傅剣秋(本名傅長栄、剣秋は江南一帯で武術を教えていたときに名乗っていた名前)は1880年生まれ。幼い頃に学問を捨て、父と共に綿や麻の生地を販売して暮らしていた。武功を好んで練習し、1900年、20歳の時より少林拳を(燕趙拳とも言われているが、燕趙とは河北省一帯のことを指すため、河北に伝わった少林拳の支流なのかもしれない)尚匯川に10年、また1903年23歳の頃からは申万林について形意拳を並行して学んだ。※ 

                                     

 

1912年に天津で中華武士会が設立されると、傅は申万林の推薦で師叔に当たる李存義にもついて学ぶようになった。そのほか、前後して李存義に形意拳を学んでいた劉鳳春(李の師である劉奇蘭に習ったとも言われている)に八卦掌を学び、年齢が近い牛春明(最初は楊建侯について学び、後に建侯の子、楊澄甫に拝師)とは太極拳の研究にあたった。(1908年に家財を売り払って資金を作り、地元を離れて各地で武術を習ったという話もあるため、劉に八卦掌を習ったのが天津なのか北京なのかは不明である。)こうして10数年にわたって功を深めた後は、1919年より2度に渡って関東(中国における東北地方の俗称)を訪れ、主に奉天市(今の遼寧省省都の瀋陽市)で弟子をとり教えるようになった。その時ロシアの角力選手と勝負することがあり、これに勝利したことで頭角を現した。

 

21年、日本人の小佐次郎なる人物が、弟子を引き連れ4人で同市の小さな川沿いに擂台(ロープの無い円形のリングのこと)を設けて中国武術に挑むということがあった(霍元甲の話が有名だが、当時の武術家は日本人武道家を始め、外国人格闘家との試合の話が非常に多い)。

何人かの武術家が敗れ、ひどいものは障害を残すほどだったが、傅はこれを聞き及ぶと自身も擂台へ上がり、4人の日本人を打ち倒した。うち1人は重症だったという。小佐は傅に弟子入りを申し出たが、傅はこれを拒否。小佐は二度と中国で果し合いはしないことを誓ったとされる。

 奉天で他流試合を行った日本人の中には、小野十生氏(小野派一刀流、後の剣道九段)がいるが、こちらは1921年に刀(青龍刀)つかいの中国人武術家の挑戦を竹刀で受け、喉元に突きを寸止めすることで負けを認めさせたとある。この時期、諸外国との武術交流は盛んに行われていたようだ。

 

その後、奉天系軍閥の指導者であった張作霖が傅のうわさを聞きつけ、護衛官兼奉天講武堂の武術教師として召抱えられている。教えた者の中には、張学良、張学成、韓光第、胡文通など東北軍の高級将校が含まれていた。28年に皇姑屯事件(張作霖爆殺事件)が起きたが、傅は難を逃れている。27年に武当山を訪れているとされており、故郷の芦台鎮で一時期武術を教えた後の武当山訪問だったとのことなので、爆殺事件が起きる数年前には既に奉天市を離れていたのかもしれない。

 

27年、傅は弟子を引き連れて湖北省の武当山を訪れ、徐本善道長とお互いの武術を教えあって交流を深めた。徐道長とは勝負を引き分けたが、傅は形意拳を武当山に伝え、自身は形式的に徐に弟子入りする形で八門五手十三勢太極拳、乾坤球、玄武棍などの武当拳を学んだ。

 

29年には杭州の武術大会に審判として参加した。大会では傅が天津で教えた弟子、李春芳が他の選手を凌駕し、1位を獲得した。

※この件については情報が見つからない。29年の杭州国術遊芸大会では、傅は確かに審判としては参加しているが、弟子が優勝したという記録は無かった。李春芳は中華武士会にあって、定興三李と言われた李彩亭(字呈章)、李文亭(字星階)、李耀亭(子揚)三兄弟(いずれも李存義の弟子)の内、李耀亭の子である。李耀亭と傅剣秋は兄弟弟子で、関係がかなり良かったらしく、李は子の春芳を傅に弟子入りさせ、傅もまた子の傅少侠を李の弟子とした。

 

その後、傅は無錫、上海一帯に武館を設けて武術を教え、53年に再び故郷へ戻った。56年の農歴7月13日に没す。享年75歳。子の傅少侠も武術家だったが、77年に64歳で病死した。

傅剣秋の有名な弟子には高童柏、楊剣青、王之華、何景森、範之孝、範震遠、董焕文、銭康儀、楊定香、沈賓章、寧大椿、裴錫栄、王青山、許大鑑、李春芳などがいる。このほかにも傅剣秋の武術を学ぶ弟子達が作る「傅式形意拳網」というサイトの中の師承表には、伝人が多数掲載されており、同派がよく後代に伝承されていることが分かる。

 

※申万林は河北省の人で、最初に少林寺で学び、通背拳、劈挂拳、戳脚翻子拳、少林拳、鷹爪拳、太極拳、形意拳などを次々に修めたので「全拳王」の名で呼ばれた。後に朝廷で御国術館の教練を勤めた。その間、医術にも興味を持ち、朝廷では特に打ち合いによる怪我の治療に努めたので求められて長く仕えた。1900年、八カ国連合軍が北京に侵攻し、清朝政府に李存義が天津老龍頭駅で弟子と共に組織した華捕隊を鎮圧する要求を突きつけ、政府がそれを受け入れた。鎮圧部隊に申も編成されたため、形意拳の使い手でもあった申は(郭雲深の弟子であったとされ、李存義も郭と劉奇蘭両名から学んでおり、李は郭雲深の元では申の弟弟子に当たると言われる)これに憤慨して朝廷を離れ、寧河県(現在の天津市東北部)の商人だった高長波に引見して同県の芦台鎮で形意拳を教え、多くの弟子を育てた。