3.武承烈先生を訪ねて、李能然、車毅齋、李長有諸先輩方の話を聞く

 

武先生は北平にある前門大町の甘井兒胡同で永泉糧食店という米や穀物を扱う店を開いていた。私が武先生を訪ねたとき、店の従業員が私の来歴と武先生を訪ねて来た理由を問うてきた。当時は奇妙に思えたが、後でこのことを唐鳳亭先生に尋ねたところ、以前何人かが武先生を訪ねたことがあり、彼は礼をもって迎えたが、そのうちの1人がわざと拳術の用法をことを質問し、準備の出来ていない彼に突然襲い掛かったのでもめごとになったことがあったそうだ。そのため、普段は来歴不明の者には誰であろうと会わないということだった。

 

私は従業員に、以前成都にいたとき、いつも喬鑒西先生のところで教えを受けており、今回は唐鳳亭先生に訪問するように言われたことを教えた。従業員が武先生に報告すると、奥から出てきて対応してくださった。彼は背が低く小さく痩せていた。青い大褂を着ていて、まったくもって商売人のようであった。もらった名刺には「武承烈,丕清;山西,太谷県」と書かれていて、その由来を教えてくれた。

武先生は、喬先生が成都でどうしているのかと質問されたので、10数分ほど話をした。武先生と喬先生は兄弟弟子の間柄で、2人とも李長有先生の弟子だ。彼の印象は、純朴、誠実、真心をもって対応されていると感じた。11時頃まで話をしたあと失礼した。

 

武先生は非常に腰の低い方で、その日の午後には宿舎になっている励志社へ訪問してくださった。

私達は再び形意拳の話に花が咲いた。山西省は形意拳の発祥の地であるので、私は彼に山西形意拳の先輩方の話しを聞いた。

武先生は李能然、車毅齋、李長有諸先輩方の話をしてくださった。

「李飛羽先生は、字を能然、人は老能先生と呼んだ、李洛能ではない。彼は清朝時代直隷(直属地)だった深州の人で、山西省祺県で菜園をやって生活していた。大谷の商人ではなかった。これは山西武術界の先輩方なら皆知っていることだ。芸成った後、同地の富豪、孟福元の招聘で武術を教え、護院(家を護るボディーガード)の仕事についた。車毅齋先生は李先生が山西にいたときに教えた最も武芸に優れた弟子で、人は「車二師父」と呼んだ。二番目の弟子が宋約齋(宋世栄)先生で、山西ではその名声は車先生に次いで有名だった。車先生の大弟子が李長有先生だ。山西太谷の人で、字は複禎、人は先生を長有師父と呼んだ。強大な功夫を有し、立会いではよく人を傷つけたので、狂猛な手法でその名は方々に知れ渡っていた。李老能先生は毎年深州の家に帰ってきて年越しをした。だから彼の弟子は山西にも河北にもいる。」

 

武先生の述べられたことは、私が成都の喬鑒西先生に聞いたことと同じだった。私は彼に劈拳を打って見せていただくようお願いした。先生の姿勢、動作は喬鑒西先生のものと似ていた。武先生とは1時過ぎまで話をし、その後で杜級三先生が来訪された。杜先生は山西形意拳の先輩、布学寛先生の弟子で、布先生は車先生の弟子であった。布先生は車先生の弟子ではあったが、師兄である李長有先生が車先生に代わって芸を伝えた者であった。杜先生は当時北平中央銀行へ勤められていた。以前成都にいたとき喬鑒西先生のご自宅で何度かお会いし、面識があったので、今回は武先生に私が北平に来ている知らせを受け来訪してくださったそうだ。