記事を読んでいただいて ありがとうございます。
このページでは、23年間の歳月の間に
降りかかった災難や 心に深い傷を 与えてしまった
出来事について、具体的に書いていきたいと 思います。
どれだけの 心の支えと、
傷が癒えるまでの月日が 必要になってくるのか、
少しでも お伝えする事ができれば 幸いです。
目の痛みの障害なので パソコン画面を 見つめながら
作業していると、途中で 痛みの疲労で
何度も 手を止めて 休んでしまうのですが、
もう少しで 完成できるので、最後まで
気力を尽くして、執筆を 進めていきたいと思います。
もうすぐ 35歳を迎えてしまう、今 現在でも、
大きな トラウマとなり、僕を 苦しめ続けている
悲しい記憶や心の傷を ひとつひとつ 書いてゆきます。
まずは 僕の人生の何もかもを 大きく狂わせていった、
眼瞼下垂症と 線維筋痛症について です。
小学6年生の 夏休みから、まぶたが
次第に下がり始めて ほとんど 塞がった様な
一重の鋭い目の形に なってしまってから
前髪を伸ばして 両目を隠して、生活する様になりました。
小学校生活は 何事も起こらずに 無事に、
卒業式を迎える事ができたのですが
中学校に 入学してからは 周りの生徒達は
思春期に なり始めていたのもあり、他人の容姿に対して
とても 敏感になっており、ささやかな事でも 気に入らなければ
容赦なく 他者を攻撃するように なっていました。
中学校生活は もう 23年前の事なのに、
今までの歳月が 一人ぼっちで、
自宅と病院の 往復していた 日常以外には
ほとんど何も 思い出や 経験した出来事がなかったため、
空白の期間が 大半を占めているので
まるで つい最近まで 小学生だったかのように、
何もかも はっきりと 記憶していました。
わずか 数ヶ月前に 小学校の卒業式を
終えたばかりで、中学校に 入学してから
数ヶ月経ち、少しずつ 生活に慣れてきた様な感覚で
今も 自分の年齢が よく理解できずに
大人と 子供の間を 彷徨っています…。
たった 2ヶ月間だけ 通学していましたが、
「顔が醜い、気持ち悪くて 吐きそうな気分になる、」 などと
陰口を 女子達に、日常茶飯事に 言われて、
生まれて初めて 異性に対して、
言葉で 言い表せられない様な 恐怖感を覚えた事。
前髪を伸ばして 両目を隠し、うつむいたままなので
明らかに 挙動不審な 僕を見て 面白がって
「しつこいから どこかに行ってくれ、」と いくら注意しても
蛇の様に ねちっこく つきまとって、
からんでくる不良達の 吊り上がった、
いやらしい目つきと にやにやした おぞましい表情…。
僕のクラスの 1年A組の クラスメイト全員の
名前と顔も、はっきりと 覚えています。
僕の座っていた 座席の位置や クラスの 一人一人の席順まで
昨日のことの様に すべて 記憶していました。
あと少しで 35歳になる 今でも、
不登校になってしまった、短い中学校生活の
トラウマを、月日の流れを 感じる事もできずに
つい最近の 出来事として はっきりと脳裏に
焼き付いて 僕を苦しめ続けていたのでした。
それから 大切な 息子の顔に
メスを入れる事だけは 何としても 避けたいと
考えていた 父さんによって
札幌市内の精神科を 10か所以上
たらい回しに された事も 深い心の傷になっています。
義務教育という、子供のままでいられる 安全な世界から
突然、大人たちの 理不尽なルールに
従わなければならない世界に 引きずり込まれて
初めて 子供を 思いやる気持ちを持たない、
冷たい大人達と 出会いました。
何ひとつ 話も聞かずに
「お前は 精神病だから 薬を飲み続けていれば
頭が治る、」 と 勝手に 決めつけて
僕を無理やり 精神病に 仕立て上げて
大量の薬を飲ませ続けていった 人としての感情のない医者達…。
「お前は 頭がおかしい、精神病だ、精神病だ、」 と
薬漬けに していくだけで 彼らは
僕の学校生活の事や たった一度だけしかない、
貴重な青春の日々など これっぽっちも 考えてくれはしなかった。
自分達にとって、都合のいい患者でさえ いてくれれば
それだけで 良かったのです…。
まだ 思春期が始まったばかりの 14歳だった僕には
薄気味悪い、殺風景な 病院の待合室で
「また一ヶ月間 薬を 飲まされるだけの日々を送るのか…。」
と 震えながら どんなに 心細く、
恐ろしい体験だったのだろうか…。
小学校の頃までは 優しくて、穏やかな人柄だった 父さんも
まるで 別人の様になってしまいました。
鬼のような形相で 拳を振り上げて
「顔の手術が 失敗したら、お前を 精神病院に
ぶち込んでやるからな、」 と叫び続ける 父さんの姿は
どこかで 見た様な記憶がありました。
第二次世界大戦の ドキュメンタリー映像で
何度も 繰り返し流れていた、
ナチスドイツの アドルフ・ヒトラーの演説のシーンでした。
ヒトラーも 大衆に 威圧感を与えて、
恐怖政治で 国民を コントロールするために
わざと 大げさなほど 拳を振り上げて
身振り手振りで 狂った思想を わめき散らしていました。
僕には 父さんの顔が だんだん ヒトラーの様に見えてきたのです。
あの頃の 父さんの表情も 今も忘れる事ができません…。
僕の母さんは、本当に かわいそうで 気の毒な半生でした。
とても 家庭的で 穏やかな性格でしたが、
僕の不登校、乳がんの 辛い闘病生活、
姉の 日常的な暴力の嵐が重なって、心が壊れていき、
いつも 2階に引きこもって
ヒステリックに、泣き叫んでいました。
大好きだった 看護師の仕事も 続けられなくなり、
辞めてからは 通院以外では ほとんど
外に出かける事もできずに
僕の事と 姉の虐待に 振り回されて
心が安らぐ時間が 一瞬たりとも ありませんでした。
僕は 自分の事で 精一杯になっていたので、
そんな 母さんに対して してあげられる事は
ほとんど ありませんでした…。
毎日、必死になって 「クソババア、殺してやる、」 と
発狂しながら 母さんの背中を蹴り続ける、姉を
取り押さえたり 近所のスーパーに
買い物に出かけた時に 重い荷物は 僕が すべて運んだり…。
当時12、13歳だった 僕ができる事は それくらいでした…。
本当は もっと たくさんの事を してあげられたはずなのに…。
母さんと いっしょに過ごした 美しい思い出は
数え切れないほど あるはずなのに 亡くなってから
何ひとつ、思い出すことが できなくなってしまいました。
母さんの素顔を はっきりと思い出す事も 未だにできません…。
自分の中で 辛い記憶を 無意識のうちに封印しようと、
自己防衛本能が 働いているのでしょうか。
母さんの事で 唯一 思い出せるのは
毎日 姉に 暴力を振るわれて
「殺される、殺される、」 と 泣き叫んでいる 姿だけでした。
今も 毎晩のように 夢の中でも うなされています。
心の傷が癒えるまでは ずっと悪夢に うなされ続けるのでしょう…。
16歳の時、東京で 一人暮らしを
半年間 経験しましたが、右も左も 分からずに
ふらふら彷徨い続けるだけの 無力な日々に
疲れ果てて、帰郷する事を決めて
父さんが 迎えに来てくれた日の夜、
一泊した ビジネスホテルの部屋で
母さんが 2ヶ月前に亡くなっていた事を 告げられたのでした…。
窓の外は ネオン街の灯りしか見えず、
大雨が 激しい轟音を立てて 永遠に
鳴り止まないかの様に いつまでも 降り続けていました。
あの時、自分の心の中で 感情の一部が
壊れて 死んでいったのが はっきりと感じられました…。
心の奥底にある、大切な何かが
あの瞬間、2度と 修復ができないほど
ズタズタに 引き裂かれて、
何度も破壊されて 欠片は 飛び散ってしまい
それは 永久に、失われしまったのです。
自宅に着いてからも 僕は、和室に置いてある、
仏壇に飾っている 母さんの遺影を
32歳で 家を離れるまで 一度も 直視する事は できませんでした。
母さんの遺影を 正面から直視してしまったら
今度こそ 自分の傷だらけの心は
完全に破壊されてしまうと 思っていたからでした。
母さんの死から 目をそらして ひたすら逃げ続ける事、
それだけが 救いのない現実を 生き延びていく、
唯一残された 手段だったのです…。
この23年間の歳月の中で
一番 心の奥に 深い傷を負っているのは
別れの言葉も かけられなかった、
母さんの記憶だと 思っています…。
こうして 振り返ってみると あまりにも
多くのトラウマを 背負って生きてきたんだな、と
自分の事なのに、改めて驚いてしまいます。
ある意味、家族と親戚たちの事は
思い出したくない トラウマばかりが 記憶に残っています。
僕の闘病記の中では 今まで 姉が 父さんと母さん、
そして 僕に対して 振るってきた、暴力的な行いの数々の
ほんの一部しか、描いていませんでした。
生まれつき 野蛮な性格で 他人を傷つける事が
生きがいだった、姉の虐待の数々は、ひとつひとつ
書き綴っていくには あまりにも 読んでくれる方たちに
不快な気持ちに させてしまうと 感じたので、
ごく 一部のみしか 載せませんでした。
母さんが亡くなった後も 乳がんの 抗がん剤治療で
弱り切っていた、母さんへの 激しい暴力の
謝罪の言葉も たった一言もなく、それどころか、
「自分は 良いことを してやっただけだ、」
と 悪びれる事もなく 平然と 開き直っていました。
父さんが 何度も ガンを再発し、抵抗する気力も
失っていくと、今度は 父さんの事を
奴隷の様に こき使い始めました。
徒歩10分で すぐに着いてしまう 近所の高校まで、
毎朝 わざわざ ガンでやつれている、父さんに
車で送らせていました。
父さんは 何も 抵抗する気力もなく、
姉のわがままの 言いなりになってしまい、
タクシーの運転手の様に 日常的に こき使われていきました。
姉の 家族に対する、いつもの口癖は
「死ね、」 「殺すぞ、」 「金を出せ、」 でした。
普通に会話する事さえ 難しく、
まともに コミュニケーションも取れずに 苦労していました。
特に お金に対する執着心は 異常と言えるほどで
何をするにも 「金だ、金をよこせ、」 と
両親に要求してくるのでした。
さすがに 父さんも もう 手に負えないと、
あきらめていた様で、休日に外出する時も
姉が眠っている間に 準備をして、
まるで 目を覚ましたら 暴れ出す、怪物を
起こさないかの様に、忍び足で 物音をたてずに
3人だけで いつも 出掛けていたのでした。
父さん、母さん、僕の家族3人で いる時は
それなりに 幸福な時間を 過ごせていたと思います。
ふたりとも とても穏やかで 家庭的な性格だったし、
僕も そんな両親を 大切に想って、
自慢の息子で いられるように
いつも 心がけて すくすくと育ってきました。
父さんが よく語っていた 人生の教えは
「 たとえ どんなに追い詰められて ひどい境遇にいても、
周りの人達に、一方的に 愛情を求めたり、
自分の価値観を押し付けては 駄目だ。
そんなことを すると、周りの人達は
離れていってしまうだけだ。お前の方から
出会う人達に、愛情を与えてあげると
本当に 困り果てた時、必ず、何倍にもなって 帰って来る。 」
という言葉でした。
僕は ほとんど 無意識のまま、この23年間、
父さんの教えを 心に誓って 守り続けてきたのでした。
どんなに非難されても、裏切られ 見捨てられても、
この教えだけは 自分にできる 精一杯の努力で
大切にしてきたつもりです。
僕は 小学生の頃までは 体格が、
周りの子供達よりも 大きくて どちらかというと
言葉よりも 先に手が出てしまう、乱暴な気性の子供でした。
物事を 深く 考えたりもせずに、
気に入らない相手は 力ずくで ねじ伏せればいい、と
思い込んでいる様な 短気な子供でした。
父さんが いつも語ってくれた 教えを守って、
生きる様になったのは 皮肉な事に、顔が
眼瞼下垂症で 崩れてしまい、不登校になり、
苦難の人生を 歩み始めてからでした。
その頃から 人道に外れた行いは、
何一つ したことはなく、僕自身が 相手に
攻撃をされた時 以外は 他人を中傷することも
自分より下に、見下ろす事も 決してしなかった。
僕自身が 「 心と身体の痛み 」 を
経験した事によって、父さんの言葉の意味に気付いて
成長していったのかもしれません。
そのような 人格者の父さんですら、姉に対しては
もう 何を言っても これ以上 どれだけ 愛情を与えて
育てても無駄だ…と 心が折れていた様でした。
両親との会話に 姉の事は ほとんど出る事はなく、
せめて僕だけでも 真っ当に 生きていって欲しいと
期待しているらしく、子供の頃は
本当に 大切に育てられたものでした。
最期の 別れの言葉も言えず
両親と死別してからは、僕にできる、
せめてもの償いは ふたりの墓前で、姉に心から
自分のしてきた行いを悔いて 謝罪させることくらいでした。
北海道を離れるまで 毎年 お盆の時期になると、
二人で お墓参りに行って お墓の前で
「お願いだから、きちんと
父さんと 母さんに 一度だけでも謝ってくれ、」 と
いくら 説得しても 姉は 眠そうな表情で
「そんなものは知らない、やる必要はない、」 と
興味すら 持とうとしませんでした…。
父さんのお葬式が 終わってからは
姉と 二人きりの生活に 耐えられるはずもなく、
やっとの想いで 刃物を振り回して 追い出す事で
ようやく 解放されたのでした。
家を離れてからも 両親が残してくれた
財産や 自宅、土地の事などで
度々、姉や親戚達と 集まって、親族会議を開いて
たった一人で 闘わなければなりませんでした。
さすがの姉も 両親が亡くなった事や、僕の闘病生活に
気を使って 配慮してくれる事も あったのですが、
元々 分かり合う事など、できない人間だったので、
野蛮な口調、野蛮なものの態度に 耐える事はできず、
お互い 顔も合わさず、会話もせずに
生活していく事だけが 唯一の解決方法でした。
年に数回は 自宅に 顔を出していたのですが、
ほんの数分だけでも 同じ空間にいるだけで
耐えがたい拷問の様な 時間でした。
突然、お昼ごろに現れたかと思えば 些細なことで
悪態を 散々つき、命令口調で 指図ばかりして、
一方的に 攻撃的な物言いで
まくし立てた挙句、ようやく帰っていきました。
たった数分間だけでも 疲労感は すごいものでした。
今、こうして改めて 23年間の歳月を振り返ってみると
たったの一言だけでも、姉から 僕の体調を心配して、
気遣う言葉を 聞いた事はありませんでした。
東京、札幌で 10回もの難易度の
高い手術を受けて 帰宅してからも
僕を 気にかける素振りすら まったく見せる事はなかった…。
「 お金、お金…。 金だ、金が欲しい、」
呪文を唱える様に 同じ言葉を わめき散らしているだけでした。
父さんが 亡くなってから、10年以上もの月日の中で
強まっていく 痛みで 病院に通う事くらいしか
外出も 出来なかったので、
人とのふれあいも 誰かの優しい言葉を 聴く事もなく、
沈黙の世界で 耳にする事ができる、数少ない 言葉は
姉の 気の向くままに、怒鳴り散らす 罵声くらいでした。
次第に 脅しをかけてきたり、
僕の生活を壊そうとする 言動も 日に日に目立ってきました。
病院の医療費すら 渡さない、と言ってきたり
親戚達と 一緒になって、僕がやること
なす事の全てに、文句を つけてくる様になりました。
「お前が死ぬより 一円の方が大事だ、」 とまで 言われました。
近所の人に 身内の事で 困っている、と
相談すると 電話口で
「他人に余計な事を しゃべるな、何をしゃべった、
どこまで都合の悪いことを 吐いたんだ、」 と
まるで マフィアの脅迫の様に 20分以上も脅し続けてくるのです。
「電車に飛び込んで 自殺したら、身内も
みんな 賠償金を支払うことになって、迷惑するから
死ぬなら 凍死にしろよ、」 とまで 言われました。
「お酒を飲んでから 雪の中で 寝転んだら、
確実に 死ねるからな、」 と 自殺の方法まで
わざわざ ご丁寧に 教えてくれるのでした…。
ちょうど テレビをつけると
家族や恋人、嫌いな友人を 言葉巧みに誘導して
死に追いやる、自殺教唆の特集がやっていて、
背筋に 寒気を感じていたものでした。
電話口で 「これは 自殺教唆じゃないのか?」 と伝えると
「証拠として 声を録音してないと
何の意味もないんだよ、」 と 高笑いが聞こえてきました。
「お前の事を 好きになる人間なんて
この世界には 一人もいないんだよ、ペットの猫も
お前に エサを貰うために 仕方なく、なついてるだけだ、」 など
精神的に追い込まれている、相手に対して、
よく 次から次へと 汚い言葉が出てくるものだな、と
感心するくらい、日常的に 毒を吐き続けるのでした。
20年以上もの間、優しい言葉を かけてくれる人は
ほとんど 誰もいなく、姉の 耳を塞ぎたくなる様な、
ひどい言葉だけを 聴かされ続けてきたのです。
父さんが 「ガンに なってしまった…。」 と 告白した時は
いきなり 飛び掛かって 父さんの首を絞めて
「いくら 財産は残っている、早く 財産をよこせ、」
と 弱っている 父さんを脅迫していました。
父さんは 絶望しきった 表情をして、とめどなく 涙を流していました…。
親戚達の事も 大きな トラウマになっていました。
父さんが亡くなってから
僕の面倒を 代わりに見ると 言ってくれたのですが
元自衛隊の親戚たちは とても 短気で、
乱暴な性格だったので 次第に 姉と 一緒になって
僕を苦しめる存在になっていきました。
本人たちは 僕の為に 尽くしてやっていると
自分達の行為を 正当化していて まったく 話も
何も通じず、僕も 多少は 乱暴な言い方でも、
僕の事を思って やってくれているのだから
我慢しなければ… と ひどい扱いを受けても 大目に見てきました。
ですが 月日と共に その行いは 耐えがたくなっていき、
僕も 次第に 手に負えなくなっていきました…。
2章に 続きます。