北宋の張三峰と明の張三豊

 張松溪に内家拳が伝わるまで、宋朝の張三峰と張松溪の間には300年あまりの隔たりがある。黄宗は儒学者としてだけでなく、浙東(浙江省の東側)における史学の権威でもあったので、墓石の記載に書き間違いなどの不備があるとは考えにくい。黄が記した北宋の張三峰は、最後の1文字を「峰(feng1)」としている。また、丹派伝人(同時に三豊自然派伝人)である宋唯一が著した「武当剣譜」においても「峰」の字を使っている。これは丹派の系譜が始祖を張松溪としているためだ。

 

「明史・方伎伝」の中では武当山道士である張三豊の名前が伝わっている。ここに記されている最後の一文字は「豊(feng1)」だ。名は全一、または君宝といい、道号は「邋遢道士」。邋遢(la1 ta1)は終南山の隠仙派の別名としても使用されているが、中国語では身なり、衣服、部屋の中などが「だらしない」とか「汚い」といった意味で使われている。

その名の通り、記載ではボロを身にまとっていたとされ、「張邋遢」とも呼ばれた。明の張三豊に関しては武術が出来たかどうかの具体的な記載は無い。後に清代の道士、李西月(1806~1856)がまとめた「張三豊全集(三豊全書とも。隠仙派では張が同派から出たとされており、同書にもその系譜や教義などが記されている。一部を除いて同派の道士達が明清に著した文面をまとめた資料とされる。)」にまとめられた「玄機直講」、「打坐歌」「玄要篇」、「無根樹」などは張本人の著作であるとみられ、現代においては明の張三豊こそが太極拳の始祖とされ崇拝対象となっている。

 

2人とも文献上は存在しており、文字の上では「峰」と「豊」は同音だ。現在では実在したかどうか、太極拳の始祖なのか、内家拳の始祖とするのか、様々な意見や論文が発表され、中には同一人物として扱っているものも多々見受けられる。数少ない文献資料に頼らざるを得ず、考証が難しいようだ。

張三「峰」を祖とする張松溪は宋末から明初の人物で、張三「豊」と同じ時代を生きていたようだが、系譜では松溪が孫十三の弟子となっているため、明朝の張三豊が松溪の師ということはなさそうだ。

 

 

 

脱線するが、文学家で台湾政治大学、台湾輔仁大学、中国文化大学の教授などを歴任した南懷瑾(1918~2012)によれば、現代の普通語(中国語)と中、近世の中国語には発音上で大きな区別があるという。八大方言と呼ばれる中国の方言のうち、広東語は唐代の国語、閩南語は宋代の国語であったとしている。「発音が同じ」というのはあくまで現代の中国語から見れば、のことなので、張三峰と張三豊は別人であると考えた方がよいように思える。また、前回記した通り、今でこそ松溪派の中で太極拳を練習している伝人もいるものの、張松溪が学んだものは宋代の道士、張三峰から伝わる内家拳術であり、「太極拳」ではないというのが通説だ。

 

 

寧波四明内家拳

王征南(1617~1669)は四明内家拳を大成させた者であり、墓碑、「王征南墓誌銘」の文章を編集した黄宗羲とは親友であった。黄宗羲は同墓碑の中で、北宋徽宗の時代(1100~1126)の道士、張三峰(※「豊」ではない)が内家拳を創始したと記している。その後内家拳は陝西、温州、そして四明の張松溪へと伝わった。

 「四明」とは山の名前で、浙江省寧波市の西南、天台山から沿岸部の奉化まで連綿と連なる山脈のことを指し、道教の書では第九洞天(洞天は神仙となった者たちが住む山を指す)、または丹山赤水洞天の名前で呼ばれている。二百八十二の峰々の中で、上は長方形に伸びる岩石があり、四方が窓のようになっている。そこを太陽や月、星の光が通る様から四明山と命名されたという。

 

 

四川松溪内家拳

清代の末期、張松溪の子孫で数えて代目の孫となる張午亭が順慶(現在の四川省南充市、重慶の北、成都の東)へと護送されてきて、四川峨眉八門(僧、岳、杜、、洪、智、慧、化)の武功を習得した陳暁東と出会った午亭は家伝の松溪内家拳を陳に伝えたことから松溪派が南充に伝わり、四川松溪内家拳を名乗るようになった

※文献では張松溪は結婚せず、子もいなかったことになっており矛盾がある。多少強引だが、親戚伝人ということではないかと推測される。

 

現在同系統には游明生、譚論などの伝人がおり、うち游明生が伝えた松溪派が、現在武当山で練習されている松溪派である。

寧波四明内家拳は四川松溪内家拳とは異なる始祖はどちらも張松溪としているが、二つの異なる拳術が形成された。また、四川南充松溪内家拳と、同じ伝承である南充松溪内家拳游明生の間においても功法が異なっている。武当南宗松溪派における門はである。

 

 

武当山に松溪派を伝えた四川の伝人 游明生

游明生(1952年-2008年)は四川松溪派の伝人で、武当拳法研究会理事、特約研究員、四川省南充市武術協会秘書長兼果州内家武術院院長。四川南充人で、幼いころから武術を好み、南充の興貴、李良皓、陳季康袁志明などの松溪内家拳伝人から学ぶ。

松溪短打跌法擒摔六合、白虹、蛇形剣、龍剣、短兵器などを修め、特に夜行刀を得意とし「武林夜侠」の外号で呼ばれた。1998年中国武当拳法研究会より「武当武術功臣」の称号を得、2000年には「武当百杰」の称号を得た主に武当剣術を積極的に伝え、アメリカ、カナダ、フランス、ドイツ、韓国、日本(彼に習った方がいるらしい)などからの功夫を求めて外国人が訪れた精力的に活動していたが、08年、武当山で演武を行っている最中に脳卒中で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

  

 

武当山に伝わる松溪派の現状 王興清

王興清は松溪派の第十三代伝人で、 道号を信玄子。武当山における龍門派第二十五代、純陽派第二十三代でもある。武当山の麓にある小さな山村出身で、徐本善の弟子だった賈開先から吐納、導引、太極拳、八卦掌、形意拳(八卦、形意はおそらく剣秋伝)、玄武拳、武当短打、短棍、純陽拳などを学んだ。

1984年に賈の推薦で紫宵宮の朱誠德、郭高一の指導を受けた。

1986年、他派の長所を取り入れたいと考えていた王は、崇山少林寺で1年間外家拳を学び、その後各地を名師を求めて渡り歩くことになる。

十数年に渡る修練の末、1999年に武当山へ帰山し、武当山伝真武術院を開設。その後武当五形養身功を伝えていた刘德義(道号:誠義)、四川から松溪派を教えにきていた游明生と相次いで出会い、拝師して各功法を継承する。武術院を開く間に、陝西省から趙堡架太極拳を教えに来ていた劉瑞からも教えを受ける。

2002年には武当武術文化研究伝播交流中心が成立し、失伝の危機に瀕している武当派支流の保存収集整理に当たった。その中でも、失われて数百年経つと言われる武当七星剣陣を整理したことで注目を集めた。

武術院は引き続き開かれており、武当山における松溪派の伝承者として国内外の求道者に伝え広めている。