あだたら山の会の 「A顧問」から 数年前に、「くろがね小屋の思い出」、「避難小屋設営の思い出」という、報告を頂いた。二本松市旧安達町上川崎六角の HMさんから頂いたものだと言う事だった。大変貴重な報告であり、是非公開して皆さんの参考に供したいと思った。新聞記事の 切り抜きも添付されていた。

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  これが新聞記事、ただ 新聞名と、日付が不明でした。
  冬山シーズンをひかえて二本松土木事務所では安達太良山に三棟の避難小屋を建設中だったがこのほど完成、十六日から使用できる事になった。場所は沼ノ平、鉄山、矢筈山に近いいずれも尾根の東側で、大きさは九・九平方㍍、トタン屋根、二重窓で内側は板張り、外側は丸太を半割りしたがん丈な木造建、室内には中央に炉がきられ、宿泊もできる。同所では近く渡辺所長らが二本松山岳連盟の鈴木安雄会長らと話合い、薪の貯蔵などについて協力方を求めるが、今冬はスキー客などにも安心して登山してもらうことになっている。なお同所では営業を度外視して建築工事に当った安達村の野地組社長野地武三氏と終始資材の運搬などに協力した小野沼尻鉱業所長(猪苗代町長)に感謝状を贈ることになった。【写真は完成した避難小屋=沼ノ平】

頂いた報告、【 避難小屋設営いの思い出 】
避難小屋設営の思い出、(昭和三十三年の記録)

 あれは昭和三十二年の夏、沼尻元山中学校(現在の猪苗代の吾妻中学校かと思う)の生徒さんが行方不明になった事件があり、胎内岩北側の沢へ迷い込んだらしいと云うことを記憶している。その後見つかったかどうかの話は聞いていないが、どうなったのだろうか!

 そんな事件があった年の翌年、私達は県営避難小屋設営の命を受け、失対の人夫達四人と、私達三名の総勢七名で、十一月二日夕方、くろがね小屋に向けて登って行った。
 明日は休日と云うこともあってか、小屋は満員すし詰め、登山客優先と言うこともあって、我われ作業員七人は、トイレ前の土間に筵を敷いて横になった。トイレに出入りする人達に足を踏まれたり、蹴飛ばされたりで眠れるわけがない。それに寒さも加わってきたので、持っていったゴム合羽などありったけ着こんで、ただ横になれたと云うのみであった。五、六年前に比べると、登山客の増えたのには 驚かされた。
 そんな一夜が明けて、登山客は早々に出発して行った後、我らは食後、第一工事場の「矢筈ケ森」へ向けて登って行った。木々に付着しているきれいな霧氷に歓声を上げながら現場に着くと、そこには、真新しい丸太やトタン板が揃えてあった。この材料は元山硫黄鉱山まで索道で上げ、そこから上は奉仕作業による鉱山の方々、中学校の先生、父兄の皆さんや、消防団の方々が、肩で担ぎ上げてくれたのである。三坪ほどの小さなログハウス風小屋ではあったが、その本数は大変な数であった。一箇所三日で仕上げて終え、次は鉄山の小屋設営に移ったのである。

 ここにも材料は揃えてあったが、沼の平から火口壁を担ぎ上げ、馬の背から鉄山まで運び上げた苦労は計り知れないものである。二日目もガスに覆われていたが、夕暮れになって、次第にガスが薄れてきたと思ったら、下は雲海が広がっていて、大海原を思わせる素晴しい眺めになっていた。吾妻・磐梯は勿論遠くの山々が島々をかもし出していた。時折登山客が上がって来て、寒いところで作業している我われに対し、手持ちのビスケ等提供してくれる人も居たし、缶話を置いていってくれた方も居た。その夜のつまみは又格別でもあった。
 こうして山上に長時間滞在して見たこの光景は、工事に携われた者に与えられた、ご褒美と言いたい。
でも、あの急な登山道を毎日上り下りするのが、わずらわしくもなってきた。 ここは二箇所目とあって、段取りも慣れ、二日で仕上げてしまう事が出来、くろがね小屋に引き揚げて来た。
 戻ってみると、平日だから、宿泊者など一人も居ないと思って来たのに、奥の方に誰かが居た。小屋番の大内さんの話だと、どうやら心中するつもりで来たのだが、寒さに耐えかねて小屋に入って来たらしいとのこと。
当人達は一言も喋らないし、夕飯を持って行ってやっても手を付けずに、ただ黙って震えているばかりだった。大内さんや、人夫の人達による説得によって、ようやく口を開いた。それによると、二人とも十九歳で、住まいは郡山で、女の方はキミ子と云った。そんな事で、岳の駐在所と無線電話で連絡を取り、下から消防団が迎えに上がるから、小屋からも両名を確保して下がってきてくれないか、と云うことになった。
 そこで二人に夕飯を食べさせ、四人の人夫が、女性を代わる代わる交代で背負うことになり、十九時、壊中電灯を頼りに小屋を出発して行った。私達はデッキに出て、「ガンバレヨー」と鐘をガンガン鳴らして送り出してやった。そして、送って行った連中は、烏川の橋付近で合流し、迎えの救助隊に引き渡して二十二時頃帰って来た。そんなあくる日からは、沼の平小屋設営に向わなければならない。くろがね小屋から往復していたのでは、仕事する時間がなくなるので、寝具から食事道具まで背負って行き、一泊で工事を終わらせなければならない。

 当日は暗くなるまでやって、どうにか雨風を凌げる程度に固めて終え、其の中で、飯盒炊爨で食事は何とか摂ることが出来た。でも寒さには参った。燃えるものが無く、工事の切れ端は生で燃えにくく、交代で火の番をして夜を明かしたが、タヌキ室同然の煙いぶしにあってひどい一夜だったことが今もって忘れられない。現在の様な登山装備があったら、どんなにか楽だったろうなーと思うのである。
 明けて翌十一月九日、休憩無しで完成させてしまい、小屋に戻って完成祝いを、大内さんを交えて賑やかに祝いあった。そんなことのあった次の日、下山して来て、迎えに行ってくれていた、油井の消防車に乗せて貰って帰って来た。
                                                       
 当時のくろがね小屋の番人は、日野屋(現在の光雲閣)の叔父さんの大内 清さんだった。
 其の翌年の五月二十二日、小屋の修理と看板取り付けの為、焼きスギ板に小屋名を彫った看板三枚を背負い、湯川渓谷を一人で登って行った。初日は矢筈小屋で看板だけを取り付けて、小屋に戻って泊りであった。
 この頃は結構登山客も増えていたし、仙台からだと云う二人連れも居たし、長野だったか、埼玉だったかのボーリング屋さんの三人組みも泊って居た。 ボーリング屋さんは、何日か前から湯元を掘っていたのだと云う。
 ただ、仙台からの二人連れは香具師仲間らしく、ハイマツ伐採していたのである。今では到底考えられないのだが、切ってきた松枝をスミスゴ(萱で編んだ炭俵のこと)に包んで持ってゆくのだと云う。
「何するのか」と聞いて見たら、その枝を何本か格好良く組み合わせて鉢に上げ、盆栽風に仕立て夜店に出すのだと云う。
「枯れないのか」と聞いて見たら、ミズゴケで根元を巻けば、松は、一ケ月は持つのだと云っていた。
「根っこがなくて後でバレたらどうするのか」と聞いたら、盆栽と云って売るのじゃなく、この品物を売るだけだから何も心配ないとの事であった。
 こんないんちき商売もあるのかと驚いた。それよりも何よりも、この頃の営林署は、取り締まる必要がなかったのか、取り締まりする人がいなかったのか、山小屋の大内さんも何も注意もせず、文句も云わなかったのであろう。そんな時代だったのかも知れない。
 そう云えば、高山ブドウ取りだといって、一斗缶を背負って、幕川温泉に泊り、大勢の人が吾妻山に群がって行った時代でもあったのである。
 そんな山小屋泊まりで、何日か修理をして降って来たのだった。
 
 現在矢筈の避難小屋は、材木の一部残骸が少し確認できる程度に消滅している。
鉄山の避難小屋は、現在立派な本建築になっていて、ある程度の備品も少し備えつけられてあった。
沼の平避難小屋は、現在通行禁止なのでよく分からないが、双眼鏡で見る限り、黒々とその残骸が少し残っているように確認できる。

(執筆者から)古いメモや日記を元に思い出して書いたので、記憶違いの所があるかも知れません。
 

【 安達太良山系に3箇所設置された第一次避難小屋の写真 】
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 矢筈の避難小屋、あだたら山の会50周年記念誌、小林さんの記事から。
正面奥は 牛の背の稜線、そこまで行くと眼下は 沼の平。

 

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 鉄山避難小屋、みちのくの山々、太田繁、朋文堂昭和39年発行から、
奥に一寸見えるのは 鉄山浄土平の東端、 西向き地蔵の場所。

 

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 沼の平避難小屋、HMさんに頂いた報告に張ってあった新聞記事から、
背景は障子ケ岩の稜線。


 避難小屋設置の 福島中央新報紙面。

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(終り)

(追記 2016-06-01)

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 実はご提供頂いた資料の中に この記事もあった、本来 この記事の上に写真があったようで、それを探そうとしていたが何しろ時間がないので、取り敢えず 公開させて頂くことにします。

『冬の犠牲はもう沢山/ 安達太良に避難小屋/ 関係者が協力、建設急ぐ

冬山の遭難□を無くそうと 県土木部では安達太良山系に三つの避難小屋を建てることになった。小屋は九・九平方㍍の木造だが、いま猪苗代町沼尻から元山まで索道で資材を運搬する一方、元山から鉄山、矢筈ケ森、沼の平までは沼尻工業所三浦探鉱部長以下全従業員と渡部元山小中学校長以下全教諭、高学年生徒たちが重い資材を肩にかついで急坂を登っている。しかし道がけわしいので小屋ひとつぶんの資材を運ぶのにも延べ二百五十名の人力を葉するという困難をきわめている。昨年は元山中の生徒が遭難してまだ遺体も発見されておらず、ことしは一人の遭難者もだすなという学校、元山従業員の悲願から資材の運搬は予想以上にすすみ、十日ごろには着工の運びになる予定である。
【写真は資材を肩に鉄山の尾根を行く元山の人たち】』
(終)

さらに追加(2024-07-03)、鉄山避難小屋の 第二次・第三次の写真。

  第二次鉄山避難小屋写真 「磐梯・吾妻・那須」岩沢正平 山と渓谷社/日本の名峰7 1985年11月1日発行

 

 

 第三次鉄山避難小屋、改修前、1995-10-02。

 

 第三次鉄山避難小屋、改修後、扉の色が違う。

 

 冬季の小屋、扉開閉できないので、この窓から出入りする。

 

(終)