• 新聞記者になった子規
  • 新聞日本とはどんな新聞❓
  • 焦眉の課題は不平等条約⁉️
  • 子規の初仕事
  • 議会を風刺した子規
  • 議会混乱の背景
  • 子規の立場は政府より❓
  • 子規は海軍増強派❓
新聞記者になった子規
 子規は漱石の親友ではあったが、その社会観歴史観は漱石のそれと、同じではなかった。

 先述した通り、子規が入社した新聞日本は陸羯南(くがかつなん)によって始められた新聞社で、明治22211日に創刊されたが、この日は建国記念日(紀元節)と明治政府が定めた日で、この日に合わせて大日本帝国憲法は発布された。


新聞日本とはどんな新聞❓

 つまり新聞日本は立憲政治の始まりに合わせて、独立した言論活動を行おうとする新聞社であった。

  では創始者である陸羯南はどの様な立場で言論活動を行おうとしていたのだろうか。彼は新聞日本創刊の辞でこう述べている。


「近世の日本はその本領を失い、自ら固有の事物を棄るの極、ほとんど全国民を挙げて泰西(西洋)に帰化せんと」している。「日本の一旦亡失せる「国民精神」を回復しかつこれを発揚せんことをもって自ら任ず。」と謳っている。つまり、今の日本は西洋文明を崇め奉るあまり、日本が古来培ってきた日本独自の文化、文明を失いかけている。それを復活するのが新聞日本の役割である、と。彼のよって立つ政治信条は国粋主義であった。

 

かといって、かつての攘夷論のように西洋を否定するものではなく「その権利自由及び平等の説」は重んじ「理学、経済、実業」については取り入れるが、日本に採用するか否かについては、日本の利益になるかどうかによって判断する、その立場は政党とは異なり、「批評風刺の方法により、常に善悪邪正」を明らかにするように努める、と。だから国粋主義の立場から政府の方針に批判を加えることも多く、そのためしばしば発行停止処分を受けたこともあったのである。

 

焦眉の課題は不平等条約⁉️

 当時の明治政府にとって焦眉の課題は不平等条約の改正であった。幕末の1858年日本がアメリカを始めオランダ、イギリス、フランス、ロシアと結んだ修好通商条約の改正である。


その不平等性とは、外国人に対する裁判はその国の領事が行うという領事裁判権と関税自主権がないことを指す。この不平等条約を改正するため、明治12年から外務卿として条約改正交渉にあたっていた井上馨は極端な欧化政策をとり、日本の外観を西欧風に見せることによって欧米列強の信頼を得ようとした。明治16年に完成した鹿鳴館はその象徴である。

 

領事裁判権の廃止と引き換えに外国人裁判官を認めるという外交方針が一般に知られると広範な条約改正反対運動が巻き起こり、井上は外務大臣を罷免されることとなった、明治21年2月の出来事である。陸羯南の創刊の辞もその文脈の中にある。

 

子規の初仕事

 子規の政治的社会的ものの見方は羯南の影響を大きく受けたであろう。

 正式に入社した明治25121日、子規は早速新聞日本に俳句時事評を連載する。俳句時事評とは時事問題を俳句に詠んで風刺を加えるというもので、子規の俳句の才が買われて新聞日本で連載が始まったものである。入社翌日122日には早くも子規の俳句時事評が掲載されている。

 

「○海の藻屑  奔波(ほんぱ:激しく寄せる波)怒涛の間に疾風の勢いをもって進み行きし いくさ船 端なくとつ国(外国)の船に突き当たるよと見えしが凩(こがらし)に吹き散らされし木の葉一つ渦まく波に隠れて跡なし。軍費の費多しとも金に数ふべし。数十人の貴重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼らがその屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の価問はまほし(問いたい)

 

 ものゝふの河豚に喰わるる哀しさよ       」

 



 これは2日前の1130日に起きた海難事故を詠んだものである。この日フランスに発注していた日本の軍艦千島は神戸に向かって回航していたが、午前4時58分愛媛県和気郡堀江沖において英国汽船ラベンナ号と衝突し、沈没。日本人乗組員74名が溺死した。

 

これは単なる海難事故にとどまらなかった。というのは当時日本は不平等条約下にあり、イギリス人に対する裁判権は日本にはなく英国領事に属していたため、英国船の非を裁くはずの裁判は英国に有利に進行した。日本政府は天皇を原告に立てて賠償を請求するが、二審の上海英国高等裁判所において、逆に日本が賠償を命じられるという理不尽な判決が出る始末であった。これによって後に世論は沸騰するが、この時は事故の第一報が新聞紙上に報じられたに過ぎなかった。

 

 子規の詠んだ「ものゝふの河豚に喰わるる哀しさよ」という俳句もこのような世論の喚起に一役買ったと言えるかも知れない。なぜ河豚(ふぐ)なのかは定かではないが、事故の場所が下関海峡にほど近い瀬戸内海であったことから特産の河豚を連想したのかも知れない。

 

議会を風刺した子規

 子規は開設された初期議会の様子についてもいくつかの俳句を詠んでいる。

明治251210日の俳句時事評では次のような句を載せている。

 


「道徳という語は不道徳の世の中にこそ多く用いらるるものなれ。信任という語は不信任の人の口にこそ多く上り来るものなれ。

 

  三羽立てあとしずかなる千鳥かな」

 

これは何を風刺したものであろうか、129日付けの朝日新聞衆議院傍聴筆記によると、8日の衆議院において議員より内閣大臣信任欠乏(つまり不信任)の議決動議が出され、これについての討議が行われ、採決が行われた。 ところが、鳴り物入りで提出された信任欠乏の議決に賛成した議員はわずか3名であった。子規はこのことを詠んだのである。

つまり政府批判の論陣を張った民党側の失態を風刺したのである。

 

 憲法に則って初めて開かれた帝国議会―初期議会は大いに荒れていた。遡ること2年前明治23年の第一議会以来、自由民権運動の流れをくむ反政府派、いわゆる「民党」が議会の過半数を占め、彼らが地租を軽減し「民力休養」を求めるのに対して、政府は海軍の増強を求める激突が議会で繰り返し行われた。

 

議会混乱の背景

 周知の通り、明治憲法に於いては内閣は天皇によって任命され、議会に責任を負わない。従って、議会の過半数の支持を得ていない内閣が成立することとなり、議会と全面対決する結果となった。


松方正義首相が率いる内閣が、議会の反対で予算案を通すことができずに退陣すると、政府側は新しい首相の人選に苦慮し、とうとう明治維新の元勲伊藤博文が総理大臣となることでこの危機を乗り越えようとした。



 伊藤博文こそが明治憲法を作成した立役者であったのだから、正に背水の陣の内閣といえ、メンバーもそうそうたる顔ぶれであった。山県有朋、黒田清隆、井上馨、大山巌、後藤象二郎など維新の元勲が名を連ねた為、一般に元勲内閣と呼ばれている。


この内閣と対決したのが、明治25年12月に招集された第四議会であり、これが先の子規が詠んだ俳句の舞台である。

 

子規の立場は政府より❓

 この俳句で子規は政府を批判している民党を揶揄している。

「信任という語は不信任の人の口にこそ多く上り来るものなれ。」ということは現内閣が信任できないと言っている民党議員が不信任、つまり信じられない人であると言いたいのだろ。そしてその民党議員が過半数を制しているにも関わらず、議決をとってみると起立して賛成したのはたった3人であったことを、千鳥に例えて嘲笑っているのである。

 

 またそれより4日前の12月5日の新聞には子規は次のような時事評を掲載している。

 

「     ○子供に羊羹

大人八九人打ちよりてさまざまな話をなせば、子供二三百人むらがりてこれを聴く。いたづらざかりのわらは幾人か、こそこそと大人がしまい置ける箱の底を探りて大事なるものを盗みとりあいて、かかるものは持たじと言い張りたる大人に迫れば、大人は右の手に羊羹を取り左の手を差し出してその物くれなばこの羊羹与えんという。羊羹に眼くらみてその物渡さんとするもあれば、その手はくわじこの物は渡さじとてすまうもあり。だましつだまされつ怒りつ怒られつして大方一冬は過ごすになん。側より見ればいづれも戯れとは見ゆれどだます人もまじめにだまし、だまさるる人も誠にだまさる浮世の有様、奇会とやいはんはた議怪とやいはん。

 

     子をなぶり子になぶられて冬籠     」  

 

大人八九人とは内閣のことであろう、そうすると子供二三百人とは議会に集まる国会議員をさすことになる。「大人がしまい置ける箱」とは何であろう。

 先述したように、議会は政府が提出する海軍軍備増強の予算案を否決することによって民力休養、地租の軽減を要求してきたが、この第四議会に於いても民党は政府予算案の約1割を削減し、地租軽減を求めた。大人がしまい置ける箱を盗んだとは、この予算削減案を指しているのだろうか、それに対して軍艦建造費を通したい政府は予算案を通してくれるなら、地租軽減という羊羹をあげるという駆け引きを行った、子規はそれを皮肉ったのであろう。


民党はその手はくわじと軍艦建造の予算案を否決するのである。子規はこの初期議会の攻防を奇怪と議会をかけて、奇会、議怪と皮肉っている。

こうして明治25年は暮れていった。

 

子規は海軍増強派❓

この海軍増強について正岡子規はどの様に考えていたのだろうか、正月明けの明治26年2月18日の新聞日本に子規は時事十章と題した俳句を載せている。

 

「製艦費献納

二つ三つ船も置きたし春の海   」

 

「製艦費献納」とは2月10日に出された明治天皇による詔勅のことを指している。結局この政府と議会の対立は両者が天皇に奏上し天皇に裁断を求める結果となった。天皇は帝室費の一部を削って製艦費に当てることを詔勅で表明し両者の喧嘩を収めた。



 政府が進めようとしていた軍艦建造は実現したが、政府側も官吏の給与削減や行政整理をのまざるを得なかった。子規は政府が進めようとしていた軍備増強路線に賛同する立場で俳句を詠んでいる。


翌明治27年に日清戦争が勃発すると、子規は病弱にもかかわらず周りの反対を押し切って、自ら従軍記者を志願し戦地に赴く。子規が中国に着いた時、緒戦はすでに終わっており、さしたる記事もかけずに帰国するが、道中の無理がたたって子規は重篤な病に陥るのである。