張松

張松は明代鄞県(浙江省寧波に属する)の人で、武当松派(松内家拳)の創始者である。孫十三に指示し、その技は元代の張三「峰」から伝わったものと称した。嘉靖年間(明の第十二代皇帝世宗在位中の元号。1522~1566)にはすでに同伝承が寧波府一帯で広く知られていた。

 

中国の武侠小説に興味のある人は金庸の小説「倚天屠龍記」中に登場する「武当七俠」と呼ばれる張三豊の7大弟子のうち4番目の人物として聞いたことがあるかもしれない。実在する張に関する記述は、明朝万歴間の首輔(明の首席大学士)で、詩人だった沈一貫(1531-1615)が残した「鳴文集」の中の「者張松溪」に出現している。同文献には張の師が孫十三という者であったことが書かれている。

その後、儒学の大家であった黄宗羲(1610~1695)が張から数えて四代目に当たる王征南の墓石に記した「王征南墓誌銘」に、詳細な系譜を記された。

また清雍正十三年(1735年)に寧波で太守をしていた曹仁が編纂した「寧波府志」の中の「張松溪伝」にも沈一貫の記述内容を参考にしたと思われるくだりがある

 

 張は嘉靖末の人物で、衣服を作る縫製の仕事をしていた。内家拳を成立させた宋代、張三峰の伝承者である孫十三に弟子入りして武術を学んだ。荒々しい性格だったが、寡黙で注意深く、儒学者のようであったとされる。終生妻を娶らず、子は無かった。母をよく敬い孝行した。

 

倭寇が浙江省東の沿岸沿いで悪事を働いていた時、寧波籍の名将、万表が少林寺の僧兵を募集して倭寇に抵抗した。少林僧は同地の張松溪の武名を聞き及んでいたので、70人からなる僧兵が張へ面会を求めてやってきた。

張は面会を避け会おうとしなかった。しかし張も少林功夫を見てみたいと思っていたので、少林僧が仮住まいをしていた酒楼(現代中国における伝統的なレストラン、酒家)へそっと様子を伺いに行った。

僧兵が練習しているのを見て知らず知らずのうちに声を出して笑ってしまい、1人の僧兵に気づかれてしまった。声を聴いた僧兵は張に打ちかかったが、張がわずかに半身となって手を挙げると(触れたと思われる)弾丸のように窓まで飛ばされ、そのまま下に落ちて絶命した。これを見て僧兵は張の実力を認めたという。

 

外家拳と内家拳

曹秉仁が著した「寧波府志」の「張松溪伝」には、天下の拳術は外家拳と内家拳に分けられ、外家は少林を代表とし、内家は張三峰が伝えた張松溪の拳を正統とする、と書かれている。

年代的には「寧波府志」以前に書かれた黄宗羲の「王征南墓志銘」にも同様の記載があり、これが現代まで続く外家拳、内家拳といった区分のはじまりであると思われ、松溪派が張三峰を始まりとする内家拳の祖であると言えるだろう。

ただ、張松溪に関する記載には「太極拳」に関するものは一切無く、王宗岳が伝え、後に陳・趙堡、楊、武、呉、孫などへ広がった北派太極拳に対して、南派太極拳を名乗ったのは、後世のことであると思われる。

※前回書いた隠仙派はもともと張三豊が出た宗派と言われているため、紛らわしいがこの北派の分類とは異なる。

 

張は現在も浙江、四川、遼寧などに伝わる派の始祖として崇拝されている。

 

「王征南墓誌銘」に記された系譜

1三張峰から張松溪までの系譜

張三峰→王宗→陳州同→孫十三→張松溪

 

2張松溪から続く系譜

張松溪→葉継美(近泉)→昆山雲泉、単思南、陳貞石孫継

 

昆山李天目徐岱宗

雲泉→呉紹

単思南→王征南

陳貞石→董興、夏枝溪

孫継槎→柴玄明、姚石門、僧耳、僧尾

 

李天目→余波仲、呉七郎、陳茂弘

王征南→黄百家

 

※趙堡架太極拳(北派太極拳)の祖とされている王宗岳と、張三峰の弟子である王宗を同一人物とする文章が散見されているが、年代からしても考えにくい。また、王宗岳の師は「雲游道人」とされているが、雲游とは、道士が修行をしながら諸国を漫遊することなので、具体的な名前が残っていないのと同じだ。こちらの伝承は、

張三豊→雲道人→王宗岳→蒋発→邢喜懷→張楚臣→陳敬伯→張宗禹→張彥→陳清萍…

となっている。王宗岳は研究者によって明の人とも清の人とも言われているが、張三「豊」の記載が明の時代であることを考えれば、王も明人でなければ系譜に合わない。

 

※2鳳池→甘淡然→李瑞東で繋がった南北両派

単思南の系統は王征南のであるに伝わった後、息子の甘淡然から李瑞東へと伝わった。李は楊露蝉の大弟子だった王蘭亭から楊家の太極拳を代理教授されており、ここに南北両派が繋がることとなった。両派を学んだ李は自身の派を河南陳家溝悟修派などと称したことがあったが、李と陳家に直接的な関わり合いはない。

 

からの伝承は大きく金蟾派甘淡然派、太極派、そして寧波四明松溪派と4つに分けられるが、金蟾派は伝人が非常に少ない。同派は松溪派と太極拳両方を伝承しているが、甘淡然のものとは全く関係がない。武術と合わせて呪詛のような宗教がかったものをを同時に学習するらしく、政治的、歴史的な事情から現在も公には公開されず伝え続けられているという。