「北崇少林,南尊武当」(北に少林寺を崇め、南に武当山を尊ぶ)、という言葉の通り、道教の聖地としてだけでなく、少林寺に並ぶ武術の本山として武当山は古くから武術家達の注目を集めてきた。

張三豊にまつわる太極拳創始伝説については数百年前のことで確認のしようもなく、未だに論争は続いているが、陳家溝から現代の太極拳諸門派が分派発展してきたことを見れば、少林寺の達磨や、心意拳の岳飛などに並んで、一種の象徴的な存在であるといえる。

 

 以前のブログで、現代の武当派の諸門派についてざっと書いたことがあったが、三豊自然派を学ぶようになってから、また下山して教えている道士との交流などから道家の間で伝えられてきた各門派に興味を持つようになった。

 

というか武術に興味を持ったそもそものきっかけが林正英の演じる道士が最初だったので、昔から憧れがあり、武当派武術はかなり調べたり見に行ったりしている。

 

実際に学んでいる自然派以外の門派については見聞きしたものをまとめた。各派の構成なども後から出てくるが、主観も入っているので参考程度に読んでほしい。

 

道家の武術を学ぶ者たちの間には、「南郭北匡」という言葉が伝わっている。南郭は、湖北省武当山の道士、郭高一を指し、北匡は、山東省嶗山の道士、匡常修を指す。いずれも現在の武当山にある武術学校の8割以上を占め主流になっている三豊派の十四代掌門人、鐘雲龍道長の師に当たる。

 

ちなみに、自分が学んでいるのは「三豊自然派」で、「三豊派」ではない。

 

「南郭」 郭高一 

                                    

                                   郭高一と鐘雲龍道長

 

郭高一は幼い頃に二郎拳、少林拳などを学び、日中戦争がおきると、東北部で軍に参加し、抗日戦線を戦ったという。武当剣譜を世に残した宋唯一や、弟子筋に当たる李景林の剣技に憧れ、当時同じく抗日戦線に参加していた李景林の弟子楊奎山(六合門出身。六合拳は康直、武当剣、武当太極拳※を李景林、形意拳を尚雲祥に学ぶ。)、郭応山らと知遇を得、各種内家武術を学ぶ。

※李景林は太極拳を楊健候に学んでいた。宋唯一が太極拳系の武術を李に教えたかどうかははっきりしていないが、楊奎山が伝えた太極拳は改良を加えた楊式太極拳と武当丹派太極拳の2つであったということなので、その可能性は十分あると思われる。

          

           

           鐘道長に太乙玄門剣を指導する郭高一

 

部隊が解散したあと、そのまま遼寧省北鎮の閭山で出家し、同地で武当三豊自然派二十三代掌門人であった楊信山(明真)より三豊太極拳と内家の各功法を学んだとされる。文化大革命が起こると、強制的に還俗させられて実家の河南省商丘に戻ることになったが、文革が終わると、81年に同省泌陽県の白雲山で再度出家し、同山で武当龍門派の武術を伝えていた唐崇亮道長※に2年学んだ。

※唐崇亮道長は29才で武当山で龍門派二十五代伝人の王信堂道長の門下となり、武当太極拳を学ぶと共に、当時武当山の掌門であった徐本善道長からも教えを受けていた。

 

                    

         晩年、神農架の洞窟にて

 

83年に唐道長が羽化(道士が天に召されることを羽化という)したのち、郭は武当山に移り、同山の道士達に武術を教えるようになった。84年に武当山で道教協会が成立した後、郭は道教武術総教練となり、親しかった道士、朱誠徳道長と共に89年まで武当武術の普及に努めることとなった。育成した弟子には、鐘雲龍、蔡亜庭、張嗣永,呉華軍、史飛など十数人がいる。同年、郭は総教練の任を鐘雲龍に譲ると武当山を離れ、90年に神農架の洞窟に弟子の張嗣永と俗家弟子の胡振林を連れて隠棲。その後93年、更に九宮山に移り、3年後96年に同地で羽化した。

 

「北匡」 匡常修

 

        

         匡常修

 

匡は1905年、山東省生まれ。6歳の時から父がやっていた人力車の仕事を手伝い、8歳で読み書きの勉強を始めた。2年半後、母親の病で一時学問をあきらめることになったが、母が亡くなると匡は、再び励み、12歳の時に再度私塾へ入学。4年半に渡って勉学に勤しんだ。その後わずか14歳にして生活に迫られ郷里の女性と結婚。一男一女をもうけ、生活も更に切迫したことから学問をあきらめ働き始める。仕事の余暇に武術を学んだ。その時に習ったのは査拳と蟷螂拳であった。

 17歳になると青島の靴屋で修行を積み、一年後には独立して自身の店舗を開業。その後匡は弟に店の経営を任せ、中医学と武術修行に没頭するようになり、若くして弟子を持つまでになる。

 21歳で妻子を説得し、父の反対を押し切って出家。道士の道を歩み始めるが、日本兵に出家した南県臥雲庵の廟を焼かれてしまい、環俗して故郷に戻ることになった。

26歳で若くして妻を亡くすと、再び出家を志し、子と別れて嶗山白雲洞にて母方の叔父で白雲洞を仕切っていた全真金山派の匡真覚(夢辰)に拝師する。匡真覚は武当派の伝人李士卿に学んでおり、道家武術の功夫は相当なものであった。匡はこれより嶗山道士として、文化大革命のおきる66年まで36年に渡り同山の白雲洞、明霞洞、凝真観、太清宮などで暮らした。

 

             

             弟子に指導する匡常修

 

 郭と同様に、文革時強制的に還俗させられた匡は、その後故郷に戻って14年間に渡り医者として過ごすことになる。

 文革が終了し、80年に嶗山へ帰山した後太清宮に暮らすが、93年に羽化した。この間匡は武当玄真門を創始し、多くの弟子にその拳を伝えた。若い頃に学んだ査拳、蟷螂拳の影響から、豪快な蹴り技と素早い手技を併せ持ち、匡飛腿(とび蹴りの匡)と呼ばれた。

   

                   

           武当剣を指導する匡常修 

 

 匡の武術は武当山の鐘雲龍道長が広めたので有名となったが、他の弟子達も山東省一帯で伝えており、特に孫の匡如湖が伝承に尽力している。