体系

中国武術の多くの門派は南北を問わず、套路での1人練習を中心においているものが多く、対練(対人練習)は後から学ぶか、その都度パターン化した掛け合いを行うが、李景林の伝えた武当剣は、まず先に基本となる「対剣十三勢」を学び、続けて「武当対剣」「活歩対剣」「散剣法」と対練を中心に学んでいく方法をとっていた。山東国術館では、楊式太極拳、八極拳、武当対剣、六合槍が必修科目とされていた。

※楊奎山(李が軍人であった頃からの大弟子)の弟子、呉志泉の発表した「八千里路雲和月-李景林、楊奎山師徒伝奇ー」から。山東国術館には李書文が招かれていたので、李景林が得意とする楊式太極拳、武当剣と併せて八極拳、六合槍を必修科目とした。

「単剣」と呼ばれる1人で練習するための套路は最後に編纂された。単剣については李が他門派の武術家達と共同研究する中で徐々に形成されていったため、李から習った時期によってその構成や技の数などは大きく異なっている。ただ基本となる部分は対剣十三勢をもとに造られているので、李から連なる武当剣で現在伝わるいずれの支流も大きく逸脱しているものはない。

                                       

武当丹派六路剣法132式

李景林→孟暁峰→王恩盛と続く伝承で伝わっているのが武当丹派六路132式だ。王恩盛は自著「六路真跡武当剣芸」の中で、師である孟暁峰が李より同六路132式を習ったのが山東国術館時代であると書いている。

※孟は以前馮玉祥の西北軍閥に属する軍人だった。当時山東省の首席副官長という職に就いており、李とは以前から親交があった。(同書には同僚と記載されているが、どの時点で同じ場所にいたのかは不明。馮玉祥の西北軍が国民党へ恭順したのが26年9月(五原誓師)。李は27年)

国術館設立の際、省首席の韓復榘(李の大弟子である楊奎山は韓の護衛を務めた)と共に李の国術館設立を助け、これが縁で六路132式の全伝を受けたとされる。李は1930年に同国術館で館長となり、翌12月に亡くなっているので、もし李の伝えた単剣套路をそのまま伝えているとするなら天津時代の60数式(伝人によって異なる)から大幅に変化発展しており、これがその最終形であると思われる。

 

現在中国国内で伝えられている武当剣で、上記の他に李景林系のものとしてよく見られるものをいくつか列挙すると、

 

李天驥(李景林→李玉琳→李天驥)が編纂した武当剣64式、武当太極剣49式

伝え広めることに成功したという点ではもっとも代表的な武当剣だ。李天驥が競賽套路(競技用の規定套路)を編纂する主要メンバーであったので、武当太極剣49式は民間および各地の体育学院で学習されるようになり、現在は国内外にかなりの愛好者がいると思われる。

また、近年中国内ではこの派生だと思われる李国強という人が編纂したとされる武当太極剣63式というものも広がっているようだ。

 

呉志泉(李景林→楊奎山→呉志泉)の武当行剣(行剣とは字の通り留まることなく動きながら操剣するもので、八卦歩とみられる歩法を多用している)

李景林の大弟子だった楊奎山の伝承で、終始歩き続けて打つものを公開しているのは同派だけだ。

※武当山に伝わる太乙玄門剣という武当剣があるが、郭高一が伝えたもので、郭は楊奎山に習っていたことがあるので、李景林系の武当剣と関連している可能性がある。

 

蒋馨山(李景林の従弟(母方の兄弟の息子)で程廷華の弟子(正確には程が早くに亡くなったので息子の程有龍(字は海亭)から習っている)、宋唯一に拝師したというが、その年に宋は亡くなっているので李の代理教授であると思われる)の武当剣と剣形八卦掌

※以前香港からの移民でオーストラリアにいる同門兄弟が天津にいる伝人達に連絡をとった話を聞いたが、保守的で教えてもらえなかったそうだ。剣形八卦掌と刀形八卦掌の違いについて述べた動画などがネットに散見されるものの、基本的に情報は出ていないので判断のしようもない。伝人はある程度いるようだ。

 

この他、上海時代や国術館時代の弟子が伝えたものが数多くある。単剣に関しては多少の差異が見受けられるものの、武当対剣や活歩対剣に関してはおおむね共通した内容で伝えられている。

        

        李の妻(正妻、名前は不明)と娘、李書琴による武当対剣

 

変化を促す練習体系

対剣が山東国術館必須とされて学習者が多かったのに対して、それぞれがばらばらに伝えた単剣については、現在まで門外だけでなく同門同士でも技術や伝承の正統性が争われ続けている。

 

この六路132式を取り上げたのは、自分が学ぶ武当三豊自然派の法門にかなり近い教学体系だと感じたからだった。

宋唯一に李景林が学んだ年数は総合すると3年程で、後半宋が病に伏していた時期はどれほどの教授がなされたのかは分からない。ただ、宋唯一について、自然派では丹派・自然派両方の伝人であることになっている(宋唯一の師である張野鶴が北鎮閭山に滞在して弟子を育てたとされる)。

李が宋に自然派で最初に教えられる法門、考え方を学んでいれば、固定化せず変化を求めるアプローチがなされるのは自然なことだと思えた。

 

六路132式は、一路ごとにそれぞれ21の招式(起式の3動作と収式の3動作を含まない)で構成されている。李は、これを、六→四→二→五→三→一、とか、一→三→五→二→四→六という風に、順序を換えて練習するように指導した。単純に計算すれば、720通りあることになる。この練習方法を見、李がいかに剣術をよりよく伝承していくか苦心していたことがうかがえる。

 

早くに亡くなったこともあり、一路21式の順番を変化させ、招式そのものを変化発展させることが間に合わなかったことが悔やまれてならない。

李があと数年長生きしていれば、同六路132式に変化歩を加え、21式の順序もその数字にとらわれることなく、路を超えて自在に組み換え、式を超えて招式も変化させ、なおかつ対剣や散剣に反映できる教学体系を完成させていたかもしれない。