起式、孕式、収式

前回の練習では初めて王先生の打つ自然派の武当太極拳(36式)の変化を拝見した。

香港で出版された先生の著書に載っている同じ名称のそれとは似ても似つかない形だった。

「定、活、変」における活、変の段階で、太極拳と呼ぶのかどうかも判断できないほど変化していた。

絶えず移り変わり、常に過途式(動いている途中)で一つの姿勢になって止まることがない。眼に見える速さも五行(形意拳のことを自然派では五行と言う)、八卦(掌)が組み込まれているので急変するため、初見ではだれも太極拳だとは思わないだろう。

鋭く激しい抖勁も実に見事で、打ち終わったあとの途切れも全く見れらない。

かなりの運動量でありながら息も上がらず、うっすらと汗をかく程度。

 

先生が度々動作の説明で口にする自然派の歌訣、「四攻」に曰く、
一、動如霊蛇現身;軽霊敏捷。
二、靜如神亀臥海;穩如磐石。
三、起如仙鶴展翅;真上九霄。
四、落如漫天飛雪。乾坤寧靜。

 

動く時は聖なる蛇が現れる如く、霊活で俊敏に。

静かなる時は神亀が海の底にうずくまるが如く、巨大な石のように揺ぎ無く。

起き上がる時は仙鶴が翼を広げる如く、九霄(空の最も高いところ、極限)まで飛翔するように。

落ちる(身体を下に沈める)時は満天の空に雪が飛び舞い散るが如く。

 

歌訣が示す通り、人というより何か別の動物が動いているような風格だった。

 

「36式の変化ですか?」と先生に問うと、「何式もない。これは総合拳だ」と言われた。

 

「もともと武当派には起式、孕式、収式しかない。何式と数字をつける必要はない。始めたい時に開始して、終わりたいときに終了する。それだけだ。途中の動きをなぜ孕式というか。孕は運でもある(両方発音はyun2で同音)ので運動、運用するという意味もあるが、文字通り、技が次々と宿り、産まれてくるという意味があるのだ。套路は固定化されたものであってはならない。」

 

 

無為而無不為

「小学校を卒業する子供が2人いるとする。1人はより理解を深めるために再度6年学びなおして100点をとろうとする。もう1人は60~70点程度であるものの、そのまま中学校に進む。1人が6年学びなおしている間に、もう1人は高校課程までを修了している。

他の教科は不得意だが、数学だけが特化している、などの例でもいい。これは武学にも言えることだ。ある者は基礎にこだわり何年も練習の大半を基礎にあてる。ある者は、基礎がある程度身についていたら次に進む。お前はどちらがいい?」

 

「物事には陰と陽があり、どちらが絶対とは決めつけられないが、多くの学習者は前者だ。人を倒す事が目的なら、まどろっこしい技術など必要ないだろう。若い時は特にそうだ。しかし我々は自然無為でなければならない」

 

名師、高手と呼ばれる者のほとんどが苦しい修練を重ねた功夫の元に成立しているが、多くは時代や環境による必要性から技撃に偏っていた。

 

武当三豊自然派は、張三豊の弟子とされる明代の邱玄靖・張玄青を始祖として、現代までに約700年ほどの歴史がある。今は二十五~二十七代「本」、「大」、「祥」三字輩の世代だが、「三性」、即ち「養生(健康)」、「攻防(護身)」、「芸術(機能美)」の3つの要素に関しては門派が成立してまもないころから現在に至るまで、時代が移り変わっても変わることなく重要視されてきた教えの一つだ。

※ここの三性は道教用語の「元精」、「元気」、「元神」のことではない。

 

仏教には、「中道(中観)、或いは無我」、儒教では「中庸」、そして、道教においては「無為」という考え方がある。

 

「無為」は、道徳経の三十七章の冒頭に「道常無為而無不為」、と出てくる。

無為と自然は同義語として用いられ、「順其自然(自然であること)」で「不妄為(求めないこと)」を指す。

こだわらないこと、或いは武術においては陰陽どちらにも偏らず、バランスの良い状態と考えてもらえばいい。

 

道士は求道のための時間(寿命)が長ければ長いほど道(dao4)を求める機会が増えるという考えから、不老長寿を求め各種の道功が発展してきた。結果、健康的な要素、護身的な要素、芸術的な要素が枝分かれしていった。

 

三性いずれかに偏ってはいけない。バランスよく練習することで数多くの変化(三生万物)は再びひとつにまとまっていく(万物帰宗)。

 

※普段の会話の中で「順其自然」は消極的な意味として用い、誤解されることが多い。上手くいかないことがあった時、不安なことがあった時、「成り行きに任せる」という意味で用いるためだ。

本当の「順其自然」は、その都度、今出来る限りの努力を尽くした後(あくまで無理をせず)、結果をまつ状態、即ち「尽人事以聴天命(万事を尽くして天命を待つ)」に近いといえる。