はじめに

前回李景林が伝えた武当剣について書いたが、今後数回は宋唯一が「武当剣譜」内に記した武当剣について書こうと思う。まず、最初に現在自分が学習を進めている三豊自然派の剣、ならびに宋唯一が学んだ武当丹派について、その後いろいろと王先生よりお話を伺う機会があり理解が進んだので忘備録として書き進める。今までも書いた文章は変えてきたが、武当剣については今後かなり加筆・修正を行うつもりでいる。

国内で宋の剣譜を研究している文章のほとんどが、李景林の武当剣を元にして行われている。李が晩年山東国術館で必修科目とした武当対剣は広く練習され、現在武当剣を名乗る剣術のほとんどはこの対剣から変化したものであるし、そもそも武当三豊自然派自体が伝承者が少なく非常にマイナーな門派であったので仕方がない。

 

武当丹派とその剣術

武当剣は洞玄真人張三豊(峰)が真武の大法を授けられ、後に祖師は九つの派を成立させた。

九派はまた三乘の法に分けられた。

 

九派とは即ち、

字、柱、極、符、鑒、七、釜、籌、丹

 

三乘は上中下に分けられ、

上乘は偃月神術であり、字、柱、極、三字の派が伝えた。

中乘は匕首飛術であり、符、鑒、七、三字の派が伝えた。

下乘は長剣舞術であり、釜、籌、丹、三字の派が伝えた。

 

三乘における「神」、「飛」、「舞」の三字は九派九字に連なり、

即ち一生三(1は3を生み出し)、三生九(3は9を生み出す)の意を表している。

 

宋唯一の下乘「丹」字派剣術は、野鶴道人(張野鶴)より伝えられた。

 

昔日、祖師(張三豊)が剣を伝授する時には、先ず内勇(胆力)を修練し、次に外功を修練し、最後に手法、歩法を教えた。三年後、断崖絶壁の上で月を通り過ぎるように走ってこれを追い、竹の枝を猿猱(猿の一種)に突き当てることが出来るように成った者を中者とし、正に剣術の真諦を授かることが出来たという。

「内家丹字真締」に曰く、三峰祖師(ここでは峰の字を用いている)は「易」道を用いて剣術を創り、易同様随時変化する天道(自然規律のこと)とした。故に剣術の大法は、八卦を用いて8場とし、64卦を64勢とし、384爻を384手とした。

※両儀は四象を生み、四象は八卦を生み、八卦は六十四卦を生み、六十四卦は毎卦ごとに六爻あるので、三百八十四爻となる。

易は時と共に変化し、一卦が一時であれば六十四卦は異なり、剣術の六十四勢も異なる。さらに一爻は一時であるので、三百八十四爻となり、三八十四爻と剣術の三百八十四手も異なっている。時の変化は無窮であり、剣術の変化もまた無窮である。故に剣術に法無く、敵の変化に応じてこれを制する。

 

扱う剣の規格と飛龍剣の由来

鋳剣(鍛造)する際の尺寸は、上制・中制・下制の三等に分けられる。

上制は九鏘(鏘は重さ。毎鏘6両5銭(325g)。九鏘=2925g=九尺(一尺33.3333....㎝。九尺=約3ⅿ)で、上士がこれを扱う。

中制は六鏘(1950g)六尺(約2m)で、中士がこれを扱う。

下制は三鏘(975g)三尺(約1m)で、下士がこれを扱う。

 

※上・中・下士は、武当剣譜が書かれた時代背景を見るに、軍隊における階級、または高名な貴族、平庸な貴族、浅薄な貴族、といった解釈をしたくなるが、ここでは道徳経の四十一章「上士聞道、勤而行之、中士聞道、若存若亡、下士聞道則笑之、不笑不足以為道」にある思想の優劣にかけて、功夫の優れた者、平凡なもの、低い者であると思われる。

 

功成れば、あらゆる剣は三尺六寸(1.2m)、十九両5銭(975g)、三(剣)六(乾卦)九五(爻位yao2 wei4)の数に至る。即ち三剣は一剣となり、乾卦九五飛龍在天の意がある。故に名を「飛龍剣」という。

※王先生に聞いた剣の規格もおおむね同じで、大きく剣身(刃)が三尺(約1m)、六寸(約20㎝)が剣柄(柄。護手(剣格)と呼ばれる鍔部分を含む)であるとのことだった。これに準じて自然派でも両刃の長剣を扱う。

 

                            

                         現状現存する宋唯一(中央)とされている写真はこの1枚だけ

 

自然派に伝わる飛龍剣八路

三豊自然派に伝わる「飛龍剣」とは全八路から成る長穂剣が原始の形だ。そして、飛龍剣は武当三豊自然派における核心的な功法でもある。以前書いたが、穂は相手の視界を遮ったり穂を鞭のように使って相手を打つことができる。また、穂から細い鎖と分銅を付けて殺傷力を高める場合もある。打ち終わるまでに10~15分近くかかり、身法は八卦掌そのもので、それに「長剣舞術」よろしく激しい跳躍動作も含まれる(剣形八卦掌そのものが飛龍剣を行うために存在する身法であり、徒手としての応用は後から変化発展したものと考えられる)。人に見せる時、自分で練習するときは2~3路の中にある招式を組み合わせて行う場合がほとんどだ。構成は個人の神意変化(瞬時に組み合わされる技の変化)によって自由に変化させて良い。

※飛龍剣には、「武当剣譜」に記されている剣術八法とは別に飛龍剣の歌訣が八首伝わっており、こちらは公開を許されていない。

 

王先生のDVDに収録され、ネットでも見れる八卦飛龍剣も、この八路の中から招式を抜き出し構成しなおした短穂、或いは無穂(剣穂をつけない)の八卦剣だ。「八卦」と冠するのは、八卦剣を中心に構成されたものだからで、もし太極剣を中心に構成されたのであれば、太極飛龍剣、五行(形意)剣なら五行飛龍剣と呼んでも構わないとのことだ。

 

王先生曰く、「自然派の武当剣は八卦掌の変化で相手に対し、攻めは五行拳(形意拳)の勁を、守りは太極拳の化を剣に応用する」

とのことで、よく言われる「武当剣有太極腰、形意勁、八卦歩」そのものだ。

 

自然派における武当剣とは、太極剣・五行剣・八卦剣の組み合わせによって成り立つ総合剣のことを指す。三剣の配分によって、八卦に偏った構成になっていたり、五行(形意)を中心とした剛的な構成になっていたりするが、三剣合一であることに変わりわなく、逆にここから逸脱した剣を「武当剣」とは呼ばない。

 

自然派の形成について

自然派の中に五行(形意)拳があるけど、それは武当派のものではないでしょう?とか、定、活、変の理論も孫禄堂の書籍から始まったのであって、それを参考につくられたのではないか?とか色々言われそうだが、同派は二十一代伝人、李元徳の時代から他門派の技術を多く取り入れ始め、掌門ならびに龍頭伝人と呼ばれる代表的な伝人として二十二代劉妙元、二十三代楊明賢、二十四代劉志誠(煥軍)、賈志学(忠義)、そして二十五代、二十六代、二十七代が活躍する現代までと続いてきた。他派においても、この形成過程は同じだ。

二十一代、二十二代の頃が19世紀半ばから20世紀半ばくらいまでで、飛龍剣と剣形八卦掌はこの時期に宋唯一の師である張野鶴より自然派の本山である北鎮閭山へ伝えられたとされている。同様に、形意拳もこの頃に何等かの形で伝えられたとみられる。

同派に伝わる綜譜には、伝承者は「法、侶、財、地、拳、功、薬、械」の八字を具え(通じ)、武術は徒手に関しては「八卦掌を掌門拳術として、太極拳、五行拳(形意拳)を補助拳術とする」と記載されていることから、二十一代、二十二代の頃には今の体系に近いものが伝わっていたと思われる。