「 さようなら… 」

 

別れの挨拶を するために、

市立札幌病院の眼科に 行ってきました。

 

 

15歳の時、手術をしてくれた 

穏やかな女医さんと、それからも 何度か

訪ねて、色々と相談していたのです。

 

僕に とって、短い時間の ふれあいでしたが、

もう一人の お母さんの様な 存在だった…。

 

「 私が初めて 手術をしてから、

もう 17年も 経つんだね…。 」

女医さんに そう 言われて、

お互いに しばらく 言葉が出ませんでした。

 

 

女医さんの顔には しわが たくさん 

刻まれていて、髪には 白髪が混ざっており 

月日の流れを しみじみと 感じました。

 

もう 60歳近くに なるのだろうか…。

 

父さんと いっしょに 初めて、この病院に来て

緊張で 震えているだけだった僕を

優しい笑顔で 迎えてくれた、

あの日の事を 昨日の様に 覚えていました。

 

あの日は 待合室の窓の外に 目をやると

初雪が ぽつぽつと 降り始めていた。

 

 

冬の季節が訪れても、父さんと 母さんの 

ぬくもりを となりで 感じられていた。

 

でも 今は、父さんも 母さんも 二人とも 

僕の となりにいない…。 

僕も 確実に 老いていた…。

 

待合室で 母親と並んで、椅子に

腰掛けている、中学生くらいの 

少年を見かけ、遠い昔の 自分を重ねて 

ぼんやりと 見つめていました…。

 

 

「 長い年月が経ったね。 苦労してきたよね。

いつになったら わたる君に 

安らぎが 訪れるのだろうね…。 」

 

僕も 女医さんも、今までの歳月が 

胸に込み上げてきて 二人とも、

気が付いたら 自然に 涙がこぼれていました。

 

市立札幌病院とも、思えば 

長い付き合いでしたが お別れでした。
 

広々とした 吹き抜けのホール、

待ち時間に 読書をして くつろいでいた、

日当たりの良い 窓際の テーブルとイス。

 

 

短い間だったけど、僕の育った 居場所…。

さようなら…。

 

引っ越しの準備を している最中に

近所の プロテスタントの教会の牧師に

「 生活が追い詰められたので 

この街から 引っ越していく事になりました。 」 と

相談してみました。
 

ですが その牧師に、こちらの事情も 

一切聞かずに 親のいない障害者は 

悪者だ、と 決めつけられて

好き放題に 罵られました。

 

 

「 これまで 面倒を見てやったのに 

感謝する気持ちは ないのか、

 

お前は 身勝手で わがままな奴だ、

お前みたいな奴は さっさと 教会から出ていけ、 」 と 

唾を吐きながら 怒鳴り散らされ 

無理やり 追い出されました。
 

こちらの言い分など 何も聞かず、一方的に

抵抗できない障害者を 悪者だと決めつけて 

気のすむまで 罵り続けたのです。

 

 

感謝もなにも、日曜日の礼拝に 

たったの数回だけ 訪れて、わずか

5分、10分ほど お話しただけでした。

 

この牧師は 貧しい人々を救うと

言っておきながら これっぽちも 

貧しい人の気持ちが分かっていないんだ…。

 

今まで僕を あざけり 蔑んで、弄んできた、

恵まれた人間達と 同じ、

お金と贅沢しか知らない人間なんだ。

 

 

痛みも孤独も たったの一日も 

経験した事がないから 

人の痛みが 理解できないんだ…。
 

結局、この人も 社会的弱者の苦しみなど、

まったく 理解できない人でした。

 

あなたの仕事は 聖書の教えを 守って 

貧しい人々を 助ける事ではなかったのか。

 

教会は 親のいない子供や 

障害者を いじめて 追い出すような場所なのか…。

 

 

本当に 貧しい人間には 救いなど何もなかった…。

 

翌日から、激痛で 一ヶ月も 寝込んでしまいました。

 

僕の様な 「 社会の底辺 」の存在は

20年間も 痛みと孤独に 耐えるだけの

人生を送ってきても、一週間に 一度だけ、

たったの 30分ほど 誰かと会話しただけで

「 学歴もない、親のいない、役に立たない 

障害者のくせに わがままだ、贅沢だ、 」

と 非難されてしまうのでした。

 

「 学歴がない、親がいない、病気や障害がある…。 」

 

 

どれか ひとつでも、あるだけで ひどい差別を

受けている人は この世の中に たくさんいます。

 

僕は この不幸を 3つとも、背負って

生きてきたので その何十倍も 

ひどい差別と偏見を 受け続けてきた。

 

歴史を振り返ると 奴隷にされた 

貧しい人達だって、毎日 人とふれあい 

誰かと会話をするし 家族や友人もいる。

 

 

それなのに 僕は 20年以上 

孤独に耐えてきたのに 一週間に一度、

たったの 30分ほど、会話しただけで 

「わがままだ、何様だ、」と 怒鳴り散らされました。

 

ひどい時は 3ヶ月に一度、

たったの5分ほど 会話しただけで 

「厄介者の障害者、どこかに行けよ、」と 

馬鹿にされました。

 

奴隷たちよりも 遥かに ひどい扱いを

受けてきて、ただ 一人ぼっちで

耐え続けるしかなかった。

 

 

誰かに頼る事も 甘える事も 決して 許されなかった…。
 

誰も 知り合いが いないので、どうしたらいいのか 

迷って、電話相談の人に 連絡してみました。

 

「 僕は 20年間も 

痛みと孤独に 耐えるだけの日々を 

送ってきても、誰かと 交流したり 

会話する事も 許されないのでしょうか?

 

僕が おかしいのでしょうか…。 」

と 消え入りそうな声で 聞くと、紳士的な 

おじいさんの声で 優しく 語りかけてくれました。

 

 

「 君は 何も おかしくないよ。

当たり前の幸せを 望んでいる、

誰よりも 普通の人だよ。非難する、

周りの人間たちが おかしいんだよ、 」

と 穏やかな口調で 言ってくれました。

 

僕は 痛みで 起き上がれない身体で 

言葉も 出ずに、ただ 涙を浮かべて 

うん、うん、と うなずいていました…。

 

5月になり、ようやく 地元を旅立つ時が 来ました。

北国の遅い 春の訪れを 感じさせる、

爽やかな風が吹いていました。

 

 

あのまま、他の子供達と 同じように

ありふれた日常を 送っていたら、

高校、もしくは 大学を出て

20歳前後で この街を 離れていたはずだ…。

 

小学校時代の 同級生たちは 

北国の 長い冬を嫌って、雪の降らない

関東の方面に 移り住んでしまい、

もう 誰一人 残っていない。

 

僕だけが、この街に 置いてけぼりになって 

取り残されて いました。

 

 

幸福だった、最後の日々を過ごした 

北の台小学校は、校舎の老朽化で 

改修工事が 行われ、壁の至る所が 

頑丈に 補強されて まるで、手術をして 

つぎはぎの身体に なった様でした。

 

朝早くに となりのおばさんが 玄関前で 見送ってくれました。

 

「 淋しくなったら いつでも 帰ってくるのよ。 」 と

心配してくれましたが、振り返っても 

思い出深い 我が家には、

僕の帰りを 待っていてくれる人は 誰もいない。

 

 

駅に 見送りに来てくれる 友人もいない。

 

自宅は 僕がいなくなった後に 取り壊して、

土地も売られる事が 呆気なく 決まりました。

 

姉や親戚達から 守ってくれる人も、

誰も いなかった…。

何もかも 全て 奪われてしまう…。

 

もう 帰郷する事も できない。

僕が 人生に疲れた時、戻れる場所も どこにもない。

 

産まれた時から この小さな町で 暮らしてきたのに

街中の どこを歩いても、見知らぬ人ばかり…。

 

 

30年 暮らした 故郷を離れるには、

あまりにも 寂しい別れでした。

 

20年前の 輝いていた思い出なんて、

すっかり 色褪せて 記憶の片隅に 眠っているだけだ。

これからも 思い返す事はないだろう…。

 

北広島駅に着き、改札の前で 

立ち止まる事もなく 定刻通りに来た 

電車に乗り込んで、新千歳空港へと 

走り出しました。

 

「 時が癒せない傷がある…。 僕は 旅立たなければ…。 」

 

 

後ろを 振り返りもせず、

流れゆく景色を 見つめながら 

映画 「 ロード・オブ・ザリング 」 の 

ラストシーンを思い返して、

ただ やるせない喪失感に かられていました。

 

さようなら。ふるさとに さようなら…

僕に さようなら…。

 

 

      「 希望は まだある…。 」

 

「 時間が全てなんだ。何でも 買えるのに、

時間だけは 買えなかった。 」

                     クリント イーストウッド

 

 

5月に 宮城県に 移り住んだ僕は 

仙台市のとなりにある、太平洋沿いの史都、

多賀城市が 新しい住処に なりました。

 

海岸が近いからか、もうすぐ 夏の季節なのに

北国の様な 肌寒い風が吹いていました。

 

12歳から 経験も知識もないので、

銀行や 市役所など、手続きが 

分からない事だらけで 大変でした。

 

多賀城市の 最初の印象は 僕の地元より、

「 ずっと 寂しい場所 」 でした。

 

 

駅前には 図書館くらいしかなく 辺りは 夜になると 

灯りも 少なく、歩くのも ためらうほどでした。

 

塩釜市など 海沿いの港町を 歩くと、

まだ 津波の爪痕が、悲劇を語りかける様に

歳月の流れを 感じさせず 残っていました…。

 

「 雪の世界 」 から 解放された、

安堵感は ありましたが、まだ 

荷物の届いていない 空っぽの部屋で、

すぐに 不安が 込み上げてきて 

隅っこで うずくまり、これから 僕は 

どうなって しまうのだろう… と 

朝まで 震えていたのを 覚えています。

 

 

「災難は 誰かの頭上に 舞い降りる。

今回は 私だった。 

だが、不幸が これほど 恐ろしいとは…。」

 

映画 「 ショーシャンクの空に 」 を 

久々に 観賞してみました。

 

妻と その愛人を 殺害した容疑で、

無期懲役を言い渡された 平凡な銀行員、アンディ。

 

刑務所で、囚人たちに 日常的に 

激しい暴行を 受けてしまい、牢獄の中で、誰にも 

届く事のない冤罪を 声が枯れるまで 訴え続けます。

 

 

冤罪の証拠を 掴んでも、

銀行員の肩書があり 多額の裏金隠しに 

アンディが 必要な所長は、懲罰房に閉じ込め、

抵抗する 気力を奪っていきます。

 

全ての 自由を奪われた、刑務所では 

選択肢は 二つ…。 必死に 生きるか、必死に 死ぬか…。

 

初めて 出かけたのは、

日本三景にも 選ばれた 松島海岸でした。

 

遊覧船に乗って、潮の香りと 海風を浴びて

「 僕は こんな遠くまで 来てしまったんだ。 」 と 

ようやく、実感が湧きました。

 

 

精神科病院に行くと、相談した医師に

「 障害者なんかに 友達や 話し相手なんて、

贅沢だから 必要ない、20年間 耐えたなら

残りの人生も 一人ぼっちで 耐えろよ、 」

と 馬鹿に されました。

 

市役所に行って、職員に相談すると

「 君の 20年間の 痛みや苦しみなんか、

どうでもいいんだよ、さっさと働けよ、 」

と 嫌味を 散々、言われました。

 

 

アパートの近所の人には

「 痛みなんか、心持ち次第で どうにでも なるでしょ、 

今すぐ、治療を止めて さっさと働けよ、 」 

と あまりにも 滅茶苦茶な事を 言われました。

 

20年間もの歳月を 理不尽に奪われ、

見知らぬ土地に来ても 変わる事のない、

ひどい差別が 待っていただけだった。

 

相変わらずの激痛で ふらふらと 

歩道を歩いていると、通行人の人達に 

「 おい、邪魔だ、さっさと 歩けよ、 」 と 

よく 怒鳴られました。

 

 

息切れしながら、歩道の端に 倒れる様に

座り込むと その横を 見知らぬ人達が

僕に 見向きもせずに 足早に通り過ぎていく。

 

「 ここは どこだ、僕は 今、どこにいるんだ…。 」

誰も 何も 答えてくれない…。

 

たまたま テレビを点けると

NHKで 安楽死の特集が 放送していて、

僕が 安らかに 死にたいと思い、

ネットで 検索して 調べていた、スイスの 

ライフサークルという、人権団体が映っていました。

 

 

難病で 苦しんでいる 日本人の女性に、

安らぎを与えるために 注射を打ち、

そのまま 眠る様に 亡くなっていく映像が 

最後まで 目を背ける事なく、

テレビ画面に 映し出されていました。

 

僕は、痛みから解放されて 眠る様に

この世界から 消えたいと 心から願っていました。

 

「 最後くらい 痛みから 解放されたい、

ただ、安らぎが欲しい。 」 と…。

 

それだけが、僕の願いだった…。

 

 

「 昨日までの私は、自分の道を 

 見つけられる 自信があった。

 

 輝いていた光は どこ? 私のものだった、

 人生は どこ? でも まだ希望はある… 

 息を している限り。

 

 失った日々を 思い出している。

 大切な時間を 忘れてしまうなら、

 倍のお金を払っても、記憶を残したい。 

 思い出を…。 」

 

               「 映画 アナと 世界の終わり 」 より

 

 

買い物をしているだけで、痛みで 意識を失い 

倒れそうになり、手荷物を落とす事も よく ありました。

 

自分が今、大人なのか 子供なのかも 

よく 分からずに、月日の流れから 

一人だけ 取り残されて しまっていた。

 

いつの間にか、何処かに 置き忘れてきた 

「 春の季節 」 を 時々 思い返していました。

 

すみれ役の少女も もう 30歳を過ぎているだろう…。

結婚して 子供も いるかも知れない。

 

 

「 君の心へ 続く、長い一本道は 

いつも 僕を 勇気づけた…。 とても 険しく、

細い道だったけど 今、君を迎えにゆこう…。 」

 

ありがとう。 本当に 長い道のり だったけど、

僕は ここまで 歩いてきた…。

 

姉、親戚達とは 契約書を書き、絶縁し

僕は 21年間の 訳の分からない闘いの果てに

見知らぬ土地で、完全に 一人ぼっちになりました。

 

親戚達の 最期の言葉は、

「 お前は 頭が おかしいから、

宮城に行っても 精神科に行け、」 でした。

 

 

必死に 耐えてきた僕を、自分達に 逆らう人間は 

頭がおかしいと、精神病に 仕立て上げて

追い出す事に 成功したのです。

 

「 父さんと 母さんに 最後まで、

一言も 謝罪しないのか、 」 と 怒りで 震えると、

にやにやと 薄笑いを 浮かべていました。

 

僕が死んでも、葬儀も 行われない…。

お墓さえ、作ってもらえない。

 

いつでも この世界から、消える事ができると

海を眺めながら 想っていました。

 

 

電車に乗って、ふらふらと、のどかな街を 渡り歩き

仙台駅前の 広場のベンチに 腰掛けて、

平日の昼間から 退屈そうに 

だらだらしている若者達や、肩を寄せ合い 

お互いを見つめ合っている カップルを眺めて

寂しさを ごまかしていました。

 

痛みが取れて、普通の人間に ならない限り

僕は 決して、こっち側の世界には行けない。

光が 眩しい…。

 

僕は 平穏な人生を送りたい。

ただ、それだけが 望みだったはずなのに…。

 

 

次から次へと 襲い掛かる、

不幸や 災難と、闘うだけの 21年間で

次第に 僕自身を 見失っていった。

 

新しい土地に 引っ越しても、

今までの冷たい言葉、一人ぼっちで 

暗闇を彷徨い続ける日々が 続くだけだった。

 

この世界には、平等な事なんて 何ひとつ ないんだ。

 

この世界は、理不尽な物事が 満ちあふれていて

不平等だからこそ、ようやく

人間社会は 成り立っているんだ…。

 

 

 

 

 

終わりの見えない 長く 苦しい旅路の中で

いつも 安らぎを求めるのは、お母さんの愛情でした。

 

子供に 一番必要なのは、母親の愛情です。

 

乳がんと 姉の暴力で、苦しみながら 

別れの言葉も言えずに 亡くなった、僕の お母さん…。

 

僕に 少しだけ、愛情を与えてくれて 

ある日 突然、いなくなった 近所の お姉さん…。

 

映画の世界の中で 出会った、

どんな 困難が降りかかっても、子供に 

精一杯の 愛情を注いでくれる 母親たち…。

 

 

僕は ただ、お母さんの 愛情が欲しかった…。

 

         「 ローズ 」

                  作詞作曲 アマンダ・マクブルーム 引用

 

「 夜が 耐え難いほど 孤独で、

 道が 遥か遠くに感じる時、

 

 愛は 幸運な人や、強い人にだけ、

 与えられると 思った時

 

 どうか 覚えていて…。

 

 冬の厳しい寒さを 雪の下で 

 耐えている種が 太陽の愛を受けて、

 春には バラの花を 咲かせることを…。 」