こんばんは、皆の衆。


本来は順序的にORIONの後編を投稿すべきなんでしょうが、なんかふと思い立ったのでそれについて少し独り言でも、、、


さて皆さんは、「余命」について考えたことはありますか?

自分自身、なんら持病も無いし、不安になる様な症状も無いですが…まぁ普通健康な人であればまず「余命」なぞ無縁なワードですよね。

では何故これを話題にしたのか?実際の所、自分自身もよくわかりません。ほんと、何なんでしょう?


世間では余命=残り生きられる期日を指します。つまり1日(は流石に無いか)だろうが5年だろうが医師から宣告されれば、その時点で人生終了へのタイマーが起動します。ただ、宣告通りの期日とも言い難いのが現状で、余命過ぎようがピンピンしてる人も稀にいますし、必ずしも“その日に爆弾が破裂する”とも言えないのです。この辺が曖昧なんですよね。

爆弾💣で例えますが、もし期日前に亡くなるとするならば、時限爆弾のタイマーを止める為に線を切る際、誤った線を選び爆発…なんてイメージです。勿論これは第三者の手によるモノかも知れません。が、当人自身での一手とも言えますよね?少しでも余命を伸ばそうとして手を打ったが、それが逆に仇となる…なんて事も。

逆に余命宣告よりも長く生きる場合…これは導火線についた火が途中で鎮火する、と言えばわかりやすいでしょうか。とは言え、爆弾そのものが消えるわけではありません。火をつけるタイプの爆弾は衝撃で破裂するかは知りませんが、また火がつけばいずれ必ず爆発します。それが早いか遅いかの違いに過ぎないのです。


残念な事に、人には必ず寿命があります。事故に遭わずとも、癌にならずとも、人はいずれ死にます。それがいつなのかは勿論分かりません。病院に行き、人間ドックを受けようと、現代の先進医療を全うしようと、これはおそらく永遠に不透明な課題となるでしょう。

突然ですが、あなたに質問です。
もし、人が生まれつき寿命がわかる様になっていたとしたら、どうしますか?どの様に人生を過ごしますか?

赤子として生まれ、1年もしない内に消えてしまうのなら、自我もないまま一生を終えてしまいます。逆に90歳まで生きれるとしたら、平均寿命位なので、正直他の人と何ら変わりない人生を遅れるはずです。と言うのは建前で、余命が分かっていたら、分からない現世よりも生き方が変わってくるのではないか?と言うのが持論です。

人は生を当たり前に思っている節があります。勿論自分含め。生きている事を当たり前に思う、それ自体は非常に素晴らしく平和的で文句も無いのですが、過去には戦場に特攻し自ら命を絶った話もあります。少し余命とは解釈がズレますが、死を確信していることは同じです。過去の先人達は、自らの死期を悟った時、どう思ったのでしょうか?それでも尚、戦場に特攻して行った人達は何を感じたのでしょうか?

あまり戦争のことを話すと色々危ない気もするので、コレくらいにしておきますが、本題の余命。

過去の英雄達は、死よりも生を選ばなかったのは何故か?そして、現代の人々は同じ立場になった時、どうするか?

生を当たり前に思っていると、恐らく死を悟ると何にもできなくなると思います。自分もそうです。何をするにも億劫・憂鬱。どうせ死ぬんだし…と思う筈です。確かに事実は変えられません。が、人は必ずいずれ息絶えます。それが早いか遅いか・分かるか分からないからの違いに過ぎないのです。若くして交通事故で亡くなる人もいれば、自害する人だっています。後者は自分の意思でしかないのですが、第三者による手がない限り、何をするか・出来るかは結局自分次第なのです。人生は一度きりです。折角ですし、元気でいる今の内にしたい事・挑戦してみたい事にチャレンジしてみませんか???

余命宣告されてから「これしとけばよかった」と後悔の念しか残らない人生、嫌じゃないですか?そしてなんか良くわからん事ほざく私、嫌じゃないですか?笑


生命とは永遠のテーマであり、数学の様な明解な答えも有りません。思考する人々それぞれの解答が正解であり不正解でもあるのです。だって最初から答えなどないのだから…

こう言った小難しいテーマを、暇な時にふと頭に浮かばせると割と良い暇つぶしになったりしますよ。


深夜にふと思い浮かんだのでブログのネタにさせて貰いました。では、駄文でしたが閲覧ありがとうございました。