法華経 第10章:教えを説く人(法師品第十)の講義
イサクとリベカの結婚の絵です。2019年頃、6年前に書いた「聖書と法華経の旅する物語」を私は参考にしています。6年前の文章は細かく調べてある。2025年の現在はそのように詳細に調べることは難しいと思う。若い頃の頑張りが今を助ける。〔9節〕 10Ch.法華経の覚りと高原鑿水の喩えについて説明してください。法華経の「覚り」と「高原鑿水(こうげんさくすい)の喩え」について解説します。法華経の覚り(悟り)法華経(妙法蓮華経)で説かれる「覚り」の根幹は、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)、つまり「すべての生きとし生けるものは、例外なく仏になる可能性(仏性)を持っている」という教えに基づいています。真実の教え: それまでの仏教の教えが、人々の能力に応じて段階的な教え(方便)であったのに対し、法華経では万人が仏になれるという真実(一乗=いちじょう)が説かれます。久遠実成(くおんじつじょう): 釈尊は遥か昔(久遠)にすでに覚りを開いており、衆生を救うためにこの世に現れたという真実が明かされます。覚りの内容: 仏の覚りとは、単なる個人の悟りではなく、仏の智慧(仏知見)を開き、すべての人を救うための真理を体得することにあります。この智慧を開くための修行の究極的な拠り所が法華経とされます。高原鑿水(さくすい)の喩え(法師品第十)「高原鑿水の喩え」は、法華経の法師品第十で説かれている譬喩(ひゆ、たとえ)です。この喩えは、仏道を求める修行における「懈怠(けたい、なまけ心)」を厳しく戒め、継続的な努力の重要性を説いています。喩えの内容高原で井戸を掘る: 喉が渇いた人が、水を得るのが難しい高原で井戸を掘り始めます。乾いた土: 初めはどれだけ掘っても乾いた土が出るだけで、水気は全くありません。ここで諦めてしまうと、水は永遠に得られません。湿り気のある土・泥: しかし、諦めずに掘り進めると、やがて湿り気のある土が出始め、さらに掘ると泥が出てきます。泥が出れば、水が近いという確信が得られます。清らかな水: 努力を続ければ、必ず清冽な水が湧き出て、渇きを癒すことができます。喩えが示す意味水:仏の覚り(仏の智慧・仏道)高原:覚りを得るのが難しい、この迷いの世(または修行の道)乾いた土:修行の初期段階で効果が見えない時期、または仏道から遠い状態湿った土・泥:仏道に入り、覚りが近い状態(菩薩道)掘り続けること:不断の努力と信仰の継続(懈怠を捨てること)この喩えは、修行や信仰の道は簡単ではないが、たとえ目に見える成果が出なくても、諦めずに一筋に努力し続ければ、必ず最終的に仏の覚りという清らかな水にたどり着けることを教えています。△△△この第10章:教えを説く人 (法師品第十)を読むと最初はエレミヤ書そしてこの後は創世記のイサク物語であると絵が見えてきます。法師品第十の如来の室・衣・座の意味を教えて下さい『法華経』の法師品第十に説かれている「如来の室・衣・座」は、「衣座室の三軌(えざしつのさんき)」と呼ばれ、仏の滅後に法華経を弘めようとする者が持つべき三つの心構え、つまり行動規範を示しています。それぞれの意味は以下の通りです。如来の室(にょらいのしつ):意味:一切衆生の中の大慈悲心(いっさいしゅじょうのなかのだいじひしん)解説:一切の生きとし生けるものに対する、仏のような大きな慈悲の心(いつくしみとあわれみの心)を、法華経を弘める者の住むべき「室」としています。慈悲の心で人々を包み込むことが大切であるという意味です。如来の衣(にょらいのえ):意味:柔和忍辱の心(にゅうわにんにくのしん)解説:柔和(やさしく穏やか)な心と、忍辱(そしりや迫害を耐え忍ぶ)の心を、身体を護る「衣」としています。法を説くときに受けるかもしれない誹謗や困難に耐え、穏やかな態度で接することが重要であるという意味です。如来の座(にょらいのざ):意味:一切法空(いっさいほうくう)解説:一切の現象や存在には固定した実体がないという「空(くう)」の真理を悟った境地を、安住すべき「座」としています。何ものにもとらわれない、真実を見抜く智慧をもって説法すべきであるという意味です。まとめると、法華経を説く者は、大いなる慈悲の心を基盤とし、穏やかで耐え忍ぶ態度を保ち、真実を見極める智慧に立って、法を説くべきであると説かれています。如来の室・衣・座の教義に関しては、私はイサクとリベカの結婚を思い出します。創世記24章の後半にはイサクが彼女を天幕に導き入れ、彼女はイサクの妻となったと述べています。24章を丁寧に読むと読むとわかります。創世記24:1-これ以後の文章には、水汲み女、水を湛える井戸、水瓶の水とかの言葉が出てきます。創世記21:22-33に記述されている誓いの井戸と26:26-32における「その日のこと、イサクの召使いたちはやって来て、彼らが掘った井戸に関して報告して彼に言った、水を探し当てました。」そこで、上記の文章を参考にされて、白いハスのような聖典:〔第10章 教えを説く人〕では、高原で水を求める比喩が説かれ、悟りの近くにいるか、悟りから隔たっているか巧みな論述で語られています。創世記24:1-ここの最初にはアブラハムが自分の召使いを我が子イサクの妻を探すために派遣する場面がありますが、これは白いハスのような聖典:〔第10章 教えを説く人〕の中で、如来が神通力で作りかえた人を遣わして、教えを聴く人々を集める記述と絵が重なります。この召使いの仕事は物語の上でとても重要です。次の創世記の文と〔第10章 教えを説く人〕の最後の文、すなわち詩句は同じ詩歌のように重なり合って見えます。創世記22:15-ヤハウェの使いが再び天からアブラハムに呼びかけた。彼は言った、「私は自分自身に誓った。あなたはこのことを行い、息子さえも、あなたのひとり子をも惜しまなかった。必ずや、私はあなたを祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂の粒のように多く増やすであろう。あなたの子孫は敵の門を勝ち取ろう。」創世記24:60-彼らはリベカを祝福し、彼女に言った、「妹よ、あなたは何百万人もの人の母親になるでしょう。あなたの子孫が、彼らの敵の門を征服するように。」(嫁ぐ娘を送り出すときの祝詞(しゅくし)だそうです。)英文May you, sister, become the mother of millions!May your descendants conquer the cities of their enemies!=≒====≒=== そこで、白いハスのような聖典:〔第10章 教えを説く人〕の最後の詩句を読んでみます。「もしも教えを説く人に親しく近づくならば、速やかにボサツの道を得て、この者に信順して学ぶならば、ガンジス川の砂の数ほどの多数のブッダの姿を見ることができるであろう。」 上記の文章では、読み始めにおいて意味がつながらない感じがします。しばらくすると次第に水が真っ直ぐに頭に通じて来るように流れてきます。私は同じ語調として絵が重なって見えます。〔10節〕 10Ch.イサク物語は妻となるリベカの井戸の水くみとか井戸を掘るなど、水に関するエピソードが多く見受けられます。エレミヤは「涙の預言者」だと言われていますが、涙は、水ですが、井戸を掘るような労作業とエレミヤの預言者としての血や涙を流しながらのイスラエルへの警告などどこか似ている行動があるように思えますご指摘のように、イサク物語とエレミヤの預言には、「水」やそれにまつわる「労苦」といったテーマで関連性を見出すことができます。イサク物語における「水」と「労苦」イサクの生涯、特に創世記24章(リベカとの出会い)や26章(井戸掘り)では、井戸が重要な役割を果たします。妻リベカとの出会い: イサクのしもべがリベカと出会ったのは井戸のそばでした。リベカはラクダのために水をくむという重労働を自発的に行い、この奉仕が彼女の資質を示し、結婚へと繋がります。井戸掘りの労苦: イサクは、ゲラル地方で異邦人との間で井戸をめぐる争いを経験します。彼は和平のために争いを避け、何度も新しい井戸を掘るという忍耐と労苦を強いられました。最終的に、争いのない広い場所(レホボト)や誓いの場(シェバ)で井戸を見つけます。この「井戸を掘る」行為は、生命の源を確保するための持続的な努力、争いを乗り越える忍耐、そして神の約束(祝福)の実現といった象徴的な意味を持ちます。エレミヤの預言における「水」と「労苦」預言者エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれ、その活動全体が「労苦」に満ちていました。涙(水)の象徴: エレミヤの涙は、イスラエルに対する神の裁きと、それに対するエレミヤ自身の深い悲しみと苦悩の表れです。彼は民の不信仰と破滅を心から嘆き、その涙は絶え間なく流れ出る水のようです(エレミヤ書9:1など)。預言の労苦: エレミヤの預言活動は、民から拒絶され、迫害され、時には投獄されるなど、肉体的・精神的な大きな労苦を伴いました。彼のメッセージは、民の不信仰という「乾いた土地」に、神の言葉という「生命の水」を届けようとする、孤独で困難な「井戸掘り」に似ています。共通するテーマ: 生命の源への回帰と深い労苦エレミヤの預言の中には、生ける水の源としての神についての言及があります。「わが民は二つの悪を行った。一つは生ける水の源であるわたしを捨てたこと、もう一つは、水をためることのできない、壊れた水ためを自分たちのために掘ったことである。」(エレミヤ書2:13, 口語訳)イサクの「井戸掘り」の労苦は、神の約束の地で生命(水)の源を確保するための忍耐強い信仰の努力です。エレミヤの「涙」と「預言」の労苦は、民が捨て去った「生ける水の源」(神)へ立ち返るように警告し、その拒絶に涙を流す、血の滲むような信仰の努力です。どちらの物語も、生命の根源である水を巡り、それを求める、あるいは失ったことに対する深い労苦と葛藤を描いている点で、本質的に共通したテーマを持っていると言えるでしょう。〔11節〕 10Ch.アブラム契約とイサク誕生の約束とエレミヤ書のエレミヤへの召命は、つながりがあると思います。おっしゃるように、アブラハム契約、イサク誕生の約束、エレミヤへの召命の間には、聖書全体を貫く神の選びと救いの計画という点で深いつながりがあります。これらの出来事は、イスラエルの民を通じた神の約束の継承と実現というテーマの下で結びついています。契約と約束の継承1. アブラハム契約とイサクの誕生の約束アブラハム契約(創世記12章など)は、神がアブラハムと結ばれた無条件の契約です。約束の核: 民族(子孫)の繁栄、カナンの地の継承、そしてアブラハムを通して地のすべての家族が祝福されるという普遍的な救いの計画が含まれています。イサクの誕生(創世記21章)は、この壮大な契約を具体的な形で実現するための最初の重要なステップでした。アブラハムとサラが高齢になってから約束の子が生まれたことは、人間の力ではなく、ただ神の力と約束の確かさによって契約が成就することを劇的に示しています。イサクこそが、神がアブラハムに約束した「子孫」の系譜を継ぐ者です。預言者エレミヤの役割2. エレミヤへの召命エレミヤの召命(エレミヤ書1章)は、ユダ王国が神の契約(主にモーセ契約)を破り、偶像崇拝と不義に陥っていた危機的な時代に起こりました。神はエレミヤを、「引き抜き、打ち壊し、滅ぼし、倒し、建て、植える」という過酷な使命に召されました。これはイスラエルの民に対する裁きを宣言する一方、回復と新しい契約の希望を伝えるという二重の役割を意味します。3. 神学的なつながりエレミヤの働きとアブラハム契約の関連性は、**「新しい契約」**の預言によって明確になります。約束の不変性:イスラエルの民が神との契約(モーセ契約)を破り、裁き(バビロン捕囚など)に直面する中でも、神はアブラハムに結んだ無条件の契約を決して破棄されないことが示されます。エレミヤは、裁きの後には必ず回復が来ることを預言します。これは、神が最初にアブラハムに立てた救いの計画を最後まで貫徹されることを意味します。新しい契約の預言(エレミヤ31:31-34):エレミヤは、モーセ契約(律法の石板)とは異なる、心に書き記される「新しい契約」を預言します。この新しい契約は、アブラハム契約に約束された「すべての家族が祝福される」という普遍的な救いの目的を、最終的に成就させるための手段として位置づけられています。エレミヤへの召命と預言は、イサクの誕生によって始まった「子孫」の系譜が、罪と裁きを経てもなお神の契約によって守られ、最終的な救いへと導かれることを示しています。したがって、イサクの誕生は神の具体的な約束の始まりであり、エレミヤの召命と新しい契約の預言は、その約束が民族の失敗を経てもなお最終的に成就することを確認し、アブラハム契約の究極的な目的(普遍的な祝福と救い)へとつながるのです。△△△イサクとリベカの結婚は、『旧約聖書』の「創世記」第24章に記されている物語で、非常に重要な出来事です。物語の概要アブラハムの願い: イサクの父である族長アブラハムは年老い、息子イサクの妻を、彼らが住むカナンの地の女性ではなく、自分の親族のいる故郷(メソポタミアのハラン付近)から迎えるよう、最も信頼できるしもべに命じます。しもべの旅と祈り: しもべはラクダを連れて故郷に向かい、ナホルの町(またはハラン)の近くの井戸で、神に知恵を求めて祈ります。その内容は、「私が娘に水を求めたとき、『あなたにも、あなたのラクダたちにも飲ませましょう』と答える女性こそ、イサクの妻として主が選ばれた人としてください」というものでした。リベカとの出会い: 祈り終わらないうちに、アブラハムの弟ナホルの孫にあたる美しい娘リベカが水がめを肩にして井戸にやって来ます。しもべが水を求めると、リベカはすぐに水を飲ませ、さらに全てのラクダにも水を飲ませてくれます。結婚の承諾: しもべはリベカに贈り物をし、彼女の一族の家を訪ね、事の経緯を話します。リベカの家族は、この結婚が主(神)の導きによるものと認め、リベカも承諾して、すぐにしもべと共に旅立ちます。イサクとの結婚: カナンの地に戻ったリベカは、野を散策していたイサクと出会います。イサクはリベカを母サラの天幕に迎え入れ、彼女を妻とします。イサクはリベカを愛し、亡くなった母を失った悲しみを慰められたと記されています。ポイントこの結婚は、アブラハムの子孫を通して神の約束(契約)が受け継がれていく上で、神の導きと選びが明確に示された出来事とされています。リベカは、しもべへの親切心と、神の計画に対する積極的な信仰と決断を持つ女性として描かれています。また、フランスのバロック時代の古典主義の画家クロード・ロランが、この主題で『イサクとリベカの結婚のある風景』(1648年頃制作)という有名な絵画を残しています。この「イサクとリベカの結婚物語」は「白いハスのような善人たちの教えを説いた聖典」(法華経)第25章:美しく荘厳された王と家族の物語 (妙荘厳王本事品 第二十七)の題材にもなっています。