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認知症ケア 理論と実践のあいだ

認知症について語る
介護施設での十数年間のケアを振り返りながら
認知症の基本的な理解を交えて語っていく

認知症に関するTV番組が最近は非常に多い。

思えば今から十数年前、まだ痴呆症という言葉が使われていたころは、その症状やケアの方法を知るのにはとてつもない労力を必要とした。今はちょっとインターネットを検索すれば無数の情報を読むことができ、TVをつければ予防番組が毎週のように行われている。こうして認知症の理解を世間が知るのは大変良いことと思う。ひと昔まえは認知症になれば、どうしてよいかわからない、家の恥として隠され、だれにも相談できずに家族の中でまさに地獄のような介護生活が繰り広げられてきた。だからマスコミ等による啓蒙的な活動は、認知症介護をオープンにするという意味ではよいことといえる。


振り返ってみると、認知症ケアは老年精神医学、様々な療法、センター方式、竹内理論、三好春樹、バリデーション、タクティールケア、ユマニチュードなどなど実に様々な理論が提唱された。どれも素晴らしい考え方であり、、しかしこれだけを知っていれば良いという王道というものは存在しなかったような気がする。認知症のケアに役立つというよりも、理論体系化されていない認知症ケアを科学的に位置づけようとする意味合いが強かったのではないだろうか。介護保険が動き始め、医療、看護、介護がならんだ時に、病気の治療は医師、看護師、リハビリは理学療法士や作業療法士、制度はソーシャルワーカー、そういった様々職業が有資格者としての専門分野をもっていた。しかしながらそんな中で認知症だけは専門家がいなかった。医療では治せない、それは今も同じである。つまり有資格者の中で、給与や待遇、社会的地位もけっして高いとは言えない介護職がその専門性を発揮できる場が認知症ケアだったというのは少々乱暴だろうか。しかし、だからこそ様々な名前をつけた認知症ケアの方法が乱立したような気がする。


そう言いながらも、私もやはり認知症ケアについては上記のような考えが動機であった。十数年前は認知症ケアだけはまったくもって理論も実践も体系がほとんどなかったからだ。

では今、認知症ケアはどれだけ進んだのかと考えたところ、それほど変わっていないような気がする。むしろどこか行き詰まり感すら感じる。行き詰まり感というのはそのケア深さである。私が認知症ケアを学んだ室伏君士先生の著書に書かれた内容からその基本はほとんど変わっていないのだから、多様な表現方法があったとしてもそれ以上に深くはなれない。今は横に広がりを見せている時期なのだろう。ある一定の理論や考え方を、まったく興味のなかった人たちに広げるという啓蒙活動的な流れが活気づいている。


さて、認知症を考えるときには大きく3つ視点が必要だ。

ひとつは認知症にならないための予防方法

ふたつには認知症になったときの介護の方法

最後に認知症の基本的なメカニズム

である


認知症予防の方法が花盛りで、EPA・DHA、ココナッツオイル、コーヒー、フラボノイド、運動、脳ドリルなどなど。どれも効果はあるのだろう、しかしどこかダイエットブームに似たもりあがりようにも見える。気を付けなければならないのは、認知症とはなんぞや?という理解がなされないで予防が独り歩きすることである。認知症にかかわる時に必要なのは予防のために様々な努力をしてよい時と、その予防のための努力が本人にとってはただの苦痛にしかならなく、むしろ行動障害(=BPSD・・問題行動いまだに言いますね)を誘発することにもなりかねない。その切り替えというか、バランス感覚が介護する側には必要である。

認知症への基本的な理解がないまま、まして人間観察や気づきのない人が方法論だけで認知症ケアにかかわるとそういう悲劇がおきる危険が大いにあるのだから、十分に気を付けてほしい。


周知の通り、認知症は病名ではない。だから認知症はなおる。でも病名であるアルツハイマーは今の医学では治らない。認知症=アルツハイマーであり、認知症>アルツハイマーなのである。だから認知症はなおってもアルツハイマーは治らないのである。基本中の基本ですね、周辺症状は治るけれど中核症状は治らない、同じことを言っているのです。

しかし、介護現場の中でも意外とこの基本を忘れてしまうのですね。

というより一人の人間を相手にするときに明確に中核症状と周辺症状が色分けされているわけでもなく、そんな簡単なものではないのだから仕方がないのでしょうが。