06年9月、日本に戻ってから1年弱で広州に飛んだ。02(2000年?01年かも)の季刊「武術」に掲載されていた武術家、傅振嵩の写真が頭から離れず、是非学んでみたいと思っていたのと、単純に北京とは別のところに行きたかったためだ。

 

仕事や住まいが決まって国慶節が終る頃、最初に香港で傅振嵩伝八卦掌を紹介しているサイトにあった、傅振嵩の関門弟子、翟榮基氏の訃報と、葬儀に関連した連絡先の電話番号にコンタクトをとった。

 

翟氏の長男、翟健松氏は何回か電話したが出てもらえず、もう1人の連絡先だった李継忠氏と連絡をとった。李氏は翟氏の弟子ではあったが30年来練習しておらず、兄弟弟子同士の関係だけは大切に維持されてきた方だった。また、翟健松氏と同級生ということもあり、翟氏とは家族ぐるみの付き合いをされていた。

李氏のご子息は自分とほぼ同い年で、ご子息と同世代の兄弟弟子もまた、翟榮基氏より武術を学んでいたという。学んでいた当時はまだ皆小・中学生で、李氏が面倒をみたこともあったそうだ。複雑だが、同世代でも翟氏より学んでいたご子息は、自分からすると三代目の師叔にあたり、李氏とご子息は歳の離れた兄弟弟子ということになる。

 

李氏の人柄は良いように思えた。

 

最初に会った時に、事前にネットで調べていた傅振嵩の孫である文龍先生を知らないか聞いた。すると李氏は「まずは私のところで学んで、暫くしたら紹介してやろう」と言った。断る理由も無かったので半年ほど李氏のところで学んだのだが、李氏は套路をいくつか覚えていただけで、数ヶ月もすると教えられなくなっていった。李氏も奥さんも良くしてくれるので、武術的に不満はあったが文龍先生に会えるのを期待しながら練習を続けた。

 

07年6月7日、自分の武術人生を決定付ける出会いがあった。自分に教えられなくなった李氏がついに文龍先生を紹介してくれたのだ。それからは文龍先生の元へ習いに行くようになり、傅家拳の基本功を通して身体や身法はみるみる変化していった。反面、李氏のところでは矛盾が生じるようになっていった。

 

李氏はその頃中医薬大学にある武術部にも足を運んでいた。中医薬大学で武術を教えていた鄭仲直氏もまた、かつて傅振嵩に学んだ第二代伝人の1人であったので、その関係で学生に時々指導(武術できない人が指導もないが…)しに訪れていたのだ。

そこで文龍先生に習って、身体の使い方が変わった自分が表演すると、「風格を変えるな」と注意された。正直ほとんど動けない李氏の動きに風格も何も無かった。後で分かったことなのだが、翟氏の弟子に限ったことではなく、もともと傅振嵩から教わった二代目のほとんどが套路と不完全な用法を伝えるのみだったので、その下の世代が套路しか出来ないのも仕方のない話だったのだ。

傅振嵩の長男で、二代目を代表する文龍先生のお父上、傅永輝公がまとめた傅家拳は核となる練功法が確立されており、全ての運動はその規格に沿って行われている。本来一門とはこうあるべきなのだが、傅振嵩が伝えたものが繁雑だったこともあり、受け継いだといえる弟子はそう多くはなかった。

 

こうしたやりとりの中で、李氏と袂を分かつことになる決定的な出来事が起こる。拝師に関する考え方だ。

 

半年間お世話になっていたという感覚はあっても、李氏の弟子になったという認識はなかった。ところが傅永輝公の弟子達が中心となり、文龍先生を会長とした武当傅家拳同学会が成立するに当たって行われた宴会と表演で、李氏の腹のうちが明らかになった。

 

来客者は師承(伝承の系譜)を記さなくてはならず、自分はいつのまにか外国からやってきた李氏の弟子にされていた。断ったが頼み込むので教えた、自分の両祖父が日中戦争に参加していなかったので教えた、などと次から次へと話が大きくなっていて、最初に文龍先生を紹介してもらおうとして連絡をとったことは無かったことになっていた。

今思えば、文龍先生を師伯(先生の兄弟子)と呼ばせるなど、元々そういうつもりがあったんだと思う。ちなみに自分は李氏を師父と呼んだことは一度もなく、李氏に拝したことも無い。

今だったら穏便になんとか方法を考えようと思うかもしれないが、当時の自分は納得ができず、散々悩んだあげく、文龍先生にこのことを打ち明けた。文龍先生は当時50代後半で、武術家としては経験もあり、まだ十分に動けてまさに円熟、という言葉がふさわしい油の乗った時期で、「来るものは拒まず、去るものは追わず」といった態度だった。

 

自分のことを受け入れてくださり、習いに来るものは拒まない。また、李氏の行動についても話を聞いて、理解を示してくださった。と、言うのも、李氏は傅永輝公の創始された広州武当拳会を翟氏がまた存命の時に難癖つけて自ら脱退しており、後に李氏の主導で翟氏より自費出版された傅振嵩伝の中で、明らかに政治的な要素が絡んでいたり(香港の伝人の個人名を持ち出し持ち上げるなど)、何の歴史的な考証も成されないまま物語のように傅振嵩を賞賛する文章を書いたりしていて相当評判が悪かったからだ。また、傅振嵩の2人目の妻を師母として写真まで掲載し、傅永輝公の母上で正妻である1人目の妻、韓昆如については一切触れないなど、傅家の不況を買った同書の編集もおこなった中心人物にほかならなかった。

 

李氏から離れた自分は人格を攻められた。李氏がどのような人間であっても、自分によくしてくれたという点においては間違いなかったとも思えたので、それもしょうがないと思った。

 

しばらくは中国内のネットでも批判文がアップされたりしたし、北京オリンピックの際に、ある雑誌の記者から中国にいる外国人という特集で受けた取材で、その内容が自分の発言とは違ったものを訂正もされずに掲載されてしまったことでいっそう批判は強まった。それを跳ね返すため、傅永輝公より続く傅家拳の習得に努め、積極的に各種のイベントや大会で表演、交流することによって文龍先生の弟子であるという認識を広めていった。こうして事態は少しずつ収まっていったのだが、この問題は自分が人に武術を教えるようになったとき、これから20年、30年後には李氏の下の代で再燃するかもしれないと思っている。今年は8月に香港で設立される国際八卦掌太極拳会の設立イベントに文龍先生と数人の兄弟弟子と共に招待されることになっていて、設立側が傅振嵩初期の弟子、孫宝剛の弟子にあたり、李氏が持ち上げた人物でもあるので、嫌味のひとつぐらいも言われるかもしれない。

 

こうして07年より文龍先生について、11年の終わりまで、5年に渡ってほぼマンツーマンで教えを受けることになった。その後、12年の初めから15年の10月まで、妻との結婚、出産などで実家に戻ることになる。

 

当時の広州は治安が結構悪くて、スリや引ったくりも多かったし、日本にいる時にはニュース翻訳のバイトで中国を覗くたびに、子供が人さらいに会っている、年間失踪数の増加が報道されていたこともあり、中国に直接帰らず、まずは台湾へ行くことを選択したのだった。

 

ブログでは武術関連のことはまとめて書いているので詳細は避けるが、とにかく台湾が夫婦に合わなくて16年の4月にさっさと広州へ戻ってきた。この選択は良かったと思っている。最初は10年来お世話になっている広州在住の日本人の方に助けていただいたりしながら、なんとか生活の基盤を立て直して、現在を迎えた。10月には深圳にて王平先生より武当三豊自然派の学習を始めた。ここからが今のブログのあたりだ。

ブログをこちらに変更したのは、PASSを忘れたからとかではなくて、中国の検閲の関係でFC2のブログが開けなくなってしまったこと、VPNを使っていけるにはいけるが、これも何時まで開けるのか分からないことから、VPN無しでも開けるアメーバに変更したのでした。