人が人らしさを取り戻せたのは「たかが、こんなもの」・・だった。 | 認知症ケア 理論と実践のあいだ

認知症ケア 理論と実践のあいだ

認知症について語る
介護施設での十数年間のケアを振り返りながら
認知症の基本的な理解を交えて語っていく

これは私の知人である施設ケアマネージャーのお話である。

寝たきりになりかけていた施設入居者のSさん

そのSさんは今、元気を取り戻し自宅に帰ろうとしていた。

Sさんと妻はうれしそうな顔で、二泊三日で外泊することを決めたようだ。

病院から「口からは決して食べてはいけない」と言われており、胃瘻増設しているSさん。

家に帰ったときくらいは「こっそりと食べさせるのです」と妻は申し訳なさそうに、しかし嬉しそうに言った。

・・・でもね、食べさせても口に含んで2,3回チュッチュと吸って吐き出すのです、自分でも無理だってわかっているのですね(と妻)。それでも口に味を感じられてとても嬉しそう。「これ息子に見つかると怒られるのですけどね」妻もまた微笑んでいた。

Sさんが元気になった理由、それはあるケアマネが導き出したケアプランだった。

病気は心臓病、右脳梗塞、嚥下障害・・胃瘻造設

特別養護老人ホームに入所し、長らく居室に閉じこもりTVを見て胃瘻から栄養をとるだけの毎日を過ごしていた。多くの高齢者は「せめて食事はおいしいものを」と言う。しかし、Sさんは胃瘻。口からの摂取は禁止されている。そして、これも世間一般では言われていることだが、男性は趣味活動への参加をしたがらない。

そんなSさんの楽しみは施設内を二日に1回の散歩をするのみ。

足しげく施設に面会に通う妻は“閉じこもりで活力のない夫の姿”に落胆する毎日だった。

ある日、施設ケアマネージャーはSさんとの会話の中からあることに気付いた。

それは剣道である。

Sさんは剣道の先生であり子供たちにもよく慕われていた人であり、老後も毎日のように竹刀で素振りを日課にしていた。

施設に入ってからは竹刀がないため、手だけで素振りをしていたそうだが、介護員は「あれ何しているのだろう、手の運動じゃない?運動好きなのだね?」としか捉えていなかった。

施設ケアマネージャーは「ひょっとすると剣道の鍛錬だろうか」と考え

そしてこれがSさんのその人らしさを取り戻すための重要なきっかけになると考えたのです。

なんとか本物の竹刀を振らせてあげたい。

しかし、Sさんがいるここは施設である。

いくらケアマネージャーが本人の意欲を引き出そうとしたところで、竹刀を持たせるのは凶器になる、他者とのトラブルになる、そのための時間をさけない、新聞紙を丸めた棒でどうか・・など施設にも介護員にも協力を得ることができなかった。「たかが竹刀の素振りじゃない」そんな意見が多数をしめた。


“本物の竹刀を”


それでも、ケア会議による度重なるケアマネージャーの切なる訴えによって、「子供用ではあるが本物の竹刀」を持たせることがケアプランとなったのです。

多くの反対派の中からも、「いいかもね」と言い、少しずつ協力してくれる介護員も出てきた。

そしてSさんに変化があらわれた。

ある日の昼下がり、施設ホールの片隅でSさんはふらつく体を物ものともせず、また片麻痺があるにもかかわらず、今まで介護員には見せたこともない鋭い目つきと、しっかりとした両手で竹刀を力強く握りしめ、何度も何度も素振りの稽古をしていた。

その姿は、もはや介護される年寄りではなく、“何百人もの生徒に剣道を教えていた師範のそれ”そのものであった。

まさしく、Sさんは自信と品格を取り戻したのでした。

Sさんは、こうして自宅に一時帰宅することになったのでした。

「病気」「老化」「認知症」という枠組みで考えると、すべての思考(ケア)は停止停滞してしまう。

Sさんもまた、このケアマネージャーとの出会いがなければ、枠組みの中で廃用性症候群という名の無気力無関心の世界に陥り、創られた認知症老人の一人として介護を受けていただろう。

喪失体験

人は高齢になるにつれて、多くの喪失体験を経験する、そして現実のギャップを自分の力だけでは埋められず、結果としてそれを周囲から「ニンチショウ=認知症」を呼ばれることになる。

ケアにかかわる私たちは、関わり方によっては、医療が見放したお年寄りに対して、人間の可能性を引き出すような、大きな大きな仕事ができるのかもしれない。



たかが竹刀一本

その「たかが・・」が、人をもっとも人らしくよみがえらせるキッカケとなったことを、多くの専門家を自負する人たちは知ってほしい。