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なれないなら、それを目指して努力すればいい。
これが、わたしのモットーである。
が、今回ばかりは、無理。
逆の方向であるように感じる。
それを目指すと、自分自身が壊れる。
なので、そんなストレスを感じるようなことには挑戦しない。
別個のものとして、別に存在する(正しい、優良な)価値として、認めるが、自分は、自分であると言い切る方向。
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なんでも、あるがままに、肯定するのは理想だが、
わたしのスタンスは、肯定するまでにたどりつく、そのプロセスが重要と捉える。
「あら、あなた、こうすればいいじゃない?」
なのは、重々わかっているが、できないから苦しむのである。
なにも考えずに、無意識に肯定している人を見ると、羨ましくさえもある。
「あら、なぜ、そうしないの?」
と、その人は悪意のない輝く笑顔で語りかける。
「しようと思っても、できないんです???」
そういう人が世の中にいることをその人に知って欲しい。
まあ、知って、なにになる?ってことだが。
知って、その人にストレスが溜まるだけなら、知らないほうがいいのかも。
ストレスを押し付けあっても。
が、一方だけがストレスを抱え、一方は、まるでどこ吹く風?
しかし、ストレスの発散方法を誤った方向に持っていくのは良くない。
最善の方法で、相互理解につながれば理想的。それが、また難しいのだが。
自分で解決するしかないのか。
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自分のことを理解してほしい、認めてほしい、
そう願うのは、ごく自然のことだと、心理学だかなんだかの本に書いてあった。
人間の三大欲求(食欲、睡眠欲、性欲)が満たされると、その次の欲求は段階的に高度になる。
それが、認められたい、という欲求らしい。
学者さんが、研究を重ねて、そう書いているのだから、そう大きく間違っていないと感じる。
ただ、認められたい内容や、質、方法などが常識を逸脱すると、疎外されたり、犯罪につながったり、人間失格になったりする。
なにも感じない、ふわふわした、こころの純粋な人に、なりたい。
が、そんなに無防備にしていると、あっという間に、敵に攻め込まれ、「あほやなあ」ということになる。
無防備は、無知と同じ。
最低限度は、セキュリティ?システムを導入しなければ、個人の諸々を守れない。
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