以前八卦掌の源流が董海川にないという説で、宋唯一に触れて書いた董の師についてだが、張野鶴→宋唯一→李景林→楊奎山の系統を伝える呉志泉氏が師である楊奎山から聞いた話と、黄万祥の師である万良が伝えたという話を元に(楊、万は師兄弟で、ともに李景林、孫禄堂という共通の師に学んだ)、実際に董が習ったとされる九華山に調査に赴いた人が書いた文章があったので、概要をまとめて翻訳してみた。


このような説もあるということで参考にしてもらえればと思う。

 
董海川の八卦掌の原型は九華山の八卦拳である。同派は碧月侠、碧灯侠、碧塵侠の3人の道門師兄弟によって伝えられた。彼らは九華山の太逐洞で修練をつみ、のちに諸国漫遊の旅に出た。その後3人はこの拳を変化(改編)させた。碧月侠は剣形八卦掌へと改編し、このことで剣法が世に伝わることとなった。碧塵侠と碧灯侠は刀形八卦掌へと改編し、八卦刀法を一路編み出した。碧月侠の弟子が宋徳厚(宋唯一)である。

董海川は幼名を董林と言い、嘉慶元年(1796年)に、河北省文安県朱家村に生まれた。幼いころから武術を好み羅漢功に優れていた。諸国を旅した董は、ある時安徽青陽の九華山を訪れた際に、雲盤長老と呼ばれていた当山の道士、碧塵侠(俗名は馬姓であることしか分かっていない)と出会う。見たところかなり高齢のようだったが鶴の羽ような白髪と童顔で若々しく、その歩法は飛ぶような足取りであった。碧塵侠の演じる穿掌と軽功に心動かされ、その場で拝師して山に籠り技を学んだ。3年後、師に連れられ、師叔であり鉄拐道人と呼ばれていた碧灯侠(俗名を郭済元)に拝し、八卦刀など兵器(武器)の教えを受けた。

後に董は故郷に戻ったのち、村と村の間で諍いが起きた際に人を殺めてしまい、京都(北京)の粛親王府で腐刑を受けて宦官となり、厨房で働くことでその罪を逃れた。厨房は狭く、空間に制限があって練習に不便だったので、刀形八卦掌を室内で練習できるよう全て円を描いて歩きながら打てるよう再編した。麺を打ち延ばすのし棒は八卦掌特有の兵器、七星杆へと姿を変えた。八卦刀は変えることなくそのままを伝えた。これが董が伝えた全伝で、ほかのものは皆後代によって新たに造られたものである。
※董が伝えたとされる兵器は他にもある。
 
 董は功なって下山するとき、二人の師は董に教えたものが刀形八卦掌であり、ほかに師伯にあたる碧月侠(俗名を馬雲程、道名を張野鶴)が修め教えている剣形八卦掌があることを告げ、以後剣形八卦掌を見ることがあれば師伯の門下に入るようにと告げた。下山してからの数十年、董が剣形八卦に出会うことはなかったが、80歳も過ぎた晩年に、当時わずか18歳であった宋唯一の訪問を受け、剣形八卦掌を見ることができたのだった。武当丹派第九代伝人である宋唯一の「武当剣譜」、「剣形八卦掌譜」、「道家修道録」などの書から、刀形八卦と剣形八卦が本来同源であったものだと推測できる。
 
九華山は以前陵陽山、雲冠山、霊農山と呼ばれていた。詩人である李白が「妙有分二気、霊山開九華」という歌を詠んだことから九華山と名付けられた。当山は中国仏教四大名山の一つであり、俗に釈道不相往来(仏教と道教は互いに往来がない)と言われているが、実際に印光法師、悟超法師、慧霖法師などの和尚を訪ねた記録では、皆が口を揃えて仏教と道教が同時に存在していた山だと証言したという。碧月侠、碧灯侠、碧塵侠の3人は功成った後に諸国を漫遊したが、前後して九華山に戻り、かつて修行をした太逐洞を仰ぎ見る位置にあった燕子洞で余生を過ごし、後に羽化した。彼らの身体は燕子洞で金箔を貼り付けて(貼金肉身)、長期に渡って保存されていた。
 
当山で歴史上このように保存されていたとされる肉体は以下の通り

仏教:徳風和尚 聖傳和尚 常恩和尚 法龍和尚 定慧和尚 華德和尚 隆德禅師 慧寬法師 本豐長老  釋海慶  宗旭  釋果悟  彌光老和尚  地藏(金喬覺)  無瑕海玉  大興和尚  慈明法師  明淨法師  普文和尚  仁義比丘尼(女)

道教:碧月俠 碧燈俠 碧塵俠 玄虛道人 玄智道人  松風道人  松竹道人


その中で60年代まで残っていたのは僧籍が5体、道籍が3体のみだった。その道籍3体こそが碧氏三侠であった。その後文革初期に僧籍の肉身を1体残して他の7体が焼かれてしまったという。3人の道士の肉体も近くの小学校教師だった楊一安(故人)が紅衛兵を連れて燕子洞に来て同時に焼かれた。呉氏は碧氏三侠が確かに実在し、師の話を証明するとともに、彼らが九華山で羽化したことを発見した。このことから「董海川によって八卦掌が創始されたわけではなく、元々存在していたということが証明された」、としている。
 
碧氏三侠の師とされているのが陳蔭昌なる人物で、武当丹派の系譜に記されている。武当丹派は元々武当山に存在した本流の一つで、

張松溪→趙太斌→王九成→顏昔聖→呂十娘→李大年→陳蔭昌→張野鶴(碧月侠)→宋唯一→李景林…

と、続いている。この系譜に従うのなら、八卦掌が丹派によって代々伝承されてきたものということになる。この辺りは皆宋唯一の「武当剣譜」に書かれたものを引用している。

宋は同譜の中で八卦掌について多くを記していないが、またの名を飛龍剣と書いた宋の剣術には八卦の身法、歩法が多分に含まれていることは確かだ。
 
宋唯一の師とされる野鶴道人は、本名が馬雲程、道号を還丹子、またの名を碧月侠と、様々な名前を有している。
三豊自然派で伝承されている剣形八卦掌が武当丹派のものと同一であるかどうかは、確たる資料が遺されているわけではないので、今伝えられている「技」から見ていくしかないと感じる。
 

余談だが、宋唯一が丹派の第九代伝人であるのに三豊自然派の系譜に記されているのは、宋が暮らしていた北鎮の医巫閭山が三豊自然派を伝えており、張野鶴が同派の道士にも伝えたから。または現代の武当山においても、一部の技術のみ伝えられている太乙門や、八仙門などのように大きくなる過程で吸収されたか、あるいは丹派→三豊自然派であったのではないか、とも考えられる。北に伝わった武当派は隐仙派と呼ばれ、代表的なものが終南山の邋遢派(剣仙派)だった。同派の道士達の多くは終南山で修練を続けたが、そこから崑崙山、長白山、閭山、千山、嶗山などへと居を移す道士が現れ、各地で独自に発展していくことになる。閭山の三豊自然派(丹派)もこの隠仙派の一つであったのだ。

長々と書いたが、結局のところ技術的な比較がほとんど不可能な今、碧氏三侠と董海川の関係性がどうであったのかは探る術がないように思える。それよりも、今生きる技を学び、伝え広めることに力を注ぎたいと思う。