春秋大刀

先々週から王先生が遼寧省より帰ってこられ、春秋大刀を一部の師兄達に教え始めた。師母が習えばいいと参加を薦めてくれたが、王先生からは「剣の方が大切だから剣をもっと練習しなさい」と言われていたので休憩中に若干眺める程度だった。

今回、まだ人が集まらない時間帯に鞭を練習していたところ、「それぐらいにして大刀の練習をするように」とOKが出た。

 

自然派において、大刀は最後に教えるという。理由は単純で、「重たいから」だそうだ。

動きの中で負荷をかけながら行う練功法は、他派にも多くみられ、同派でも重要視されている。

 

「槍の身法が見についていれば棍も棒(齊眉棍)も応用で扱える。大刀も槍と刀の特性が分かっていればすぐに扱えるようになる。だが大刀は重たいため、「身法で動かす」、「体幹で動かす」などとは言っても先天的な生の力(筋力)が不可欠。筋力を強化するために大刀を利用する」

というのが王先生の考え方だ。

 

しかし他の兵器の練習を通して身法がしっかり形作られていないと重さを支えるために余計な力が入りやすく、変な癖もつきやすいため、自分で身体の不具合に気が付けるようになってから教える。

 

武当剣(飛龍剣)に比べて難易度は高くないので、先ずは重さに振り回されないように練習を重ねようと思う。

 

 

蛇足:関羽と青龍偃月刀

春秋大刀は関公刀とか大関刀とも言われている。関公は三国志で有名な関羽のことを指し、四大奇書の一つ、「三国志通俗演義(通称「三国演義」、日本では「三国志演義」)」の中では関羽が得意とした武器として青龍偃月刀の名前で登場する。

現在では中国国内をはじめ、世界各国の華人・華僑に商売の神様として崇められ、各地の関帝廟や個人が保有する関羽像のほとんどがこの偃月刀を手にしたものだ。

しかし現代では、関羽の偃月刀が、史書である三国志とは別に、元末明初の小説家、羅貫中(1330~1400頃)の作品である「三国演義」の中で脚色されたものにすぎず、実際に扱っていた武器は違うという研究が進められている。

偃月刀が確認出来るのは北宋からだ。朝廷の臣下であった曾公亮と丁度が宋四代皇帝仁宗(1010~1063)に命じられて5年の月日を経て編纂されたといわれる軍事書、「武経総要」の中に「掩月刀」の名前で登場したのが初出とみられる。

 

「武経総要」の中で「刀」の項目に記された8つの刀。右から4つ目が掩月刀

 

 

「偃」の現代中国語における発音はyan3で、「偃月」は横に寝そべったような月、弦月の意。

「掩」も同じくyan3と読み、遮るという意味がある。「浮雲掩月」のように、雲によって遮られた月という意味で用いられ、比喩的に先行きが見えず不安な様子を表したりする。

いずれも表現されているのは「半月」であることから、刃の形状から名付けられたと考えられる。

 

 

「三国演義」が元代末から明代初期の洪武年間(1368~1398)の著作であることを考えると、偃月刀が三国時代に使われていた兵器について事前調査のなされないまま書かれたと考えれば矛盾しない。

また、西晋の史学者である陳寿が著した史書「三国志」の第三十六巻(蜀書の第六巻)「関張馬黄趙伝(関羽(また子の関興)・張飛・馬超・黄忠・趙雲について書かれている)」の関羽伝には、関羽がどのような武器を使用していたかの明確な記載は見られない。

同巻において、袁紹が顔良を大将軍として劉延を白馬において攻撃したので、曹操が張遼と関羽を先方としてこれを迎え撃ったくだりでは、

「紹遣大將(軍)顔良攻東軍太守劉延於白馬,曹公使張遼及羽為先鋒撃之。羽望見良麾蓋,策馬刺良於萬眾之中,斬其首還,紹諸将莫能当者,遂解白馬圍。」

とあり、顔良と接触する場面においては「刺」という言葉を使っている。関羽が直線的に顔良を突き刺し、それが致命的となって顔良が落馬したのちにこれを討ち取ったとみられる。

 

春秋大刀の重量、扱い方という観点からみて、大刀を用いているのに「斬zhan3」あるいは「砍kan3」という言葉が相手を攻撃する際に用いられないのは不自然であり、実際に関羽が使っていたのは矛か矟、或いは剣状の兵器である可能性が高い。

 

近年ネット上で関羽の墓とされる場所から2000年以上前の偃月刀が見つかったなどというニュースが報道されたことがあったが、上記の理由から考証を経ずに報道されたフェイクだとの見方が強まっている。

 

          

       端午節だからか、帰りは全体的に10分前後遅延していた。