( 山田顕義という人物について )
山田顕義は、幕末から明治初年の戊辰戦争において、倒幕の先頭に立った長州の優れた戦術家として戦闘の現場で活動し、戦後は法治国家を目指す新政府において、司法の要職を歴任しながら日本法学の教育にも尽力して、日本大学の前身たる日本法律学校の設立を主導している。

 

 

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( 書き下ろし ノンフィクション )

 新釈 金子堅太郎伝  秋霜烈日の人

 

〈 本文より抜粋 〉

 

 そして、その後の山田の特異な点は、こうして幕末の動乱期に、数々の戦闘の場を潜り抜け、すぐれた戦術家として実績を残し、維新後の早い時期には、大村益次郎の遺業ともいえる日本陸軍の創設に尽力しながら、明治七年に司法大輔に任じられてからは、近代法治国家を目指す日本の近代法整備に深く関わる事となり、遂にはこの軍事を知り尽した天才的な軍事戦術家が「 兵は凶器なり 」、「 法律は軍事に優先する 」という様な言葉を残している点である。
 驚くべき事に、山田は謂わば 明治陸軍の創成期にすでに軍隊における文民統制 即ち シビリアンコントロールの概念を考えていたと思えるのであるが、山田のこの様な考えには、一時期 故郷 長州の晋門寺塾で学んだ、師の大村益次郎の影響があったのかもしれない。

 

 

書き下ろし ノンフィクション

新釈 金子堅太郎伝  秋霜烈日の人
第四章 明治十八年 巡視、復命、教育  7. 法学教育 より

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