あざみ野アーティスト村日本画教室

今日のお題は「補色」

 

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印象派はさまざまな革命を絵画界にもたらしました。

 

遠近法や陰影法にとらわれない造形革命、アカデミズムやサロンにとらわれないシステム革命、神様や王様など権威にとらわれないテーマ革命、そして、色は固有色に縛られないという色彩革命。

 

特に色彩革命の中でも、補色の概念を明確化させたという点でその後に大きな影響を与えました。僕らが予備校で水彩画絵描く時に、「黒の絵の具は捨てなさい。」とか言われたこともその一つかと思います。

 

で、「補色」とはなんぞやということですが、

 

まず、「色の三属性」とは、色を構成する要素のことですが、

明るさの度合い=「明度」

鮮やかさの度合い=「彩度」

色みの度合い=「色相」

 

この三つの属性で色は構成されているということになっています。(これは中学校とかの美術で勉強します。)

 

その属性の一つ、「色相(色み)」の度合いを赤🟥からオレンジ、🧡黄色🟡、緑🟢、青🟦、紫🟣、そしてまた赤🟥に還ってくるので、これをぐるりと輪っかにしたものが「色相環」といい、その輪っかのちょうど反対側にくる色が「補色」ということになるわけです。

 

で、その「補色」何が重要かというと、「補色同士を混ぜ合わせると黒になる。」つまり、黒という色がなくても、その他の色を混ぜれば黒のような色ができるということなのです。

その上で、黒の絵の具をそのまま使うと、いわゆる色を感じさせないのですが、補色を混ぜて作った黒は、例えば青🟦とオレンジ🧡を混ぜたとして、少し青🟦みがかった黒とか、オレンジ🟧がかった黒とか、黒なんだけど色を感じるというところがミソなわけです。

 

で、なんで黒とか白がいけないかというと、

目に見える全ての世界に色がある。というのが印象派の人たちの考え方なのです。

例えば、白い服を着た女性が立っていたとして、夕日の元で見れば赤🟥く見えるし、緑🟢の森の中にいれば緑🟢がかって見える。あるいは、青🟦空の元にいれば青🟦みがかる。など、つまりは、光の影響を受けることによって、黒が黒に見えたりとか、白が白に見えることはなく、全て色として見えるいうことを言ったわけです。

 

なので、

 暗く感じてもそれは黒ではないよと。青み🟦を感じたら、青🟦にオレンジ🟧を混ぜたら黒っぽい影の色になるし、紫🟣を感じたら、紫と黄🟡を混ぜると黒っぽい影の色ができますよ。でも、黒ではありませんよ。

ということになるわけです。

 

なので、現在は印象派さんたちのおかげで、全てには色があるから、白🤍⚫️使わないで、色で表現しましょうというのが、定説になっているわけです。

 

 

では、印象派さん以前はどうだったかということで、1番わかりやすい表現方法の一つとして挙げられるのが、「グリザイユ技法」と言われるものです。

これは、一度陰影を白黒🤍⚫️で表現しておいて、上から「固有色」を塗る。という考え方です。「白黒(明暗)+固有色」これだと立体感や空間も表現できるし、そのものの色も表現できるということで、昔の考え方はそういう考えが中心でした。

 

だけど、これでは、どんなところにいてもあっても、白🤍は白🤍。黒⚫️は黒⚫️。赤🟥は赤🟥。肌色は肌色。同じ色になってしまいます。家の中にいても、太平洋のど真ん中にいても。森の中にいても、色は一緒。それはおかしいよね。光や周りの環境が変われば色も変わる。というのが、印象派さんの考えで、今は当たり前になっています。(一言いえば、印象派以前にもターナーやバルビゾン派の方々もいたので、彼らの発明とは必ずしも言えませんが、みんなで推し進めたという意味では印象派の功績は大きかったと言えるのではないでしょうか。)

 

したがって、印象派のような考え方が現代では普通ですが、実は、現代アニメーションの世界では、意外とこのグリザイユ技法が使われているのです。たぶん、そういう置かれた状況による色の違いよりも、ストーリー性を重要視しているということなのでしょうか。

 

ということで、とりあえず、現代においては、絵を描く時に「白黒+固有色」で描くグリザイユではなくて、補色を用いて、色を感じながら描くということが、大切な要件ということになっているのではないでしょうか。

 

 

今日は「補色」のお話でした。

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