9.入院して5日目の深夜7月5日午前1時頃に母は息を引き取りました。夏の多忙な時期なので家族葬を執り行い後に[お別れ会]をすることになりました。喪主は姉がすると思っていましたが私が喪主になっていました。また世間体を気にして友達に長男がするものと言われたみたいです。それは 田舎のせいもあると思います。父の葬儀の時も喪主は母でしたが最後の挨拶は姉がすると思っていましたが当時まだ自分は東京にいたので当然一緒に住んでいる姉が挨拶するものと思っていました。一番上の姉が来て長男はお前だけど家を継いでいるのは智江(3番目の姉)なのだから我慢するのだよと言ってくれました。私は何も気にしていないので「分かってる」と言っときました。その後に 一番上の姉はパーキンソン病になり母の葬儀には来れませんでした。なぜか急に私が 挨拶することになり漁業組合長の叔父が心配してこういう風に話しなさいとアドバイスしてくれました。なんとか無事に終わり叔父も褒めてくれて安堵した記憶があります。家族葬と言っても2番目の姉と自分 他に母方の島にいる いとこ夫婦ともう一人のいとこと近所の人と姉の友達と寂しいものです。特に一番上の姉が来れないので3人の孫が誰も来ないせいもあります。母は6人兄弟の一番上ですが兄弟はほとんどなくなり組合長の叔父も2年ほど前に亡くなり1人残った母の妹も島にいなくなり誰もいない状態です。姉は遅れてやってきて服装も仕事着のままで 旅館が忙しいのかもしれないがもう少しましな格好で来てもらいたいと思ったものです。急なこととはいえ4日前から病院の方から何ども電話があり最悪の事態も考えられたのに何の手も打たないで普通どうりにお客を入れて営業し全て予約のお客なので断るのは難しく又他のホテル等にお客を頼むのも忙しい時期で大変かもしれないが母のために無理してでも多少お金がかかったとしてもそのぐらいのことをしてもバチは当たらないと思います。お客も事情を話せば分かってくれるはずですし他のホテル等の宿も協力してくれるはずです。何のために旅館をし母を死ぬまで働かせておいてその結果がこれですか?病室に夜遅くきて「母さんが死んだら旅館をしている意味がない」と言って泣いていたのは何なんですか?姉は1時間ほどで帰って行きました。質素なお通夜は無事終わり 2番目の姉と自分は線香とろうそくの火を絶やさないために葬儀場に泊まりました。次の日は告別式でまた姉は遅れてきて服装は喪服を着ていましたがなぜか長靴を履いていました。火葬場はすぐ近くで歩いて行ける場所にあり 何か不自然で違和感を覚えました。父の時は一番上の姉とその子供3人(孫)と姉2人と自分の他に母の兄弟の叔父、叔母がおり多数で骨ひろいをした記憶がありまた母も姉3人も泣いていたのを思い出します。私も泣いていたので兄弟からあんたも泣いていたねと言われました。私が父をを嫌っていたのでそう言ったのだと思います。私は母の姿を見てもらい泣きしたとと言っときました。事実そうなのですが姉たちは笑っていました。あんな毎日喧嘩している夫婦でもやはり泣くもんだと母の姿を見て思ったのも事実です。父を嫌う理由は性格(外面ががよく家では愚痴っぽい)もあるのですが本当の理由は他にありますがここでは記しません。母の骨拾いは兄弟3人といとこ2人と近所の人で誰も泣くこともなく変な表現ですが和気あいあいと行われました。太っているので骨が太いとか入れ歯なのね(母50歳ぐらいの時面倒なのでそういれば にしました)とか言って骨拾いは終わりました。母は結構多趣味で御詠歌、大正琴、カラオケなどしていて前日のお通夜の時御詠歌の仲間の人が個人を偲んで12人ほどで御詠歌を唱えた時は感動を覚えました。喪主としてお通夜と告別式2度簡単な挨拶をして家族葬は終わりました。10.に続く