「ありがとう」というスキル | 三日坊主な備忘録

三日坊主な備忘録

どうも、ジョンです。
2020年誕生男児と、2022年誕生女児の、2児の母。
子供や夫について考えたこと、自分について考えたことを
つらつらと語ります。

何か伝えるというより、自分の頭を整理するに近い。
題名の通り、毎日書くのはまだ難しい。
そんなブログです。

9月も土日は引き続きへとへとである。

さらに9月は3連休が2連続でやってくる。

乳幼児を2人育てる身としては

なかなかに恐怖のシルバーウィークである。

 

さて。

夫や子供たちと接していて

【大多数が自然と湧き出る感情】について考えている。

一番考えるのは【相手が笑顔になると嬉しくなる】という

おそらく大多数がそう考える感情である。

 

この【相手が笑顔になると嬉しくなる】という感情は

子供向けの教材でも、"当然"そう感じるものとして

描かれている場合が多いと感じる。

譲り合って、相手が笑顔になると、うれしいね。

ご飯をピッカリ食べて、お母さんが笑顔になると、嬉しいね。

そこに「相手が笑顔になるとなぜ嬉しいのか」は描かれない。

おそらくそれを考えずとも感じるのが大多数だからなのだろう。

 

私はこれを感じる部分が《本能》の部分だと思う。

自分がその環境で生き抜くために必要なものを

「これが必要だ」と無意識で感じ取り、求める。

相手が笑顔になることは、自分にとってメリットになる。

これを自然と《嬉しいこと》として求める。

 

もちろん最初は相手の顔が見えるほど視野は広くない。

私が自分の成長と育児から得た、あくまで私本位の思考で、

【相手の笑顔を得ようとする】までの成長は

木の実(食べ物)を得ることで例えると、

以下のような流れがあるのだと私は思う。

 

①口を開けて閉じる。

 (自分の行動についての認識のみ)

 

②目の前に木の実があることを認識して口を開けて食べる。

 (自分の行動+食べ物(自分以外の物体)の認識)

 

③↑に加え、食べたら目の前から無くなることに気付く。

 (自分の行動の結果への気づき、時間的視野の広がり)

 

⑤↑に加え、隣に木の実があることへの気づき

 (空間的な視野の広がり)

 

⑥↑に加え、隣の木の実に関係している(所有・管理等)

 他者がいることに気づく。

 (さらなる空間的視野の広がり、他人への気づき)

 

⑦↑に加え、他者が関係している木の実を食べることに寄る

 他者の反応に気付く

 (自分の行動と他者の気持ちの関係性への気づき)

 

⑧↑に加え、他者の反応がもたらす自分への影響に気付く

 

⑨↑に加え、自分へ悪影響が出ない、もしくはよい影響の

 他者の反応を貰おうとする。

 

これらの各段階でトライアンドエラーを繰り返して

(そのトライアンドエラーが気が遠くなるのだが…)

一歩一歩進んでいくのだと思う。

私の主観だが、おそらく

③あたりがイヤイヤ期にあたり

④あたりがなぜなぜ期にあたり、

⑥~⑨あたりが小学校にあがるまでぐらいで、

この⑨に至るまでの間に、

大人が適切な《他者の反応》を返せなかったり、

安定的な《他者の反応》を返してなかったりすると、

人の顔色を必要以上に疑ったり、

自分の行動に自信が持てない基盤ができてしまうのかと思う。

 

そして、これらの気づきや視野が自然と広がっていくか否かが

《本能》つまり生存確率の強さなのかな、と思ったりする。

人間における生存確率のあげ方は

適切な相手と、良好な人間関係を築くことなのだと思う。

これが無意識下で自然と分かっているか否か、は大きい。

 

ではこれが自然と広がっていかない

いわゆる生存確率の低い子でも、

人間社会で生き残っていくためには。

それは、思考とスキルで補うしかないのだと思う。

おそらく、それが自然とできる子に比べて、

頭を格段に使うことになるため、疲れてしまうことだと思う。

本能で「ありがとう」と言うよりも

スキルとして「ありがとう」と言うことはずっと習得が難しい。

周囲からのフォローが必要になることだと思う。

それでも、たとえどちらの過程をたどろうと

「ありがとう」と適切に言えれば

人間社会において生存の要となる人間関係は、ある程度保てる。

 

目的は【ありがとうの気持ちを心から持つこと】ではなく

【ありがとう、と言う言葉を使うことで人間関係を保つ】こと。

その過程はどうであれ、

その目的が達成されれば、人間社会で生きていける。

 

現に、私が割と生存確率の低い部類にいるのだと思う。

一人からではなく、結構複数人から

「普通分かるでしょ」と言われた経験がある。

おそらく「普通(大多数は本能的に)わかること」なのだろう。

そんな私の生存戦略は《考えること》だった。

他人を観察し、やり方を真似て、形から入って失敗して

その経験を内にためながら、少しその形を変えていきつつ

トライしてはエラーをして思考をしてトライする。

 

でも、だからこそ

もし私の子ども達が本能が弱く

思考とスキルによって生存確率を上げる必要があるならば

私のこの経験と知見を存分に伝えたいと思っている。

他人が「そんなの考えたことなかった」ということを

他人から「深く考えすぎ」と非難されながらも、

それでも考えて生き抜いてきた私の思考を。

 

ただ、押しつけはいけない。

あくまで私のスキルは"私の"スキルだ。

万人に通じる《知識》ではなく、ただの私の《思考錯誤》だ。

子ども達の本能は私が思うより強いかもしれない。

私の持つスキルが子供たちに合わないかもしれない。

まったく違う視点の思考をしているかもしれない。

その思考もまた、彼らの生き抜くための思考なのだと思う。

私のスキルに過剰な自信を持ちすぎないよう、

でも必要な時には分け与えられるよう、

子供に対して近づきすぎないように待ち構えている。

 

(そして夫がね。

 どうもあなたは①か②で止まってるんじゃないですか?

 というか、他人も未来も怖がって怖がりすぎて

 不安な要素、不確定な要素を

 すべてを忘れて見えないようにして、無理やり安定を作ろうと

 自ら視野を狭めていって①や②になってんのかな???

 ってなる。もう、頑張れとしか言えない。

 世界はそんなに怖いもんじゃない。頑張れ。

 頑張ってくれなきゃ困る。)