お金の意識 | 三日坊主な備忘録

三日坊主な備忘録

どうも、ジョンです。
2020年誕生男児と、2022年誕生女児の、2児の母。
子供や夫について考えたこと、自分について考えたことを
つらつらと語ります。

何か伝えるというより、自分の頭を整理するに近い。
題名の通り、毎日書くのはまだ難しい。
そんなブログです。

2歳娘の癇癪が、回数は減ったが質が強化された気がする。

先日、玩具を投げ飛ばして壊した。

忍耐力を試されている。

 

さて。

世間一般的に周知の事実だとは思うが

子どもにはお金がかかる。

子どもにかけるお金は消費ではなく投資だと思うが

それでも、お金がかかる。

そのため、やはり考えていかなくてはと思って

私はライフプランシミュレーションなどを立てて

この先の各学校へ入学・卒業の際にお金を出すために

年間いくらの貯金が必要になるのか

そこまでに入ってくる手当は合計いくらか

足りない分は、足りる分は、等々考える。

 

だが、夫は考えない。

このように考えない人がいる中で、

なぜ私は自然と「お金がいるな」と感じ取ることができるのか。

きっかけを考えてみた。

 

まず、

実家での買い物が

基本カタログ通販だったことがあるのかもしれない。

カタログを見るうえで値段と言うものは見ないことはできない。

値札のように隠れずに、その服の横にばっちり書いている。

服も食材も、「これ買って」と指さす隣には

必ず値段が書いてあった。

 

実家のご飯でめったに外食が無いことも

きっかけの一つとしてあったのかもしれない。

母のご飯を否定するつもりはまったくないが

たまに頼むピザやお寿司が、とてもおいしかった記憶があり

新聞に挟まっているピザやお寿司のチラシを見ては

食べたいなぁと眺めていた記憶がある。

そんなチラシにも値段はばっちり書いてある。

ある程度大きくなってからは

「これを食べたいと思ったら、いくらかかるのか」と

自然と考えるようになっていた。

 

親と自分の趣味が合わなかったことも

原因の一つかもしれない。

漫画やゲームを親が買ってきて読む、なんてことはなかった。

欲しい漫画もCDもゲームも、自分のお小遣いで買う。

だが、欲しい漫画は後を絶たない。

そのために古本や安売りセールを活用していた。

この漫画がこのお金で買えるのか、買えないのか

一生懸命考えていた記憶がある。

 

そうやって、値段を気にする土台が作られたから

高校や大学の入試案内の金額の部分も

「いくらかかるんだろう…」と自然に見たのかもしれない。

(そして、私立と公立の差に愕然とし、

 もし公立に落ちて私立に行った場合は部活をしないと

 心に誓っていた過去がある。

 無事公立に受かりはしたのだが。)

 

大学では母子家庭のために半額免除の申請に行ったし

大学途中で一人暮らしをする時には

一人で不動産に行って家賃を見ながら決めていた。

 

それと同時に、

大学時代に飲み会三昧で、今から見ると散財も甚だしい行動をし

(その飲み会が無駄だったとは思わないが、

 間違いなくお金はかかった)

一人暮らししてからも、家賃は母が払い

そのうえ仕送りまで送ってくれていた。

 

お金のことを考えていなかった、まだ小さな子供時代も

「プレゼントしてもらった」と言う記憶はたくさんある。

ランドセル、ゲーム、オルゴール、その他もろもろ…。

当時はそこにお金がかかった意識はないが

「プレゼントをもらった」ということは

それだけ「お金がかかっている」のだということはわかる。

 

そしてその「何にいくらかかるのか」の意識の上に

大学時代にバイトを始めたり、社会人になったり、

お金を得るようになって、

「お金は簡単には稼げない」の経験が上乗せされた。

つまり、今まで私が貰っていたお金は、

ぽんと出せるものではないと知った。

 

育休から復帰まで、諸事情により私は無給だった。

家計費はそれまでの私の貯金で捻出したのだが、

その時に預金残高がすごい速さで減っていった。

それまで積み立てて安心だった口座の通帳から

どんどん数字が桁が減っていくのが恐怖だった。

 

それらの記憶が絡まり合って

「子供にはお金がかかる」

「そのお金は貯めないければ無い」

「もしお金がなかった場合はどうなるか」

これらのことを考えるに至っているのだと思う。

 

子ども達にはお金のことは心配してほしくないと思いながら

お金のことを考えながら生きてほしいと思っている。

もちろん世の中お金がすべてではないし

金の亡者にも、極端なケチにもなってほしくない。

お金がなければ叶わないことも多い。

 

ここまで考えてみたが、

私のケースは割と特殊環境なのかもしれない。

だから、私の子ども達に同じことはできない。

でももし、私がなぜ気付いたか、を考えることによって

子ども達が気づくきっかけになってくれたら嬉しいと思う。

そう思うから、

「私はどうだったのか」をつらつらと考える。

私が伝えられるのは、私の経験だけだから。

 

(だが、適切な時期がわからない…。

 2歳と4歳には早いことだけわかる。

 わかるが、適切な時期がわからない。

 わからないが、いつか来るときに突然考えても遅いので

 いまからぼちぼちと考えている。)

 

オチなどない。