先週土曜は深セン・香港が大雨だったので自分を含めて4人しか来なかった(普段は平均して15人程が学んでいる)。タクシーを降りて練習場所に着くまでの5分程の間にかなり降られて靴の中まで水に濡れた。それでも人数が少ない分、先生からかなり細かい指導を受けることができて良かった。

 

最近の練習は麒麟鞭、春秋大刀と武当剣、三節混がメインになっていて、最後は先生について武当太極拳の変化を学ぶといった流れになっている。

 

武当剣は動作が多く、身法の難易度が高いうえに流れるように行う。テクニックにばかり気を取られ、行剣中自身でも気が付かない力み(硬さ)が出てしまっていることを指摘される。動くたびにひとつひとつの動作を細かく修正してもらった。特に命門。調子に乗るとついつい腰がS字に戻る。真ん中の途切れは、速く動くことで身体が熱くなると気が付きにくいが、ゆっくり動くことで気血の巡りが滞っていることがはっきりと解る。

変な話だが、褒められることより怒られるというか、注意されることのほうが嬉しい。自分で気が付かない部分を指摘してもらえる機会は、たぶんこれから確実に少なくなっていくので。

 

麒麟鞭では新たに数種類の「跑鞭(空中に放って持ち替えを行う動作)」を習い、動きの幅がかなり広がった。自然派では長・短・軟兵器に関わらず、兵器を一旦宙に放って持ち手を換える動作は多々出てくるが、表演などで見られる大きく投げるような動作はほとんどない。あくまで相手がいることを想定し予測のつかないところから加撃するために行うので、出来る限り滞空時間を短く行うように指導される。

鞭など軟兵器系を習い始めた時は、こんな複雑な動きが習得できるのかとあまり乗り気ではなかったのだが、今では剣と並んで好きな兵器の一つになり、技の組み合わせを考えながら練習するのが習慣になった。

 

非常に苦戦しているのは三節棍。とにかく失敗して身体にぶつけると痛い。普通は肘とか膝とかが多いのだが、下手くそ過ぎて股間にぶつかることすらある...。持ち手の位置に注意しながら徐々に慣らしていくしかない。

 

王先生は兵器の学習に際して学生に「力を用いない(力まない)こと、慢(遅い練習)快(速い練習)を心掛けること」を口が酸っぱくなるほど繰り返して言われる。上記の気血云々もあるが、反復練習ではゆっくり動いて感覚をつかむことで難易度の高い動作も徐々に出来るようになっていくからだ。

ところが三節棍ではそうもいかない。特に舞花(棒、槍などの長兵器で用いられる武器を回す動作)ではある程度の速度で動かさないと両端の棒が回ってくれないからだ。

多用される背倒手(後ろで持ち替える動作)は特に注意しないと、縦の倒手では膝とか肘にぶつかるし、横の倒手(腰を曲げて背中を倒しながら回転させて持ち換える)に至っては後頭部が危険で、これはさすがに命にかかわる。

名前は失念したが、日本の武術教室のホームページか何かで、ローラースケートなどで被るヘルメット?とかプロテクターを付けて流星錘などの練習をさせているのを見たことがあり、安全意識が高くて流石しっかりしてるなぁと思った。あれは自分が教室を開いたときには是非採用させてもらいたいと感じた。

先生も三節棍については教える相手をかなり限定していて(年齢的に危険なので)、怪我をしないように注意しているのだが、こちらでプロテクターを付けて練習するといった発想自体なく、毎回どこかしらぶつけて痣ができる人がいる(笑)

 

春秋大刀は武器の特性を理解した後は、極端に難しいと思う動作は無く、主に動きの意味についての説明がなされた。

自然派では八卦掌がメインとなっていることもあり、基本的に兵器を扱う際には八卦の歩や身法が多用される。春秋大刀の中でも走圏しながらの動作が多々含まれており、拳と兵器両方を練習することで相互補完ができるようになっている。兵器の扱い方を覚えることで拳に応用し、徒手で新たな変化を生み出すきっかけにもなる。

 

 

不争、不理、不解釈

食事中の世間話で昔先生に習っていたある師兄の話になった。香港で先生から習ったもので荒稼ぎしており皆の耳に入っているのだが、特に師姉の1人が彼のFacebookを見て、王先生に対して失礼だったので憤慨したという内容だった。

元々中国で商売をしていた師兄は、或る時失敗して中国内で負債なのか、脱税なのか、問題を抱え逃げるように香港に戻った。王先生には「暫く商売の原因で中国に入れない」と言って離れていったという。

その後その師兄は香港で武術や気功を教えるグランドマスターとして返り咲いた。陳式太極拳を朱天才の孫?(年が若いと思うので、息子ではないかと思われる)に習ったとか、他にも数人の師から習った経歴が書かれており、現在は多いに儲かっているらしい。

そうしたマスター達の最後に、王先生の紹介が書かれていたのだが、敬称がマスターでもグランドマスターでもなく、単にタオイストと書かれていたこと、また伝承の記載に誤りがあったことが師姉の怒りの元だった。

 

王先生は、その師兄について、品行に問題が多少あったとしても「ある部分では頭が良い」とだけ述べ、最近師母(先生の奥様)がネットで見つけて読んでいた文章を例にあげて、「不争、不理、不解釈。これが私の考え方に近い」と言い、続けて「大縁大得、小縁小得、無縁無得」と、縁についての話をされた。何を追い求めるかは人によって違うのだから、放っておけばよい。自分が代価を払って得たものを商売に使おうが健康になるために利用しようが、それはその人のことであってもう自分の手を離れたものだから追求しない。敬称や伝承についての記載が間違っているのか、故意なのかは知らないが、結果的に本人の生活が安定したんだったらそれでいいじゃないか、とのことだった。

 

以下が不争、不理、不解釈について書かれた文章の意訳。元の出自は微信で定期的に法話を配信しているお坊さんのグループ。

 

不争とは寛容

不理とは智慧

不解釈とは成熟

 

我々は争わない

無能だからではなく、衝突したくないからだ

我々は他人にかまわない

心が虚ろなのではなく、人に譲ることを学んでいるからだ

我々は言い訳や無用な解説はしない

弱い人間だからではなく、時間が証明してくれるからだ

 

今の世の中に生きていて、誰からも後ろ指を刺されない人などいるだろうか?

どんなにうまくやっても、妬み責める人がいる

どんなにまじめに話しても、不満をもつ人がいる

あなたを嫌いな人間に対して、どんなに好かれようと頑張っても何の役にも立たない

あなたを冷遇する人間に対して、どんなに根回しをしても心が動くことは無い

 

我々は誰にも彼にも好かれることなどできない

あらゆる人の気持ちを満たすことなどできない

欲深く満足することを知らない人間を満足させることなどできない

陰険で腹黒い人間を受け入れることなどできない

見切りをつけた者は離れていく

けじめのついたものは手放す

 

人生は短い

自分のために生きるべきだ

他人の議論を気にする必要はない

他人の眼を気にする必要はない

自分の心に恥ずかしくない生き方をすればいい

噂は遅かれ早かれ風化する

言い争えば争う程相手は増長する

誤解や矛盾はいつか解かれる

説明すればするほど、言葉でははっきり言い表せない

 

愚かなふるまいをしてはいけない

あなたを知らない、理解できない人の前で

何をどんなに話したところで無駄だ

あなたのことを嫌いな人の心に

何を語りかけてどれだけいいことをしても徒労に終わるだけだ

 

時間と生気を価値のない人間に使うくらいなら、自分のために残しておきなさい

 

不争を用いてあなたの度量の大きさを顕彰されなさい

不理を用いてあなたの心の寛容さを示しなさい

不解釈を用いてあなたの品行を証明しなさい

 

身を正せばいかなることにも平然と向き合える

心をただせば生涯なんら恥じることはない

 

人と争わず、人にかまわず、人に言い訳や細かい説明をしない。自分の道を行けばいい、というものだ。

中国ではこの数年、伝統武術を教えて食べている人間がMMAの人間に挑戦を受けて敗れ、世間の批判にさらされるといったことが続いている。

武当山でも何週間か前に新疆から来た太極拳家が山の麓に武館を開き、弟子を集めたのは良いが、あからさまに道士をバカにする発言を繰り返したために各派の道士がやってきて、そのうち龍門派の道士との手合わせで敗れ、その映像が晒された。

 

こういった話は王先生との話題にもよく上るのだが、「他の庭を荒らさない(人を悪く言わない)」、「自ら進んで交流しない。相手の態度を伺い、まず最初に求められても出来ないと言え」が基本的な考え方。武当山の件に関しては「最初に道士を批判した新疆の先生も悪いが、何故徒党を組んで会いに行く必要があるのか?文句があるなら1人で行けばいい。映像に撮られた側は、これから商売が出来なくなる。そういった行為を道士を名乗る者がしてはいけない」と言われ、人に教える際の心得について説かれた。

 

武術がどうこう以前に、人を傷つければまず法で罰せられるのが今の世の中。それが当たり前だと考えられなくなる人間がいる。「来者不拒(厭)、走者不留(来る者は拒まず、去る者は追わず)」という気持ちで、他人と争わず、他人に干渉せず、他人に口を出さない。これが道家武術を練習するものとしての最低限守るべきものであると思う。