「 逃れられない 冬の世界 」

 

ついに 30歳を迎えた 僕は 

札幌市内の 麻酔クリニックに通い、

鎮痛薬を 20種類、漢方薬も 10種類ほど 

様々な組み合わせで 相乗効果を 

試しましたが、まったく 効きませんでした。

 

 

親切な 医師で、今までの経過を 

お話すると、僕を なんとかして救いたいと 

頭を抱えながら 思いつく限りの、

薬の組み合わせを 考えてくれました。

 

ですが、たったの1%も 痛みは 和らぐ事が ありませんでした。

 

痛みが強すぎて 固定されてしまって

いるので、どんなに 温めても 冷やしても、

軽減される事はなく、手術後からの 

凄まじい疼痛が 最後に 手術をして 

5年以上 経っても、ついさっき、執刀を 

終えたかのように 変わることなく 続いていました。

 

 

ペインクリニックも 3ヵ所も 通院して、

何十本も 神経ブロック注射を 打っても 

更に、神経に 刺激を与えてしまい、

ただ 痛みが ひどくなり 

数日間、寝込んでしまう だけだった…。

 

頭も 割れるような 頭痛がして、

起き上がるのも しばらく 大変でした。

 

まるで 僕の まぶたの中にいる、怪物か 何か、

得体のしれないものが、外部からの治療に対して、

中で暴れて 必死に 抵抗している様だった。

 

 

毎日、何かに とりつかれたかの様に 

ひたすら 甘いものを 食べ続けて

食べては 吐いて、その繰り返しでした。

 

訪問看護師さんが、

「 あまり 歩き回っても 見つからないなら 

ネットで 誰かと 繋がったら? 」 と 

2階にある、ほこりを被った、パソコンで 

フェイスブックを 教えてくれました。

 

期待と不安を込めて 18年前に 

卒業した、小学校のクラスメイト達を 

検索してみると 同級生の 

ほとんどは 結婚して 子供が産まれ、

もう、5歳くらいに 成長していました。

 

 

みんなどこか 面影がありましたが、

確実に 18年の月日が 経過した事を 

それなりに 人生経験を積んできた、

大人の顔が 物語っていました。

 

同窓会の写真も たくさん 載っていましたが、

そこには 僕だけが、どこにも 写っていなかった。

 

僕は 頭が真っ白になり、画面を見つめたまま

しばらくの間 放心状態に なっていました。

 

僕は 12歳から ほとんど人生経験がなく、

幼い子供のままで 成長が 止まっているのに…。

 

 

もうすぐ 小学校時代の 同級生の、

生まれたばかりの 幼い子供達に 

学歴も 人生経験も 追い抜かれてしまう。

 

そんな 笑えない皮肉が 頭に思い浮かびました…。

 

小学校を卒業したのが つい最近の様で、

思春期も 反抗期も わずかな時間しか 

経験していません。

 

岡山の高校には 通っていましたが、

痛みで 休学したり、欠席日数が 多かったので

実際は 一年足らずしか、通学していません。

 

 

なので、小学校を卒業してから 

教育を 受けられたのは、

高校の たったの 一年足らずだけでした。

 

毎日、通学している 中学生や 

高校生を見かけると 僕より、

ずっと 年上の先輩だと 感じてしまいます。

 

例えば、中学3年生の生徒を見ると、

僕より 二つ上の学年の先輩に 見えてしまうのです。

 

専門学校の生徒や 大学生なんて、

僕よりも 5歳くらい、人生経験も 学歴も 

ずっと 年上の、はるか大人達に 見えてしまいます。

 

 

漢字の読み書きも ほとんど 独学で、

お酒も 煙草も 経験した事がありません。

 

公園で ブランコに乗って 遊んでいる、 

小学生の姿を見て、一緒に 混ざって 

遊びたいと思ったり、スーパーで 

小さな児童を連れて 買い物をしている、

20~30代の 女性を見かけると

「 この人が 僕の お母さんに 

なってくれたら いいな…。 」 と 考えてしまいます。

 

 

普通の 30代の大人達は、仕事の時間以外は

どのように 過ごしているのか、

どのような 趣味や遊びを 持っているのか、

何ひとつ 分からないまま、

公園に 出かけて、日が暮れるまで 

サッカーボールを 蹴ったり、みんなで 

鬼ごっこをしたい、と 今も 思っています…。

 

見た目も すごい 幼く見える様で 

どこに行っても 「 学生さんですか? 」 と 

35歳に なった、今も 聞かれてしまいます。

 

 

何歳になっても 子供の様な 服装をして、

漢字も まともに読み書きできない 僕の事を、

姉は 「 お前は 発達障害じゃないの?」 と 

笑っていました。

 

この解決法は これからの人生で 

ひとつずつ、今まで 経験できなかったことを 

経験して 学んでいく事…。

ただ、これだけだと思います。

 

30歳の誕生日が過ぎ、ふと、幼い頃に読んだ、

ある本の内容を 回想していました。

 

 

確か 「 世界の 未解決ミステリー 」 とかいう、

怪しい タイトルの本だったと 思います。

 

19世紀頃の ヨーロッパで、

5歳の頃に 誘拐されて 30年以上もの歳月を 

理由も分からずに 監禁されていた 幼児が、

ようやく 警察に 発見されました。

 

警官に 保護された時、外見は 

30代半ばの 大人なのに 陽の光も 入らない、

真っ暗な地下牢で 鎖で つながれて 

生きてきたせいで 精神年齢が 5歳で 

止まったままに なっていました。

 

 

言葉も 満足に しゃべれずに 

「 ママ…、ママ…、」 と 小さな 子供みたいに 

泣きじゃくっていたという お話でした。

 

挿絵が載っていて、真っ暗な 地下牢で 

鎖で つながれた幼児の ギョロッとした

眼だけが 暗闇の中で 光っている、

おどろおどろしい 不気味な絵でした。

 

子供心に 恐怖心で しばらく 記憶に残っていました。

 

どうして 今になって、この お話を 

はっきりと 思い出したのだろうか…。

今になって、この お話の怖さに 怯えているのか…。

 

 

月日の流れも 何も 分からず、

いつしか この日常が 当たり前になっていて、

抵抗する事も 次第に 忘れていきました。

 

毎日、ムチで打たれ、倒れても 背後から 

激しく打たれ続け、「 逃げようとしても 無駄だ。 」 と、

諦めて 服従した 奴隷の様でした。

 

それからは ひっそりとした、誰もいない

家の中で、夜中になると、暗闇の中から 

あの本の 挿絵に載っていた、

鎖で 繋がれた幼児の ギョロッとした眼が、

どこからか 僕を 見つめている様な

気がして、頭から 毛布を かぶって 

朝まで 震え続けていました…。

 

 

高校時代の恩師、楠田先生と 

たまに 電話の やり取りをしていました。

 

僕が卒業してから、脳梗塞で倒れ、

左半身が麻痺する 重い身体障害を 

持ってしまいましたが、

「 他の記憶は 忘れていっても、松下の 

お父さんの事は、はっきりと 覚えているよ。

本当に 息子想いの立派な人だった。 」 

と いつも 語ってくれました。

 

この頃から よく、不登校だった、東部中学校の

校門前にまで、散歩しに 通っていました。

 

 

つい最近、入学式を 迎えたはずなのに

本当は もう、18年間もの歳月が 経っていました…。

 

朝の通学中、歩道に張った 氷で滑って 

転びそうになり、後ろを 歩いていた、

上級生の女子達に クスクス 笑われて 

恥ずかしかった事…。

 

となりの席の、いつも 密かに想っていた、

笑顔の可愛い 初恋の女の子…。

 

たったの 2ヶ月だけ 仲間だった、バスケ部の仲間達…。

 

 

ゆずの 「 サヨナラバス 」 や 

ヒステリックブルーの 「 春 」 が

昼休みに 校内で 流れていた事…。

 

何もかも 全て、昨日のことの様に 覚えていました。

 

僕が 他の子供達と 同じように、

「 普通 」 と 呼ばれる日常を 過ごしていた頃…。

 

顔さえ 戻れば、僕は 元の人生に戻れる…。

 

みんな、あの頃のままの姿で 校門の前で、

僕を 「 おかえり。 」 と 微笑んで 迎えてくれる…。

 

 

そんな事を、虚ろな目で いつまでも 想っていました。

 

…長い廊下の先にある、通い慣れた教室から

卒業ソングの 「 3月9日 」 を 歌っている、

クラスメイト達の歌声が 聴こえてくる様になりました。

 

次第に 校舎から 生徒達の姿が 

ぽつぽつと 少なくなっていきました。

 

あれは 僕を 春の世界から、送り出すために

歌ってくれて いるのだろうか…。

 

 

今度こそ、卒業式を みんなと 一緒に

迎えられると 思っていたのに、

人の温かみを 失ってしまった、学び舎の建物は 

ただの 冷たいコンクリートの塊に なっていました。

 

人の気配がなく 墓場の様に 

静まり返った 体育館や グラウンドには

ボールだけが 残されていました。

 

曲がりくねった 桜並木の通学路を 

歩いていても、どこからか 指先に、

冷たい 冬の冷気を 感じていました。

 

もうすぐ、春の世界とも お別れが 近づいていました…。

 

 

               「 蛍光灯の先 」

                          作詞作曲 岩沢厚治 引用

 

「 いつの間にか 普通になって、

そして 誰もいなくなった。

あんなに 何度も 叫んでいたのに…。 

 

もう、思い出せるはずもなく、

思い出す事も ないんだろう…。

 

どこへ行く、希望の声…。僕は どこかへ 

行こうとして、僕は どこへも 行けなかった…。

 

いつもより 高い空に、風が走る…。 」

 

 

もう、淡い桜色に 染められた風景は、

どこにも 見えなくなっていた。

 

僕は 冬の世界から、一生 逃れる事はできない…。

 

僕の事を 長い年月、桜並木の小道の先で、

待っていてくれた すみれも、

表情から 笑顔が減っていき

次第に 遠ざかり いつしか 消えていった。

 

消えてゆく前に 小さく 口元が動いて、

何かを ささやいている みたいでしたが

遠く 離れた、「 冬の世界 」 に いる、

僕には その言葉は 聞き取れなかった…。

 

 

駅前の夏祭りが あった日、久々に

行こうと 線路沿いの遊歩道を 痛みの影響で、

左右に ふらつきながら 歩いていました。

 

その時、背後にいた 子供達が 

真似をして、身体を フラダンスみたいに 

揺らしながら 僕の後を つけてきて 

「 あいつは 知的障害者だ、」 と 

指さして、みんなで 大笑いしていました。

 

どこかで 見た光景だった。

 

 

映画 「 ビューティフルマインド 」 の 

シーンで、主人公 ジョン・ナッシュの 

統合失調症が 悪化し、大学の 

キャンパスの中を、おかしな動きで 

歩いていると、学生達が 面白がって、

後から 真似をして 大笑いしながら 

ついてくる 場面…。

 

相手が子供だから、怒ったら 捕まるのは 僕の方だ。

 

君たちも いつか、人の痛みが

分かる 年齢になる日は やって来るのだ。

 

 

小学6年生の時、クラスに 知的障害の子がいた。

 

当時、やんちゃで 騒ぐのが 大好きだった僕は

その子の ノロノロした歩き方を、

みんなの前で 演じて 笑い者にしていました。

 

先生に 「 ふざけるな、」 と 怒鳴られても

「 別に 面白いからいいだろ、」 と 開き直っていた。

 

今、僕は あの時の知的障害の子と 

同じ目に あっている…。あの頃の 僕と 同じ、

無自覚で 人を傷つける 子供によって。

 

 

結局、人の痛みは、同じ 痛みを経験しないと 

理解できないのです。

 

これが この 約20年間の闘病生活で、

一番 学んだ事だった…。

 

僕は 自分が 恥ずかしかった。

 

気が向いたら 足を 引きずって 

新千歳空港まで 出かけて、

屋上の テラスから、飛び去って行く 

飛行機を、夕陽が暮れるまで 眺めていました。

 

 

振り返れば 15歳の時、一人暮らししていた 東京、

高校時代を過ごした 岡山や あこがれの少女の

面影を 探し続けた 静岡県 沼津市に 

四国、沖縄、広島県 尾道市…。

 

僕が僕として 生きられる 居場所を求めて

がむしゃらに 長い旅路を 歩き続けてきました。

 

いつも 岡山の高校から、帰省した時 

迎えに来てくれて、空港の到着ロビーで 

待っていてくれた 父さん…。

 

「 おかえり。 」 と言って 僕の頭を 優しく 撫でてくれた。

 

 

帰り道の途中、よく 千歳駅の そばにある、

レストラン 「 びっくり ドンキー 」に 立ち寄って

ふたりで ハンバーグを食べながら

学校の思い出話を 嬉しそうに 聞いてくれた。

 

「 いつか、お前の事を 想ってくれる 女の子を

見てみたい。父さんは それまで 頑張るからな。 」

 

…それが、いつもの 口癖だった。

 

胃、大腸、肺と 3度も ガンを再発し

手術で やせ細っていく 身体で、不甲斐ない僕を 

育てるために 必死に 毎日、職場に通っていた。

 

亡くなる 前日まで…。

 

 

ある日、思い立って 千歳駅から、

よく 父さんと ふたりで、キャッチボールをしていた 

工業団地まで 車がないので 徒歩で 向かいました。

 

バスや車がないと 行けないほど 

離れた場所だったので、汗水を 垂れ流し、

重い足を 引きずりながら 数時間も

歩き続け、ようやく 住宅街が見えてきました。

 

コンビニで 一息ついて、先を見たら 

キャッチボールを していた 公園まで

まだまだ距離が あったので、帰路の体力も 

考えて うつむいて 引き返しました。

 

 

もう 父さんは いないんだ…。

どこにも いないんだ…。

 

 

 

       「 優しさにふれて 」

 

「 誰でも 幸福について 語れるが、

それを 知っている者は少ない。 」

                       ロマン・ロラン

 

 

32歳になり、わずかですが 気力を取り戻し、

もう 何をしても 無駄だと分かっているのに、

また 治療法を探して 雪の中、

札幌市内の病院を 周っていました。

 

 

どんなに 重い雪を 蹴散らして 歩き続けても

「 こんな 症状は 見た事がない、

聞いた事もない、」 と 同じような 言葉で 

追い返され、真っ暗な 家の中で 

絶望のあまり 小さな子供の様に 

「 淋しいよ…。 怖いよ…。」 と 

泣きじゃくって いました。

 

14歳の頃から 孤独のあまり 

毎日、過呼吸を 起こしていましたが、

それから 18年も かけて 顔の疼痛と 

同じ様に 悪化していきました。

 

 

薬も効かず、夜は 暗闇が怖いので 

家中の 電気を点けて、枕元に 

懐中電灯を 2個も置いて 

小さい頃に 買ってもらった ぬいぐるみを

抱いて、朝まで 震えて 過ごしました。

 

姉、親戚達の 暴力的な態度や 

差別的な言動も ひどくなるばかりで、

家の前で いきなり、

「 病人や 障害者は、いつも 

嘘をついて 人をだます、卑怯な奴らだ、

お前の言う事は 全部、嘘だらけだ、嘘つきめ、 」

と 大声で わめき散らしました。

 

 

震えながら 近所の人に、警察を 

呼んだ方がいいか 相談しました。

 

でも 結局、親戚だから 仕方ないと、

耐えるしか なかった…。

 

作業所で 知り合った、精神病の人にも 

振り回されて、看護師が 間に入って、

もう 関わらない方がいいと 判断する事も ありました。

 

3ヶ月に 一回ほど、昔の知り合いに 

近況を メールしただけで

「 あんたみたいな 人生が 不幸すぎる、

厄介者には もう 関わりたくない、 」

と 非難され、悲しみにくれました。

 

 

「 君の 20年間の痛みや 孤独なんか、

どうでも いいから、さっさと働けよ、」

 

「 学歴のない奴は、一生 コンビニで バイトでもしてろ、 」

 

「 金が勿体ないから、治療を止めて さっさと 働け、 」

 

「 人生が あまりにも 不幸すぎて 

関わりたくない、近寄るな、どっかに行けよ、 」

 

「 お前は 生きてるだけで、卑怯者、 」

 

 

僕が見てきたものは、人の優しさや 良心より

社会的弱者を 目の前にした時、

簡単に さらけ出す、人間の悪意や 

暴力的な本性が、ほとんどでした。

 

顔の痛みが 年月と共に 悪化して、

表情の引きつりが ひどくなり 歪んでいくほど

周りは 怖がって 避けていきました。

 

この 21年間に 何十人もの人達から

ひどい言葉や 差別的な事を 言われ続けてきましたが、

僕は 学歴も ほとんどない、両親もいない、

容姿の醜い 障害者だから

「 どれだけ、蔑まれても、見下されて 

馬鹿にされても 耐えるしか ないんだな、 」 と

なかば 諦めていました。

 

 

秋の季節が また 巡ってくると

父さんの故郷の 長沼町にある、両親の 

お墓参りに しばらくぶりに 行ってきました。

 

町の中心部から しばらく 離れた一角に、

世間から 忘れられたように 

小さな お寺が ぽつんと、建っていました

 

周辺には 寂れた民家が 2、3件ほど 

存在しているだけで 他には 何も見当たらず、

人が 手入れしている気配も ない、

生い茂った、雑草だらけの畑や

使い古された オンボロのトラクターが

そのまま 残されていました。

 

 

どこからか、冬の訪れを告げる、乾燥した、

からっ風が お寺の中にある 小さな墓地にも 

ヒュー、ヒュー、と 悲し気な 音を立てて

吹き荒れてきました。

 

周りを 見渡しても、誰かが 歩いている人影も 

見当たらず、電球の灯りも 田舎道に沿って

ぽつぽつと 並んでいる、街灯しかない。

 

耳を澄ましても 聴こえてくるのは

からっ風に 吹かれて、ススキが 

さらさらと 寂しげに 揺れている音だけ…。

 

 

「 父さん、母さん、どうして 

こんな 遠く 離れた場所に いるの? 

どうして こんな、寂しい場所に いるの? 

 

こんな ところに いつまでも いないで、

僕と いっしょに 家に帰ろうよ。 」

 

体温の温もりもない、無感情の 冷たい墓石は 

何も 答える事もなく ただ、この場所に 

じっと 立ち尽くしているだけでした。 

 

お墓の周りには ところどころに 

落ち葉が 降り積もっていて、しばらくの間 

誰も 掃除をしていなかった様でした。

 

 

この近くにある、農家だった おじいちゃんの

自宅も 空き家に なってしまったので 

数年前に 跡形もなく 取り壊されて 

現在は 何もない 更地になっていました。

 

「 淋しい、淋しい、 淋しい…。 」

込み上げてくる想いは それだけだった…。

 

「 誰かを 好きになるのは、ひとりに なりたくないから…。 」

 

たまたま 手に取った、流行りのグループの 

曲の歌詞が、心に 深く 突き刺さっていました。