ひと月に 一回だけ、多賀城駅の すぐそばにある、

塩釜教会の 宣教師さんの自宅で

「 聖書を読む会 」 の 集まりが ありました。

 

僕以外に 7、8人ほど 近所に 暮らしている、

お母さん世代の女性達が 訪れていました。

 

 

いつも 元気いっぱいの、お母さん達に

圧倒されながらも、みんな 僕の事を

可愛がってくれて この時間だけは 

楽しいひと時を 過ごせたのでした。

 

宣教師さんの奥さんが ご馳走してくれた 

手作りのカレーは 今まで 口にした事が

ないくらいの美味しさで、しばらくの間

「もう一度 食べたいな…」と 言い続けていました。

 

宮城県で 過ごした 半年間で、唯一の 思い出でした…。

 

 

ですが これまで 経験してきた様に、

ひと月に 一回だけの 集まりなので

他の時間は ただ一人ぼっちで、見知らぬ土地を 

彷徨い 歩く事しか できませんでした。

 

銀行や市役所の 様々な手続きで

ほとんど読めない、難しい漢字ばかりの

書類に 目を通して、名前や年齢を 記入しながら

「 僕は 今、何歳なんだろう…。 どうして 

32歳と 書かなければならないんだろう? 」

と 首を傾げて いました。

 

「 僕は 12歳なのに…。 まだ、12歳なのに…。 」

 

 

半年が経ち、僕は まだ、

雪の降らない 宮城で 日常を送っていました。

 

どうしてか、僕は まだ、呼吸をして 生きていた。

数え切れないほどの 映画や 本の物語が 

僕の心の中で 息づいて、生命を 与えてくれていた。

 

季節は 紅葉の色が 美しい秋になり、

僕は 七ヶ浜町の海岸で 

打ち寄せる波を 日が暮れるまで、

眺めて 浜辺の歌を よく聴いていました。

 

 

いつでも この世界から 消える事ができると

波の穏やかな 海を眺めながら 想っていました…。

 

             「 浜辺の歌 」

                               

「 明日 浜辺を さまよえば 昔のことぞ 

  忍ばるる…。 風の音よ 雲のさまよ 

  寄する波も 貝の色も…。 」

                       

昭和の名作 「 二十四の瞳 」 で 唄われていた曲です。

 

夕陽に 照らされた水面に 散らばった、

光の粒が さざ波に 揺られながら

いつまでも 眩しく 輝き続けていました。

 

 

この光の粒の数と 同じくらい、

未来には 可能性が たくさん あったはずなのに…。

 

東日本大震災で 津波に流され、

亡くなられた方々に 別れも 言えなかった、 

両親の姿を 重ねて さざ波の音色に 

いつまでも、耳を傾けていました。

 

父さんも 母さんも、会いたくても もう 会えない。

どこか遠くへ 行ってしまった…。

 

穏やかな波は、寄せては 返して 

一定のリズムを 繰り返すだけでした。

 

 

まるで 悲劇など 何事も なかったかの様に…。

 

僕のせいで いなくなってしまった、

近所の お姉さんも 今頃 どこに いるのだろうか…。

元気に しているのだろうか…。

 

風の噂では、旦那さんの仕事の都合もあり、

関東の どこかに 引っ越していったそうです。

 

北海道を離れる前に、旦那さんと 

いっしょに 僕の父さんとも 話し合い 

僕の心に 大きな傷跡を 残さない為に

真実を 隠し通す事を 3人で 決めていたそうです…。

 

 

父さんは 最期まで その約束を、守り続けていたのでした。

僕を これ以上 傷つけないように…。

 

自分の置かれている状況を 

何も 抵抗する事もなく、この穏やかな 

さざ波のように そっと身を委ねて、

親の死に目にも 会えなかった人間なのだから、

当然の ふさわしい末路だと 思っていました…。

 

この世界には、生まれてきては 

いけない人間は、確かに 存在するんだ… と

やるせない気持ちと共に

自分の運命を 静かに 受け入れていました。

 

 

「 別の人間になりたい…。

  私を知る人が 誰もいない場所で。

  過去のない人の様に…。 」

                 ドラマ 「 マイ・ディア・ミスター 」より。

 

この頃に よく、東日本大震災の 

復興支援ソング 「 花は咲く 」 を、震災から 

少しずつ 立ち直っていく、街並みや 

人々に 自分の心境を重ねて 耳にしていました。

 

歌詞にある 「 真っ白な雪道 」 と

「 懐かしい、あの街を思い出す。 」という 

言葉に、自分の捨て去った 

故郷を 思い起こしていました。

 

 

         「 花は 咲く 」

                        作曲 菅野よう子  引用

 

「 真っ白な雪道に 春風 香る…。

私は 懐かしい、あの街を 思い出す。

 

叶えたい夢も あった。

変わりたい 自分もいた。今は ただ、

懐かしい、あの人を 思い出す…。

 

誰かの 歌が聴こえる、誰かを 励ましてる、

誰かの 笑顔が見える、悲しみの向こう側に

 

花は 花は 花は 咲く。

いつか 生まれる君に…。

 

 

花は 花は 花は 咲く。

私は 何を 残しただろう…。

 

花は 花は 花は 咲く。

いつか 恋する君のために…。 」

 

このまま 一人ぼっちで 誰にも 

看取られずに アパートの部屋で 

孤独に死んでいくよりも たった一人でも 

そばにいてくれる人を 探した方がいい。

 

 

仙台市内の メンタルクリニックで 

ようやく 僕の 今までの事情に

耳を傾けてくれる、親切な医師と 出会って、

何度か お話すると、障害者手帳と 

障害年金の診断書を 書いてくれました。

 

高校の担任だった 楠田先生は 

自身も 脳梗塞で 重い障害を持ち、

辛い闘病生活を 送りながらも 

今も 僕を見捨てずに、心配して 連絡をくれます。

 

父さんと 同じ年齢で、まるで 

もう 一人の父親の様に 慕っています。

 

 

映画化も された、愛読書の 

「 恋は 雨上がりのように 」 は

陸上部のエースだった、17歳の女子高生が、

怪我を負って 走れなくなり、挫折していた時

自分を励ましてくれた、40代の 

ファミレス店の店長に 片思いする 物語でした。

 

告白された 店長の男性は、

若さあふれる 少女を見守っているうちに

学生時代に 小説家に なりたい夢を

追いかけていた頃を 思い出していきます。

 

 

自分の 若かりし頃の想いを 託すかの様に、

17歳の少女に また 走って欲しい…との 

思いから、かけた言葉は 

まるで 僕が 言われている気がしました。

 

「 君にも あるんじゃないのか。 

待たせたままの 季節の続きが…。 」

 

その言葉を 聞いた少女は、涙と共に 

溢れてくる想いを、たった 一言の台詞で 表します。

 

「 … 走りたい…。 」

 

 

.… ショーシャンク刑務所から 脱獄を決意した、

アンディは 友人のレッドに こう告げます。

 

「 メキシコ人は、太平洋を 

なんて 呼んでるか 知ってるかい?

太平洋の別名は 「 記憶のない海 」。

 

そこに 住みたい、 記憶のない場所に…。

海岸に ホテルを建て、古いボートを

買って 客を乗せて 釣りに出る。

 

妻を 撃ってなんか いないが、

十分すぎるほど 償いをした。

ホテルや ボートなど、ささやかな夢だ。 」

 

 

小さな ロックハンマーで、20年間 

掘り続けた 独房の壁から 雷鳴と大雨の中、

下水管を 400メートル 川まで 這って歩き、

アンディは ついに 自由を手にしました。

 

そして、所長のため込んだ、不正蓄財

4200万を持って 太平洋の どこまでも 青い海へ…。

 

「 レッド、希望は 素晴らしい。何にも 替え難い。 」

 

彼は 自由に 飛ぶべき鳥だったんだ…。

 

ある女性のNOTE を 読ませて頂いて、

惹きつけられた 優しい言葉がありました。

 

 

「 音も光も なくなったって、あなただけは 

あなたがいる事を、あなたとして 

生きている事を 解り続ける事ができる。

 

音楽も 映画も なくたって、あなたは美しかった。

あなたの世界は 美しかった。

 

それを 本当に 破壊されきってしまう事だけは、

どうしても 駄目だというのが 

赤の他人の 私からも 大声で

叫ばずには いられない願いです。 」

                         引用

 

 

真夜中の コンビニ帰りに、

街灯に 照らされた 暗がりの道で

スマホの画面越しに 伝わってくる、優しさが

僕の心の痛みに そっと 触れていました。

 

僕は 覚悟を決めて、日本中から 

名医の集まる 東京で、治療に

専念するためと 良い出会いを 求めて

おととしの12月に 横浜市に 引っ越してきました。

 

小さな出会いから、徐々に 

広がっていくと いいのですが…。

 

 

「 素晴らしきかな、人生 」 の 

ジェームズ・スチュアートみたいに、最期の時が

訪れるまで、誠実さと 良心を持ち続けていけたら…。

 

「 この長旅の結末は まだ分からない。

 無事、国境を 越せるといいが…

 親友と 再会できるといいが…

 

 太平洋が 青く 美しいといいが…。  

  俺の希望だ。 」

 

             レッド  ( ショーシャンクの空に より )

 

 

なぜか いつも 恋しくなるのは、

静寂の中、音もなく 降りしきる 真綿の様な

雪と きれいなものも 汚いものも、

何もかも 真っ白に 塗り替えられた 情景でした。

 

心の中で 今も 遠い故郷を 思い続けているのでしょうか…。

 

           「 切なき思ひぞ 知る 」

                              引用

 

「 我は 張り詰めたる 氷を愛す

斯る 切なき思ひを 愛す

 

我は その虹のごとく 輝けるを見たり

斯る 花にあらざる 花を愛す

我は 氷の奥に あるものに同感す

 

 

その剣のごときものの 中にある 熱情を感ず

我は つねに 矮小なる 人生に住めり

その 人生の荒涼の中に 呻吟せり

 

さればこそ 張り詰めたる 氷を愛す

斯る 切なき思ひを 愛す。 」

 

僕も この詩の様に、凍り付く 冬の季節でも、

その中から 美しいものを 見出し、

耐え忍んでいく 日々が続いても、

常に 誠実な 心を持ち続けたい。

 

氷の奥にある、切なき思いを 大切に できる人でありたい。

 

 

2月になった ぽかぽか陽気の

小春日和に、なんとなく 思い立って 

新川崎駅まで 散歩をしに 出掛けていきました。

 

何かに 導かれるように 駅前の通りから 

滑らかな 坂道を 上っていくと

街中を見渡せる、小高い丘の上に 

一本の 桜の木が ありました。 

 

 

幹が太く、長い枝の先まで 

一輪の花に 10枚程度の花びらが、

見事に 咲き誇っていました。

 

まるで 僕に向かって 両手を広げて、

「 ずっと ここで 君を待っていたんだよ。 」 と

優しく 語りかけてくる様でした。

 

両親も、学校生活も 友達も、

故郷の街も 21年間の歳月も、

何もかも 消え去ってしまったけれど…。

 

すみれも もう いなくなって しまったけれど…。

 

 

春の季節は どこへも行かずに、

ずっと 僕が来るのを 待っていてくれていました。

 

その背景に見渡せる、のどかな市街地に 

花びらの 薄桃色と 澄み切った、

春空の 白く霞んだ ほのかな陽光が 

お互いを 譲り合うように 

次第に ゆっくりと 溶け込んで、

優しく 降り注いでいきました。

 

住宅地の中を、ラケットバッグを 肩にかけた 

部活帰りの中学生達が 楽しそうに

じゃれ合いながら 帰路を歩いていました。

 

 

優しい 灯りのともった 自宅に着くと、

お母さんの 温かい手料理が待っている。

 

僕も 君たちも、まだ お互いに

人生の第一歩を 踏み出したばかりなんだ…。

 

土の中では、草木が芽吹く 春の足音が 

「 まだか、まだか、」 と 

すぐ そこまで 近づいている。

 

「 春に 」 を 合唱する 子供達の

透き通るような 歌声が 爽やかな そよ風に乗せて 

どこからか 聴こえて くるようでした。

 

 

すみれは もう、どこか遠くへと 

消えていって しまったけれど

きっと、あの娘と 同じ様に 透き通るような 

大きな瞳をした、優しい 女の子が 

ここから 見渡せる 街並みの中にも

たくさん 暮らしているのだろう…。

 

すみれは 最後に 消えていった時、

かすかに 口元が動いていたけれど

どんな言葉を ささやいたのだろう…。

 

今なら、あの時 聞こえなかった言葉が

はっきりと 僕まで 届いていた。

 

 

「 また いつか、どこかで 私と出会ってね…。 」

 

きっと すみれは 最後に

僕に向かって、微笑んで くれたんだ…。

 

僕が 希望を捨てずに、

春の季節が 巡って来るまで

生き続けてくれる事を 信じてくれていたんだ。

 

「 この場所から もう 一度、本当の

幸せを 探していこう…。 小さな幸せを…。 」
 

僕は ベンチに腰掛けて、いつまでも 

新しい季節の始まりを 眺めていました…。

 

 

これが まとめてみた、僕の21年間です。

とても 個人的な 辛いお話ですが、

最後まで 読んで頂き、ありがとうございました。

 

僕と初めて 会った方々は

「 辛い人生を 過ごしてきたのに、穏やかな

人柄なので 驚きました。 」 と 言ってくれました。

 

もし そう 見えるのなら、僕が 今日まで 

どんなに 他人に傷つけられても、

非難されても 誠実な人間でいようと、

闘い続けてきたのは、無駄では なかった。

 

 

これから いい出会いがあると 信じていきたいです。

 

いつか訪れる、春の季節を 思い浮かべながら…。

 

 

       「 あとがきです…。 」

 

横浜市に 引っ越ししてから すぐに

10件ほど、都内の名医に 診察を受けたのですが

今までと 同じく、症例が 少ないので

なかなか治療法が 見つからないとの事でした。

 

 

まだ しばらく、闘病生活は 続くと 考え、

まずは 何よりも 一人ぼっちで 

暗闇の中を 歩くのは もうやめよう、と思いました。

 

僕の 今までの半生を 手紙や

本などに 包み隠さず 書き綴っていき、

たくさんの 心優しい人達に 知って頂いて

応援して 頂けたなら…との 

すがるような 想いでした。

 

12歳から どんなに 辛くても 寂しくても

癒える事のない疼痛で 苦しんでも、

心の支え どころか 会話してくれる人さえ 

ほとんど 誰もいませんでした。

 

 

宮城県の医者には

「 障害者なんかに 友達や話し相手は 

贅沢だから 必要ない、 」 と まで 言われました。

 

数多くの 心無い人達に

「 普通の日常を送るな、幸せな人生を 望むな、 」 

と 罵倒されて きました。

 

心ない人達は たった一日も、

痛みも 孤独も 苦労した 経験もなく、

贅沢しか知らずに 生きてきたので

人の痛みや 苦しみが まったく理解できないのです。

 

 

本当は 誰でも 平等な人生を 送ったり、

幸せを望む 権利は あるはずです。

 

僕も 今まで 苦しんできた分、

これからは 誰かに頼ったり、甘えられたり、

友達や そばにいてくれる人に 

支えられて 幸せな人生を送れたら…。

 

少しでも 12歳から 失った歳月を 

取り戻していけたら…。それが 一番の願いです。

 

失った歳月を 取り戻していくという事は、

自分自身の心を 取り戻していく事でも あります。

 

 

約23年間にも 及ぶ、一人ぼっちで 

暗闇の中で 過ごした時間…、約23年間の 

取れる事のない 痛みとの闘いの日々…。

 

たくさんの人に 傷つけられたり、

重い障害を持ってから 非日常の中で 

味わってきた、数えきれない トラウマ…。

 

治療法が見つかり すべての闘いを終えたら

たくさんの人たちの 優しさにふれながら

23年分、身体も ゆっくり休めたいです。

 

 

これから 何十年も かけて、

心と身体に 負った傷を 癒していきたいです。

 

痛みの治療法が 見つかるまで 

まだしばらく 時間が かかり、これからの

生活費や アパートの家賃、病院の医療費なども 

払っていき、経済的にも 苦しくなってきています。

 

これからも 長い期間の治療や リハビリ、

何回も 手術が必要になり、ほとんど 

前例がないため 保険が効かず 手術だけでも 

20、30万円も かかってしまいます。

 

 

障害が治ったら 大学に通いたい夢があるので

少しでも お金は節約して 残したいです。

 

あまり 知識もないので 様々な手続きや、

日常生活の事で 分からない事が多く

そばで 教えてくださる方がいると 助かります。 

 

ご迷惑を おかけする様で すみませんが、

雪の降らない 暖かい地域で 

たくさんの心優しい人と 出会っていき、

多くのサポートや 支援、誰かの助けを 

受けられたら 心から 嬉しく思います。

 

 

これからは 一人でも 多く、たくさんの人達に 

僕の障害の事を 知って頂き 

交流していきたいと 希望を持っています。

 

お手数を おかけいたしますが、

この 小さな物語を 読み終えた後、

ご家族や 仲の良い友人、知り合いの方などへ、

 

「子供の頃から 重い障害と 闘っている、

青年がいて 話し相手になってくれる人や

支援してくれる人を 求めているよ。」 と

メッセージなどで 広めていって 頂けると 

とても 助かり、感謝いたします。

 

 

「 メールアドレス    wataru_w0626@yahoo.co.jp 」

 

「 松下 航 」 の名前で フェイスブックも しています。

プロフィール画像は ひな人形 の写真です。

 

どちらでも 気軽に メッセージを頂けたら、嬉しいです。

 

最後まで 読んで頂き、本当に ありがとうございました。

どうか、よろしく お願いいたします…。