はじめに

武当剣の歴史・技術を紐解くにあたり、武当丹派の伝人である宋唯一や、その弟子である李景林の存在は避けて通れない。宋唯一については以前八卦掌の起源について書いたときに一度触れているので、李景林を中心に書こうと思う。

李は人生の大半を軍人として過ごしており晩年まで職業武術家ではなかった。弟子は武術の師弟関係であると同時に部下でもあり、大部分が軍属であったので、今でこそ派生が多い李の武当剣も生前人目に触れる機会は少なかった。

晩年山東国術館館長となるまでに500人以上の弟子をとったというが、おもに軍人だったころからの弟子と、上海時代に孫禄堂と互いの弟子を交換拝師、教授した際に教えを受けた伝人を中心に、今日まで各種異なる武当剣の形が伝わっている。

李の四大弟子や、晩年李と親しくしており、運よく全伝を授かった者の弟子、孫弟子の発表した文章や映像が多く公開されているので、それらをまとめて意訳してみた。

                   

李景林、其の人

李景林は光緒十一年(1885年)、農歴三月二十八日生まれ、字を芳芳岑。河北省棗强屯郷王新屯村生まれ(同省の東南部に位置し、棗県は現在の衡水市に属する)。5人兄弟の末っ子で、上3人の兄は故郷で商売をしており、4番目の兄は早くに亡くなった。本来実家は王姓だったが、曾祖父が幼い時に棗强屯西七吉村の母方のおじへ養子に入ったため、李へと改姓した。

 

14 歳で奉天(現在の瀋陽)にあった「育字軍」という学徒養成を目的とした陸軍青年学校に送られ、1900年に庚子国変(義和団事変)が起こるまで同校で学んだ。幼い頃より父から燕青門や二郎門などを仕込まれていた李は、暫くすると当時管帯(清朝の武官、営長に相当)だった宋唯一(武当丹派第九代伝人)の目に留まり、単独で宋より武当派剣術を教わることになる。

※1888年から同校に入ったという記述もあるが、3歳というのはさすがに無理があると思われる。

 

庚子国変の影響で育字軍が解散したので、15歳(16歳になる年)で実家に戻った李は、永年県に太極拳の名人がいることを人づてに聞いて、同県を訪れ楊健侯に拝師、当時数少なかった外姓の弟子となる。師の次男で歳も近かった楊澄甫とはこの頃に親交を深めた。

 

 

1903年、永年県で3年間の修行を積み功成った李は、続けて河北省保定にあった北洋陸軍速成武備学堂(保定軍学校の前身)に入学し、07年に卒業。その後武昌蜂起鎮圧に参加して軍功を上げたのを皮切に軍閥を転々としながら軍功を上げて昇進を重ね、軍属としての道を歩むことになる。17年秋に許蘭洲について奉天系軍閥に入り、翌年許が援陜奉軍総司令に任ぜられると李は司令部の参議となる。18年には皖系(安徽系)の曲同豊率いる第一師団步兵一旅団第一旅団長となり20年に直皖戦争に参加した。まもなくして、皖系の徐樹錚のやり方が気に入らず、仲が険悪となったので直隷系に鞍替えして徐の軍を打ち破った。21年に疾行軍と呼ばれる精鋭部隊を練成し、張作霖から重用されて奉天陸軍第7混成旅団旅団長となった。

1921年4月に第一次直奉戦争が起こって奉天派が敗れると、張作霖の行った陸軍の再編で7月に整編第一師団長に昇進し、1922年に部隊を北鎮に駐屯させ、李は錦州に異動することになった。錦州より北東に位置する北鎮は師である宋唯一の故郷だった。北鎮に駐留していた部下である丁齊銳の家族が借りていた民家の家主が偶然にも宋唯一であった。丁より報告を受けた李は、宋唯一との運命的な再会を喜び、軍務の合間を縫っては弟子や部下を引き連れて宋を訪問して引き続き教えを請うた。宋唯一は既に病を患っていて、あまり動ける状態ではなかったというが、弟子に会うと元気になって往年の動きを見せたという。この期間に宋は愛弟子である李に自身が著した「武当剣譜」、「剣形八卦掌譜」、「道家修道禄」の三冊を遺している。

※のちに「武当剣譜」以外の2冊は李の弟子で従軍していた林誌遠が、第一次直奉戦争(日本では奉直戦争と記載)の準備中にボヤを起こして燃やしてしまったと言われている(馬草の上で喫煙しながら休んでいたところ、連日の激務から疲労困憊して寝てしまい、タバコの火が燃え移ってボヤを起こした。その際に借りていた2冊も燃えてしまったとのことだ..)。

※2 「武当剣譜」は宋唯一の弟、宋德朴(聾啞であったが書画に優れ、詩を書くこともできたという)が手伝って完成した著作とも言われており、23年には北平(北京)の西単付近で上中下3冊に分けて販売された。このことから武当剣譜が世に出ることになった。

 

                

 

1925年1月に、李は天津へ異動となった。同年11月、張作霖が日本から武器を購入して南方の国民党と戦おうとしているのを快く思っていなかった郭松齢(張の部下で五虎将(郭松齢、李景林、韓麟春、張宗昌、姜登選)の1人)が西北軍の馮玉祥と結託して張に反旗を翻し、奉天派軍閥から離反する事件が起こる。郭はまもなく馮の裏切りに遭い(最初から協力しておらず、張家口にいた馮が機に乗じて北京と天津に攻め入ったとも言われており、所説ある)、灤州(河北省の東北部)で兵をおこして奉天を目指したが、日本の関東軍と奉天派によって倒される。李はこの時天津で馮玉祥配下の張之江(後の南京中央国術館館長)と戦って敗れ、天津が占領された際に同地の租界に身を隠すこととなった。(李が当時詰めていた公署は鞍山道70号にあり、住まいとしていた公館は四平道88号にあった。公館の裏が鞍山道であり、公署までは200mの距離で近かった。この一帯は日本人租界で、李の勤め先は後に静圓と呼ばれ、満州国皇帝となる溥儀の住まいになる場所でもあった。日本の手前、李ひとりのために租界を軍で囲むわけには行かず、潜伏先を知りながらも追っ手を向けることなく監視を続けるだけだった)李は翌26年の1月まで租界に身を寄せていた。

宋唯一は李景林について天津におもむき軍の武術教官となっていたが、前述の事件や、病状の悪化もあって、故郷の北鎮へ戻り、25年の冬に逝去した。

 

租界にいる間、李は傅振嵩の師である賈鳳鳴や、「八卦剣学」を発表して間もなかった孫禄堂など各派の武術家を招聘して剣法の共同研究に勤しみ、武当対剣の各剣勢ならびに名称を制定していったとされる。その中で最終的にまとめられたものが「対剣十三勢(、帯、、撃、刺、点、崩、攪、、圧、)」、「武当対剣」、「活歩対剣」、「散剣法」などだった。

その後、李は26年1月に山東省済南に逃げ、2月には張宗昌と組み、直魯聯軍を率いて馮玉祥軍と再戦するも敗れてしまう。しかし日本軍と張学良の支援を受け、再度相まみえ、3月下旬には天津の奪還に成功している。

 

同年6月、孫傳芳、馮玉祥、靳雲鶚(直隷系)らと組んで張作霖へ敵対する意思があると張学良に疑われ(実際に計画が進んでおり、半ばで発覚したとも言われる)、強制的に下野させられる。

李は奉天派から逃れる為天津から上海へ海路を使って渡り、9月に同地にいた孫傳芳に面会。北洋政府が聯合して国民党の北伐に当たるべきだと論しているが、孫に拒絶されている。この時李に付き従ったのが、甥の李書泰と楊奎山、郭憲山、林誌遠、黃敬義ら四大弟子の5人だった。

 

   

 

一方、国術界では、上海にいた孫禄堂と再会。同時期に李・孫はそれぞれの弟子である孫存周、李玉琳、高振東、胡風山、李書泰、楊奎山、郭憲山、林誌遠、黃敬義、郝家俊、王喜林、王喜奎、蕭格清、鄭懷賢、孫振岱、章東、支錫堂ら2、30人をお互いに拝師させて弟子とし、交換教授を行った。

 

1927年3月、李は情勢を鑑み、中国国民党に参加しようとして途中で奉天派の褚玉璞に身柄を拘束・逮捕されてしまうが、張作霖の後ろ盾となっていた日本の口添えで釈放され、日本経由で南京へと渡り、蒋介石より直魯軍の招撫使に任命される。

28年3月24日に南京中央国術館が成立し、張之江が館長になる。李景林は4月に国民政府軍事委員会委員に任命された。

29年5月3日、浙江省政府首席の張静江が浙江国術遊芸大会を催し、李景林を主任として招いた。同大会が終了したのち、浙江国術館にて、黄元秀、高振東、褚桂亭、錢西樵、蘇景田、沈爾喬、孫存周等に教えた。

 

※上海時代に孫禄堂と行われた弟子同士の交換拝師・教授はその後も続いており、かなりの者がこの数年で教えを受けたと言われている。

1930年に国民政府より蒋介石に反旗を翻した閻錫山、馮玉祥聯合に対応するため、李は済南に派遣され、同時に山東国術館の設立を命じられる。同国術館では李が館長に就任し、李書泰が教務長、李玉琳が教務主任に任ぜられた。この期間に李に拝師したものは数百人におよぶとされているが、その中でも多く教えを受けたのは孟曉峰、郝家俊、万籟声、李天驥らであったとされている。

 

1931年12月、李は赤痢にかかって済南で死去した。わずか46歳の若さだった。彼に長く付き従った楊奎山、郭憲三、林誌遠、黃敬義(四大弟子と呼ばれる)をはじめとする数多くの弟子達によって、李の武当剣は今日まで広く伝えられている。