武当山から出た伝承者の中で、90年代から現在に至るまで世界各国に弟子や孫弟子を持ち、国内外で影響力の強い人物が3人いる。三豊派の鐘雲龍、玄武派の游玄徳、純陽門の岳武の3人だ。

その中で、良くも悪くも武当山の広告塔として一世を風靡した人物が游玄徳だ。

 

                   

游玄德は号を彦学、道号は玉京子、洞天真人。自称松鶴山人。河北省晋州出身、1949年9月生まれ。南武当山道家協会創始者。王光徳より玄武派を受け継ぎ、十四代掌門人を名乗る。

5歳から武術の練習を始めて、13歳のときに特警(特殊警察部隊(公安特警))の人間と戦えるほどの実力があったという。更なる高みを求めて各地を渡り歩き、武当山で出家し、武当派南宗掌門人の王傑(字を維慎、号は通和)より真伝を授かる。また、王の薦めで、武当山へと赴き、武当山を仕切っていた王通聖(王光徳)、百歳を超える道士呂明道、呉教鵬、朱誠徳など先輩方より武当七十二玄功、武当秘伝太極拳、内家降龍十八掌、武当秘伝太乙逍遥掌、八卦掌ならびに奇門兵器と内功、養生の法を学ぶ…。

 

というのがネットの百科(Wiki)などで見られる表向きのプロフィール。

 

武当山に滞在していた王先生によれば、游は1965年8月生まれで王先生よりも若く現在52歳(2017年時点)とのことである(武当道教協会の記録に生年月日が記されているらしい)。

84年に軍で一緒だったという者の証言などが残っており、1988年に兵役を終えたとあるので少なくとも4年は軍にいたことになる。その後武漢でぶらぶらしているときに周金富(15歳で武当山にて朱誠徳より学び、後に郭高一の師でもある唐崇亮にも学ぶ)に学び、翌89年に叔母の夫のつてで武当山で臨時工(いわゆるバイト)として働くことになった。

※表向きのプロフィールでは朱誠徳より習ったとあるが、朱は90年の2月10日に亡くなっており、享年90歳だった朱からどれだけのものが習えたのかは定かではない。朱の弟子である周金富より学んでいたので、孫弟子という立場を活用して特別に教えを受けたとしても、晩年の朱から多くのものを吸収できたとは考えにくい。

 

叔母の夫は同地の政府関係者である程度権力を持っていたようだ。最初は廟の中の庭を管理するだけだったが、その後事務所に配置換えとなって雑務をこなし、後に金頂管理委員会の副主任となる。「游が副主任となると、当時の主任の席が空いた」と言われている。

※実情は、90年に起こった道教協会の会長王光徳と、秘書長、後学清との権力闘争で王光徳側につき、親戚の立場を利用してうまく立ち回り、最終的に王が協会の利権を手にすることに貢献したからだと言われているが、詳細は山の実務にかかわるものしか分からないだろう。

 

金頂の主任になると、游は内外に向けて自分が武当山の掌門人だとほらを吹き始める。これに憤慨した王光徳は、93年に游を道教協会から追放した。

 

前後して92年、趙堡架太極拳の劉端に拝して太極拳を学ぶが、人間性を疑われ破門されている。

この頃から既に自身の弟子を使って他の武館と喧嘩するなど、悪名は一体に知れ渡っていた。ある時開かれた会合で、出家した道士達がこぞって会長の王光徳を責め立てたらしく、游は武当山を離れるしかなくなる。

 

武当山を追い出された游は、中国内で講座を開きながら遊学したあと、武当山に戻って玄武派第十四代掌門人を名乗り始めた。その後游は武術関連の映像を買いあさり、動画で武術を学んだというのだ。そして自身でいくつかの套路までも編纂してしまう。経歴が怪しい部分は多いが、多かれ少なかれ武当山で何かを学んだことは間違いない。そして驚かされるのは、武術的センスがかなりあったということである。玄武派の太極拳は秘伝太極拳と呼ばれており、陳式+楊式+孫式のようにも感じるが、これだけは游が周金富から学んだれっきとした太極拳のようだ。ただ当時武当山には絶えず民間から武術家が招聘されて道士達に教えており、陳小星や王海洲などが来たこともあったので、陳式、趙堡架などを学んでそれらしく編纂する機会は十分にあったとも考えられる。

 

そのあとは2003年頃まで山の入り口付近で山の道教協会などから許可を得ず勝手に道場を経営し続けた。この93年から03年までの10年ほどの期間に、王先生をはじめとして、遼寧省北鎮で自然派を学んでいた幾人かが游について学んでいる。

 

その後游は「南武当道教養生院」、「南武当道教協会」など開いた。游が武当山を去った今でも、得意弟子の田理陽と袁理敏らが山に残って武術学校を経営しているし、そこから出た孫弟子で道場経営をしている者もいる。出自はどうであれ山で修練をつんだ功夫はかなりのもので、武当山の存在を宣伝して知名度を引き上げたのは確かで、現在も一定の影響力を保ち続けているようだ。

 

 游の放逐について、三豊派の鐘雲龍道長は取材に別の話をしている。

「毎回誰かが游玄徳を訪ねに行くと、彼の弟子が先方に「暫くお待ちください、お伝えしますので」、と答える。しかし暫くすると、「師は現在打座(仏教でいうところの座禅)の最中です」、と答えるのです。ある時、政府の役人が彼に会いに行ったときも、同じように門前で待たせた。このときその役人は門の隙間からこっそり中をのぞき見たんだそうです。すると、游は打座などしておらず、道士らしいそぶりで髪を気にしながらあちらこちらへそわそわと歩き回っていたというのです。この官僚は何も言わずに立ち去った。彼が普通ではないと感じた政府役人によって、彼は追い出されたのです」

 

※道教協会で起こった権力争いの折、鐘道長は後に敗れて追い出された後学清側についていたともされており、事態は外の人間が思う程簡単なものではないのではないかと感じる。

 

 

游玄徳と鐘雲龍道長の矛盾は武当山においては公然の事実だと言われる。鐘道長は游を「徒有虚名(虚名だけあって実を伴わない)」といって批判するが、游もまた鐘道長を「假隠士(偽隠者)」と批判する。

 「03年~08年まで洞窟に隠棲して自給自足で修行?鐘には大家族(鐘道長が開いた武術学校を指す)がいて、養わなくてはならないのに何年も離れられるはずがない。鐘道長がここまで有名になったのは現在の地方政府(地方自治体)が絶え間なく彼を持ち上げた結果だ」と。

※游は地方政府に対して演武などを行った際に配給する金銭が少なすぎると不満を訴えたことで追い出された、とも言われている。

 

腑に落ちないのは、道教協会に追い出され、勝手に山門近くで武館を開いていた游が、何故同協会より武当道教功夫団の団長を任せられていたのだろうか?ということである。

游は団長として功夫団を引率し、マカオでは王先生が演武されている映像も残っているのだ。この時は玄武、三豊両派ともに参加しており、鐘雲龍道長も演武しているのだ。この時期は間違いなく王先生を筆頭とした玄武派の弟子達の演武の方が注目されていた。

游への批判はおおむね三豊派、或いは游に敵対する道教協会の人間からによるものが多いが、当時游を排除できない理由が他にあったと考えるのが普通だ。

                 

   若かりし頃の游玄徳、鐘雲龍両氏。後ろに座しているのが王光徳。昔は玄武派も三豊派も共に修練に励んでいたのではないか?

 

思い当たる節としては、

武当山がユネスコから世界遺産「武当山と古建築」として登録されたのは94年、ということだ。

これから観光客も増え、地域全体で町興しをしようとしているときに、游は単独で武館を経営していた。

游の周りには当時、自身が編纂収集したものの他に、王先生の自然派もあった。武当山の武術を広める条件は游のほうが鐘道長の外家的な拳械よりも有利だったのではないか。

 

武当山の観光地化と、道教文化を売り出すという地元の目的と一致したのだろうと考えられる。

完全に道教、武術の聖地としての地位を確立した山の今を見るに、游の貢献度はなかなかのものだったと思う。

 

03年に游が完全に山から離れ、やっと鐘道長の時代になろうとしていた時、鐘道長は隠棲してしまう。

武術学校がこれからというときに隠棲し、その期間中に袁師懋、陳師行、陳師宇などを始めとした「師」字輩の弟子達が次々と独立して武当山に武術学校を築き、メディアの力も借りて三豊派は山を代表する一大勢力となった。

袁師懋道長の武術学校は武当山で外国人が一番多く集まるので有名となった。それは本人が努力して英語を使えるようになり、外国人に正確な技術を伝えられる下地ができたからだ。陳師行道長は若いが得意な軽功を活かして名を上げ、国内外から彼の映像を見た学習者が訪れている。

陳師宇道長は両者ほどの規模ではないものの、教え方の上手さもあって一定の学習者を獲得することに成功している。客観的に見て、鐘道長が名声や権力、金銭に執着するような人間であれば、チャンスの多かったこの時期に山へ籠もるとは考えにくい。

03年は、王光徳が亡くなった年でもあり、そこには様々な出来事が重なったのは想像にかたくない。

 

 

以下が玄武派に伝わる主な拳械だ。

八卦掌 形意八卦掌、龍形八卦掌、陰陽八卦掌、八卦転掌、穿樁、八卦剣、穿花、穿九宮

形意拳 五行拳、十二形、龍虎大連環、五行対練

太極拳 武当秘伝太極拳13式、18式、36式、64式、五行六合功

太乙五行拳、太乙逍遥掌、太乙綿掌、武当玄功、乾坤掌、五行养生功、八段錦、六字訣、八卦刀、黒虎刀、烏龍槍、玄武棍、酔剣、丹剣、行剣

 

一部は游の創作套路。秘伝太極拳、並びに五行六合功は周金富伝。太乙五行拳については鐘雲龍道長についてのブログでも書いたが、楊群力に玄武・三豊両派の人間が学びに行っている。このほか金庸の小説に出てくる「一陽指」や「降龍十八掌」といった名前の功法があるが、游の創作である。游の得意弟子の田理陽、袁理敏はかなり優秀で、田が教えた明月と清風子(香港出身)らも武当山で学校を開いている。王先生は玄武派においては王理平という「理」字輩を持っている。游玄徳についた理由は、王先生の師の1人である張奇先生が游玄徳と知り合いだったからで、お互いの弟子を1人ずつ交換する形で拝師したのだそうである。北方の武林では昔からこのような習慣があったようで、王先生も師に従う形で游の元へ行ったのだそうだ。もっとも、現在王先生は自然派を名乗っており、玄武派は教えていない。

 

 

玄武派字輩

宣淵壹道誌、求德振常存、

照應通玄理、微希太景成、

武當興法派、惟仙尊之宗、

大嶽氣自然、五龍呈祥煙、

玉虛宏圖展、三豐丹技傳、

南巖捧聖真、紫霄永吉昌。

 

 

ちなみに鐘雲龍道長は同じく玄武派の第十三代も継承しているが、当然ながら游の作った武術はできない。玄武派も元々は三豊派と同じく道教の一門であって武術門派ではないからだ。玄武派を武術門派に変えたのが游玄徳だったというわけだ。

 

環境は人を変える。習う技術の質の良し悪しに関わらず、日に8時間以上の練習や基礎体力のトレーニングを繰り返せば、民間で仕事をしながら副業で教えている武術家などよりもはるかに強い肉体と精神を手にすることができる。練習量があまりにも違いすぎるからだ。武術学校が立ち並び、居住環境、ネット環境がある程度整備されている現在は、鐘道長や游玄徳が修行していたころの武当山は比べ物にならないほど便利になっている。想像もつかない過酷な環境で修行を重ねた者であれば、常人とはかけ離れた功夫が見につくことは想像に難くない。