恥ずかしながら私は昨日一歩も我が家の外に出なかった。
夕方あたりからは寝てばかりいて、
だから深夜に目が覚めた時にはそれを「早起き」としてしまった。
それはそれで結果としては有効な生活改善のための作戦であると自負している。

さて、家に一日中いたり、もしくは一年中いると
引きこもりだなどと馬鹿にされたり、
自己嫌悪に陥るのがモデルパターンである。
引きこもりは大抵労働の義務を果たしていないから、
そこが理を詰めて行けば彼らの一番の罪なのかもしれないが、
しかしどうにもただのニートよりも引きこもりのほうが卑下されがちである。

家に一日中いることは悪か?



どうにも家の外にいる時間よりも家で起きている時間のほうが長いと
あんまりいい気分はしない。
家とは帰るべき場所であり、
ノスタルジアの対象であるべきのようだ。

「いつでも帰ることができる場所がありながら今は他にいる」というのが
人間がベストのパフォーマンスを発揮する条件の一つなのかもしれない。
手に入れることは容易であり、
それを欲しているが、
手に入れてしまえばつまらない。
というのが少なくとも中産階級以下の人たちにとっての我が家ではないのか。


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男女の役割分担を語る時、力のある男が野良仕事をして女が家を守ったというのも一つではある。
しかしそれよりオールマイティ性の高い女性が家のあれこれを引き受け、
一点集中型の男が外で専門職をこなしたというほうが納得がいく。
もうそんな時代じゃないけど。

あと子供と女性の関係があまりに無視できない点ではあるけど。




「家」というのは何とも無機質な言葉に思える。
もっと暖かみがあってもよさそうなものだし、
色みがあってもよさそうなものだが、
どうにもタダのカラの白い箱のような言葉だ。
一体どういうわけだろう。

色々なものをひっくるめた言葉だからか。
しかし「野菜」を考えたとき、
その漢字の背後から緑の茂みや
赤くてひんやりとした者達が見え隠れしていて、
それが群であることを気付かせる。
「野菜」を「植物」にしてみても、
やはり葉っぱと緑のイメージは払拭できない。

「封筒」と言う言葉は紙の質感を伴う。
形状ははっきりしないが、
どうにも裏側で一部紙が折り重なった部分が触れるようだ。

「紙」と言ってはじめてなんでもない感じになる。
「野菜」も「食べ物」と置き換えれば、
どんなイメージもわかないほど無機質に感じられる。

「紙」はさておき、
「食べ物」と「家」が如何なるイメージも彷彿とさせないのは
どういうことやら。
咀嚼することも、その内部に入り得ることも
常識の助けなくしては思いつかなさそうだ。

私の脳が生活感がないと言えばそれまでだ。
しかし「家」という言葉の指すものが
人のためのものなのか、
入るためのものなのか、
怪しい。

化モノ論の最後に家の中には豚がいるとあった。
自らを豚と思い行動し、
屋根の下に人はいたのではないだろう。
豚は生活の実感のない他者のことである。
端から観た生活のことで、
自分自身の実感の籠ったものではないのではないか。


仮定

『自分の住む家は「家」ではない』


家と称したら必ず他者のものではないか。
自分の家には名前なんてない。
当たり前すぎて名前で呼ぶなんてばからしいのではないか。
「おうちさんただいま」と小さい頃言っていたが、
そんなかけ声を他人の家に入った時に言えるはずがない。

なんだかだんだん言葉の話になっていくようだが、
言葉は認識を助けるものだと考えるとすると、
見知らぬ”新橋サン”は言葉を扱わないと把握できないが、
己や自分の住む家や想い人は言葉無しに認識できる。
僕、俺、私、あいつ、アレ、うち、我が家、等は純粋に自分の助けではなく、
他人に伝える必要から生じた気色悪い言葉だ。

本当は誰にも表現する必要のないものではないか。



完全に破綻した。
もうだめだ。

でも家と自分は切り離せないこちら側になっているのではないかという事もある。




・家は不自然な言葉だから無機質
・家は自分の一部
・言葉にして扱うものは自分じゃないもの


眠い。
夏期休業中に課せられた「家についての論文を書く」というタスクを
これで勘弁してもらうという気持ち半分、
とりあえず何か書かない事にははじまるまいという思い半分、
その他の気分半分という150%で発信したわけであります。

なにか雨風呂ってやつははじめてなんだが、
やたらかわいい。

毎日書くという抱負を元に
どうなることやら。
家についての独り相撲。