5.4から5年の間は手伝いの人もいっぱいおり比較的楽でしたが母の妹など年齢的にやめたり若い人は結婚してやめたりまた始めは島外のアルバイトもいたのですがそれもいなくなり仕事は増える一方です。ツアー客が減少し個人客が増えたせいもあります。それは個人客は送り迎え、観光場所等への送り迎え、食事の料理への注文等手間がかかるものです。ツアー客は姉の友達のホテルからの分宿であり観光客の減少に伴い当然こちらへの分宿もなくなったためです。個人客は 3泊 とかひどい時は4連泊とかをする人もいて大変で特に食事の料理が大変で3から4の食事のパターンを作らなければならない日もあります。そのため 旅館というのに板前などいず母が全て料理を作っているため母の仕事は増えるばかりです。自分は特に辛かったのは布団敷きです。2人で敷いていたのが一人で敷くようになり体力的にも心臓にも歩く大変でした。というのは前にも書いた遺伝による体の欠陥によるもので東京で働いていた時から体調は優れない状態で2回ほど 救急車に乗ったことがあります。自暴自棄になり母に迷惑をかけたこともあり結局家に帰る結果となりました。帰って3から4年の51歳ぐらいの時に心房細動になり当時はまだ 珍しい カテーテルの手術を受けました。それ以来不整脈と高血圧に悩まされています。また朝の布団 あげも3人ぐらいでしてたのが1人であげるようになり小遣い程度の金は増えるどころか減る一方です。風呂掃除も一つが2つに増え朝は12時過ぎても終わらず母は手伝いに来てくれました。姉は知らんぷリで手伝いの人も早くに帰ってしまいます。それは時間給なので姉の指示なくてはしょうがないことですが 皆で何もせず無駄話をするぐらいなら手伝ってもらいたいと思います。思うに姉は経営者としても人間的にも旅館をするのは無理な話だったと思います。人使いもお金の計算もどんぶり勘定で能力にかけると思います。当然母の仕事は増え年を取り90近くにもなり姉のためと保証人の叔父に迷惑をかけないように家の中で杖をつきながら一生懸命働いていました。手伝いの人も 一人辞め 二人辞めて朝と昼と夜と3から4人で交代制だったのが朝から2人の手伝いが1日中働くようになりました。朝は1人は6時半にもう1人は7時に来るような感じです。しかし1人は漁師の奥さんのため朝はウニの旗が上がった時は来ないため部屋の掃除は2人でするようになります。姉は1階の台所廻りの掃除と人がいないため自分が客の送り迎えができないので姉が自分でしていました。遠くへの送り(近場の観光場所等)を頼む人もいましたが以前からしてきたので断われず文句を言いながら送っていました。どうしようもない時私に頼みに来ましたが自分が嫌な顔をすると怒るので忙しいのに極力送るようにしていました。母は90も過ぎ体も弱ってきました。特に足、腰の弱リで杖なしでは歩けない状態で外に出ることもなく月の1度の病院も自分が車で送っていたのですが 億劫がり3から4ヶ月に一度になり薬を自分が取りに行くようになりました。姉は[冬のソナタ]の韓国ドラマにはまり母もまたよく見ていたのですがそのパチンコが出ると最初は友達と言ってたようですが一人で行くようになり パチンコにはまっていきました。自分も東京にいる時よくしそのことで帰った時に姉に激しく責められたのにまさに[ミイラ 取りがミイラになる]とはこのことです。それは異常で6から9月の 観光時期はさすがに行きませんが冬の間はお客がいない日は朝から晩までしていることも珍しくありません。俗に言う[パチンコ依存症]だと思います。冬の間は民宿時代からのお客(仕事)と地元の某建設会社等 全て仕事の人です。それを全て母に任せて朝は食事の時間に起き夜の食事も母が作リ夜もまた食事の間だけお客の相手をし早く食事が終わると後片付けもせずにパチンコに行くこともあります。その後母が 後片付けをしていましたが足が悪いために自分を呼んで食堂から食器類を運ばせ洗い物をしていました。帰ってきた姉は後でやるからいいと文句を言っていましたがその後も母は続けて姉は何も言わなくなり 当然のようになっていきました。6.に続く