 一番年下でした。

 

 

明るいムードメーカーの人と 仲良くなり、

よくふたりで 好きな アクション映画 

「 ワイルドスピード 」 シリーズについて 語り合っていました。

 

たまに近所のゲオに DVDを借りに行くと

顔を合わせて お互い 挨拶をして、

自宅近くまで 一緒に 散歩した事もありました。

 

統合失調症の患者が 多かったので

ある日 突然、感情的になったり、落ち込んで 

うつ状態に、なったりする事も ありましたが

普段は 健康的な日常を 過ごしている人達よりも

大人しくて 繊細な方たちが、多かった記憶があります。

 

 

毎日、深夜まで 何十回も 「死にたい、もう駄目だ、」 と 

メールが来たり 色々と相談に 乗ってあげると 

「もっと 私の面倒を見て、もっと話を聞いて、」 

と 迫って来られたり 疲れる事も 

数多く あったのですが、彼らは 決して、僕の事を 

一度も 見下したり 蔑んだりすることはなかった…。

 

僕の ひきつった表情を見ても、何事もない様に 

接してくれたので、居心地の良い関係を 築けていると 

感じられていたのも 確かでした。

 

ですが 引っ越す直前に、作業所で 仲良くなっていた、

患者さんとの関係が トラブルになり、

もう 面倒を見る事に 疲れ果ててしまった僕は

訪問看護師さんに相談して、これからは 精神病の

患者さんには 関わるのは 止めようと判断したのでした…。

 

 

通っていた デイケアは 僕が行かなくなってから 

他の患者さんたちも 次第に減っていき、

引っ越す前に しばらくぶりに 覗いてみると

部屋の中は お年寄りばかりで、お年寄りだけの専用の 

デイケアへと 方針を変えたと 聞きました。

 

部屋を覗いてから、心にぽっかりと 穴が開いた様な、

淋しい気持ちを 抱いたのも事実でした。

 

14歳の頃からの 精神科病院との長い付き合いでしたが、

トラウマに なっている記憶が多く、

デイケアで過ごした時間など、

わずかですが 居心地の良い時間もありました。

 

 

中学校を 不登校のまま、卒業してから

行く当ても なかったので、入ってみた 

フリースクールでも、僕の闘病記に 書いていた通り 

ひどい体験をしてしまいました。

 

生徒数100人ほどいた、大きな フリースクールでしたが

寮生活の中で 大阪から来た、不良達と同室になってしまい、

毎日の様に 因縁をつけられて 3度の手術で 

弱り切った 心と身体を 休めるどころではありませんでした。

 

普通の日常を 送っていたら、

絶対に関わる事のなかった 人種の連中で

僕が望んでいた、「耳をすませば」のような 

ピュアな世界観には 存在して欲しくない 野蛮な不良達でした。

 

 

思えば 中学校でも 容姿の事で 

不良達に絡まれるようになり フリースクールでも 

普通の学校を 停学になった、大阪の不良達と 

同室になってしまい、高校生活も 内申点がないので 

普通の高校には入れず 不良ばかりの 

全寮制の高校で 卒業まで過ごしていたのでした。

 

「耳をすませば」 の世界観の様な 繊細で 心優しい、

読書好きな クラスメイトなど どこにも見当たらなかった…。

 

いつも 手に負えない不良や 問題児たちに囲まれて

生きてきた、10代の日々でした。

 

 

そのフリースクールは 3ヶ月で 耐えきれずに 

辞めてしまったのですが、毎晩 眠らせても もらえずに、

延々と ヤンキーの哲学や 自分の母親を刺して 

鑑別所に、しばらく 入っていた 「 悪自慢話 」 を

聴かされたりと とにかく 悲惨なものでした。

 

あの 大阪の ふたりの不良達の事も 

今も 心の奥底に、深い傷跡として 刻まれています。

 

自分を ヤクザの息子だと 名乗っていた、 

目つきの悪い不良は 大阪に帰った後、

父親の跡目を継いで 今頃 裏社会の住人として 

過ごしているのでしょうか…。

 

岡山の高校生活は 最初の一年間は 寮生活の 

友人達にも恵まれて それなりに 楽しい思い出ができました。

 

 

学校生活よりも 放課後、男子寮に戻ってから 

同室の友人達と 過ごしていた時間の方が 居心地が良くて

鮮明に 楽しかった記憶が残っています。

 

夜遅くまで テレビゲームをして 騒いだり、

みんなで お風呂に入ったり、真夏の暑い日は 

一部屋に、たった1台しかない扇風機を 

奪い合ったりと この23年間の歳月の中で 

唯一の、若者らしい青春を 過ごせた時間でした。

 

2年生から ふるさとで 元の人生に戻りたい、

と 希望を持って 編入した、体育系の生徒ばかりの 

東海第四高校を 選択してしまってから

約4ヶ月間、毎朝 片道 約2時間の通学路と共に

もっとも 体力と気力を消耗する、

辛い日々を送っていました。

 

 

クラスメイト達も 僕よりも 体格が 

がっしりとした、体育系の生徒ばかりで 

会話の内容も すべて スポーツの話ばかり。

 

逆に 髪を染めたり、規則を破って 

問題を起こす 不良達は いなかったのですが、

豪快に 大笑いし、常に元気いっぱいで 

感情を抑える事もない 生徒達は ある意味、

清々しく 見えて、羨ましくも ありましたが

僕とは まったく相性の合わない、居心地の悪い空間でした。

 

教師たちも 体育系の学校に ありがちな

鬼の様に厳しい、すぐに手が出る 先生が多くて 

僕には ただ恐怖の存在でした。

 

 

安らぎを求めて 入部した 美術部の顧問も 厳しく、

ほんの数秒たりとも 気を抜ける時間はなく

疲れ果てたまま 満員電車に揺られて 

行って 帰ってくるだけの 日常でした。

 

食事も あまり 取れなくなり、げっそりと やつれてしまい 

元の日常に、戻ることのできない現実に 失望しながらも

また 岡山の高校に 帰る道を選びました。

 

久々に帰って来て ホッとしたのも 束の間で

仲の良かった友人達は みんな 別々のクラスになり

部屋割りも 不良達と 同室になってしまいました。

 

目の痛みの障害も 寝不足や ストレスが重なり

急激に 悪化していきました。

 

 

不良達は 僕を挑発するかの様に、

真夜中に 大音量で ヘビメタを流したり、

他の部屋から 不良仲間を集めてきては 

馬鹿騒ぎを 深夜まで 続けるのでした。

 

いくら 注意しても 止める気配はなく、

僕は仕方なく 静かな学習室に 布団を敷いて

硬いコンクリートの上で 朝まで 過ごしていました。

 

痛みで 授業を欠席して 保健室のベッドで 

うなされる時間が 日に日に増えていき、

毎日 2、3時間は 欠席するように なっていきました。

 

教師たちからも 次第に 問題児の様に 

思われ始め、冷たく 扱われていきました。

 

 

一年生の時は 優しかった先生も 僕を 無視したり、

大勢のクラスメイト達が見ている前で 大声で 罵ったりと 

暴力的な本性を 現すようになっていきました。

 

どこの学校も 生徒数が 定員オーバーのため、

地元の高校に 編入する事もできずに 

ただ 失意の日々を、卒業式まで 耐え続けるだけでした。

 

寮には テレビすら なかったので

映画を観る事もできず、空想の世界に浸る事さえ 

諦めなければ なりませんでした。

 

北国に帰郷してからは 治療と リハビリの生活が始まり、

更に痛みが 何倍も悪化してしまったりと 

想像以上に過酷な 長期にわたる、

目に見えない痛みとの闘いに なりました。

 

 

12歳の頃から 父さんとは 最期まで、

お互いに 許し合う事も 分かり合う事もできず、

病気と障害に 振り回され続けたまま、母さんと同じように 

別れの言葉も言えず、心不全で 旅立ってしまいました。

 

僕と同じように、父さんも 3度も再発した 

ガンによって 人生を狂わされていった挙句に、

あまりにも 救いのない最期を 迎えてしまったのでした…。

 

父さんが ソファーに 腰掛けたまま 

亡くなっていた事に 気が付いた時の 

青白い死に顔が、僕の眼に 焼き付いてしまって 

今も 思い起こす度に、苦しんでいます。

 

 

映画では 飽きるほどに、登場人物の亡くなった時の

死に顔は観てきましたが、現実に 命を失った人の、

死に顔を見てしまったのは 僕の父さんが 初めてでした…。

 

その年で 一番の 猛吹雪の日の 夕方で、

窓の外は 雪が吹き荒れていて、何も見えなくて 真っ暗でした。

 

かすかな光に 浮かび上がった、

父さんの 冷たい死に顔は 悲鳴を上げることすら 

できないほどの恐怖を、僕に与えていました。

 

やっとの想いで 救急車を呼んでからも

ただただ、腰が抜けてしまい 何もできずに震えているだけでした。

 

この23年間に、闘病記では 書き綴っていませんが、

出会ってきた、ほとんどの人達から 差別と偏見に満ちた、

悪意のある言葉を 浴びせられ続けてきました。

 

 

中学生の頃から 出会ってきた、わずかな女性達には

顔を見ただけで 吐きそうな表情で 避けられたり、

ただ 中学校から 不登校で 学歴があまりないと、

分かっただけで 会話さえ してもらえずに 

無視されたり、唾を吐く 仕草をされたりと、

女性恐怖症、女性不信などという 言葉では 生ぬるいものでした。

 

普段は 穏やかで 誰に対しても 

にこにこ 微笑んでいる女性たちが

僕の ひきつった表情を見たり、学校に通っていなかったと 

分かった途端、一瞬で 汚らわしいものを 見るかの様な、

冷たい目つきに 変わるのでした。

 

それは 小学生の頃、いつも 一緒になって、

遊んでいた、仲の良い女の子でも 例外では ありませんでした。

 

 

男同士なら 学歴の事や、

容姿が悪いとか ブサイクだからとかは

あまり 気にすることもなく 楽しく 付き合えるのですが

女性たちは 相手の容姿や 高学歴、低学歴に関しては

恐ろしいほど 冷酷になる人が 多かったと思います。

 

この 23年間の歳月の中で 

ほんの20人くらいしか 女性と知り合う機会が 

なかったので、わずかな人達しか 

僕が 知らないだけなのかも知れません…。

 

もうすぐ 35歳を迎えるのに、

僕は未だに たったの一度も、女の子と デートした事も

指一本 触れた事も ありませんでした。

 

会話した事も ごくわずかな時間だけでした…。

 

 

手術中は 看護師さんが 

いつも 手を握っていてくれていたのですが

あの時は 危険な手術中の患者に 対する対応なので

恋愛感情などとは 状況がまったく違いました。

 

恋愛経験が 今まで まったくなかったのも、

心の成長が幼いままなのに 関係しているのかもしれません。

 

小学校時代の 同級生達は 

もう、みんな結婚して 子供も生まれて、

子供達は 小学生、中学生くらいにまで 成長しています。

 

22歳で 結婚して、子供が産まれていれば、

もうすぐ 13歳の中学一年生に なるはずです。

 

 

僕が 12歳から奪われてしまった、

学校生活も 青春の日々も、もうすぐ、

幼い少年だった頃、毎日 一緒になって はしゃいでいた、

同級生の成長していく 子供達に追い抜かれてしまう…。

 

これが どうしようもない現実でした。

 

きっと 今、小学校時代の 同窓会に参加したら

久しぶりに再会した 同級生たちが、

お父さん、お母さんの様に 見えてしまうはずです。

 

同級生の子供達を見ると、僕と 同じ年頃の子供か

年上の お兄さん、お姉さんの様に 思ってしまうでしょう…。