紫霞真人 高虎臣

武当山から北に伝わった道教、武術を隠仙派と呼ぶ。その中の一つが終南山邋遢派だ。この派は南太極と並んで北太極と呼ばれており、またの名を終南山剣仙派と言う。同派で広く名をはせたのは紫霞真人の道号を持つ高虎臣だ。

 

高虎臣(1816~1952)は、煉丹術、医学、易学に精通し、武当太極丹剣に優れ、136歳まで生きたと言われている。高は1821年、5歳の時に終南山で無名仙人の道号を持つ道士が諸国漫遊を終えて山へ帰る途中に立ち寄った河北省高陽県の高家荘(高姓の集落)で引き取られて入山。30年に渡って道家の各種功法や医術、薬術を伝授された。

 

 高は功成った後に各地の道家の修行地となっている山を数十年と渡り歩き、その都度山に籠って修練を重ね、時には病気で苦しんでいる人を救った。

 青城山、峨眉山、崑崙山、武当山、医巫閭山、千山、嶗山などに滞在し、範囲は中国全土に及んだ。青城山では高道(仏教でいう高僧)より邋遢派の太極拳(原始太極拳360式)を学んだ。

 

慈禧(西大后)の治世に重臣だったに見初められ、護衛兼医者として傍に仕えたことからその名が知られるようになる

この最初の北京滞在中に李堯臣(会友標局の標師。三皇炮錘の使い手で、標局が閉じた後は茶館と武館を合わせた武術茶社を開いて繁盛した。抗日戦争時は佟鱗閣率いる二十九路軍の大刀隊に無極刀を教えた)を弟子にとり、太極拳、八卦掌を伝えた。

武功だけでなく、養生医術にも優れていたは、紫禁城の太医院とも往来があり、医術の技術交流を行っていた。1900年に八カ国連合軍が北京に入ると故郷の高陽に戻ったが、彼を知る者は既にいなかったので、東北へと向かうことにした。

 

1901年、高は医巫閭山に入り、道友の劉妙元(武当三豊自然派第二十二代掌門人)と10年に渡り交流し、互いに切磋琢磨した。この間高は太極拳を伝え、劉妙元も閭山に伝わる薬の調合方法を一部高に伝えた。

その後、同山の三清観(お堂)で見習いをしていた14歳の少年、張道成を自身の後継者として弟子にとり、以降は張を伴って旅をすることになる。下山後も閭山から郭歧奉、張香武柳宗元といった道士達が高に教えを求めて次の滞在先であった瀋陽へ訪れたので、高は彼らに太極剣術、太極単槍術、馬上の功夫、太極殺(実戦用法)、太極丹、太極養生術などを授けた。

 

1911年初旬、は東北軍の許蘭洲将軍の紹介で、霍殿閣と青(慶)雲と知遇を得る。お互いに功夫を認め合い、意気投合したこともあり、高は彼の太極拳と功法を二人に教えた。氏は精華(最も重要な部分)を取り入れ八極の武功を更なる高みへと引き上げた。25年以降は李景林が直隷天津に異動となったため、高齢だった高もそれに従って天津へと居を移した。(この頃は許蘭洲らにその功夫を見初められて行動をともにしていたようである)当時静圓(乾圓)に住んでいたラストエンペラー溥儀と知遇を得、二人の将軍を紹介されたという。

 

溥儀は後に張圓へ移り、日本領事館から派遣された日本人ボディーガードに護衛されていたが、言葉をはじめ各方面での制限を受けていた。彼は中国の武術家を教師兼護衛として傍に置きたいと思っていたので、高は許蘭州と李景林の八極拳における師兄に当たる霍殿閣、ならびに青(慶)雲を溥儀に紹介した。まもなく二人は日本の武術家二人を打ち倒し、溥儀の護衛兼武術教師として勤めることになり、霍青雲はこの時、慶雲と改名した。(霍氏に太極拳を教えたのはこの期間であるという説もある) 

 

1931年以降、霍殿閣と慶雲は溥儀に従い長春へ移ったので、高が伝えた太極拳は八極拳とともに長春を中心に東北で伝えられることになった。長春では同太極拳のことを終南山108式太極拳とか、高虎臣から伝わったので高太極とも呼ばれている。

※同太極拳のほか、長春の李氏八極門で練習されている易筋経や、一部の伝人が教えている太極剣、八卦剣、五行剣、月霞剣、龍形八卦掌、太極雷拳、火筷子、弓板球功法なども高が伝えたとされているが、詳細は分からない。

 

一方で、許蘭洲と李景林は28年に軍を退き、武術を伝え広めることを生涯の事業とした。

玉祥の配下だった張之江を館長とした南京中央国術館が創設されると、李景林は副館長に任命された。この期間に、道家の原始太極拳と終南山太極拳が国術館の学生に教授された。数年後、許蘭洲は天津に成立した河北省国術館で館長となり、李景林も山東省に成立した済南山東国術館の館長に就任した。このことから天津、済南においても武当太極拳が広まることとなった。

 

高虎臣の足取りだが、37年に許蘭洲が北京中南海の東側に定住したので、これに高もしたがって北京へ移り住んだ。

(李景林は31年に没しており、天津についていったのか、済南についていったのかは確認できない)

よく崇文門(文明門。俗に哈德門とも)の外にあった白雲観の下院である火神廟(敕建火德真君廟)で過ごし、西山や白雲観などを往来して技を伝えた。弟子には孫徳方、奇雲、劉志偉、安声遠などの道士がいた。このころは道家仙派、または剣仙派と名乗った。

 

 

高の継承者、張道成

高虎臣が継承者として育てた張道成(1887~1987)は、どの時点まで行動を共にしていたのかは不明だが、弟子である張熙耕の証言によると、張は1937年から吉林省の長白山あたりに隠棲し、49年に新中国が建国された後瀋陽に定住したという。このことから、高が北京に移り住む際に師弟は離れたものと思われる。

張はその後師である高に倣い医巫閭山、千山、嶗山などに滞在しながら旅をしたが、57年に吉林へ友を訪ねたときに、縁あって解放軍に勤務していた張朝清と出逢う。張朝清は軍人であると同時に、家伝の武術、医術を継承していたので二人は気が合い、交流を重ねるうちに義理の兄弟の契りをかわした。その後、張は64年に瀋陽に住んでいた張朝清から次男の張熙耕を預けられ、武功、薬功、煉丹術のすべてを熙耕に伝えた。

 

現代の伝人、張熙耕

              

張熙耕は息災であり、終南山の太極拳や薬功の伝承だけでなく、武当山全真龍門派第二十六代伝人の唐崇亮に拝して三豊太極拳を、民間では武式太極拳第四代伝人の呉海清に拝して学んだ。龍門派では張高元、道号を薬師道人とされ、現在は西安市長安区にある金仙観を拠点として、武術だけでなく薬功を伝え、中医師として病に苦しむ人々を助け続けている。

 

なお、高虎臣→張道成→張熙耕と伝承された代表的なものは以下の通り

 

老子太極拳、太極丹功、煉丹法、制薬法

 

単步三十七式、太極練步、二十四式神補、四十八技擊術、太極拳十大球功、太極樁、太極板功、太極弓法、太極劈刀、太極劈劍、太極単槍、太極対棍、太極搏擊術、文武和血功、易筋経、武功八段錦、太極綿掌功

 

また、北京の白雲観で伝えられたものは、高虎臣→安声遠→駱巨方という伝承があり、こちらは原始太極拳360式を簡略化した212式を新架として伝えている。映像も残っており、ネットで駱巨方の名前を検索すると出てくる。ただ、原始太極拳については研究者が検証し、呉式太極拳からの発展だという者もおり、高虎臣のものであるのかどうかまだ論争中のようである。駱巨方の映像からはかなりの功力を感じさせる。