自分が正しいということを気づくまで色々なバイアスがかかるのだろう。
私は絶対的な正義はあると思う
しかし、その正義を信じる自分を信じることが出来て初めて正義と定義付けられるのだ、もちろん正義はぶつかるがそれは、正義が間違っているという事ではない。
まず初めに考えておかなければいけないことは、自分が思っている正しいことがバイアスがかかっているかどうかである。具体的な例はあげ尽くせないものがあるが、いくつか挙げるとするとこんなものがある。
可愛いは正義。これはまず根拠がない。そして可愛い人やかわいい動物や可愛いものが正しいのかと言うとそうではない。可愛い人でも性格が悪かったり、中身が可愛くても見た目はどうかといわれると、中身の可愛さと外見の可愛さは必ずしも一致しないし、可愛いと正義というものが密接な相関関係を持っているという根拠もなければ想像もしがたいだろう。ただそこにあるのは、自分が見ている絶対的な可愛さによるバイアスがかかっているのだろう。
また、挨拶は相手の目を見て大きな声でしなさい、そのあとお辞儀をしなさいというものが正しいと思っているとする。これは日本人の常識として子供の時に言われることもあるかもしれない。これが、外国だと、挨拶する時は両手を合わせるだとか、ほっぺにキスをするだとかハグをするだとか色々ある。これら全てを間違っているというのはできないだろう。それらがその国々の挨拶の常識であるのにも関わらず、こうした民族、宗教、文化、慣習、集団の中での常識だとかというもののバイアスがかかっている。
具体例はこのぐらいにしておくとして、後者の場合、グローバル化が叫ばれる現代ではこのようなことは否定しづらくなっている。そこでの解決手段としてはこのような試みが実際なされている。
1番オーソドックスなことは、その土地、その文化、その集団に合わせるということである。つまり郷に入っては郷に従えというやつである。しかしこれでは閉鎖的な解決手段である。グローバル化の時代とは広がりであって狭くすることではないからだ。
その次になされていることは決まりを決めることだ。大前提としてルールを守るという正しさがある。ルールがただしいかどうかは一旦置いておいてだが、衝突しそうな人々や文化や民族間で、予めもしくは、問題が起きてからの方がおおいのかもしれないが、そのどちらかでルールを決めてこれ以上ぶつからないようにする。そうすればお互いがルールを守る限りお互いが正しいということになる。
さて。ルール自体が正しいかどうかということを考えなければ、これらが全て崩れてしまう。これらはルールは正しいものという大前提の下での理論であるからだ。幸い日本や他の国々、世界には最高法規などよばれる憲法や、絶対的な社会的ルールが決められている。そこから分化した細かいルールなどは、その大元に照らして考えればよい。そうやってルールの正しさが認識できる。しかしこれも、憲法などの、高位のルールが絶対的に正しいという前提での話だ。もしその前提も疑わしいとしたらどうするか?
答えは簡単だ。変えればいいのだ。絶対的な正しさはあると前述したが、時代によって、世界情勢や政治や経済の状況によって変わっていくものもあるのだ、体罰が正当化されていたものが今では退職しなければいけないほどにガラッと変わるのだ。それを変えたのは人間だ。それがおかしいと道徳的、倫理的に考えた上でおかしい。だから変えようという意思を持って変えたのだ。そうやって正しさは定義づけられていく。
つまり私が言いたい絶対的な正しさとは道徳的倫理的社会的な正しさである。その正しさを持つには考え続けることが重要である。一つ一つの物事が複雑になっている現代だからこそ一つ一つ考え続け、正しさを繰り返し定義づけていくしかない。それを面倒だという人は多いが、それらのせいで、もっと面倒な問題が生まれてしまうのだ。思考停止が招くものはいついかなる時も、トラブルや問題の発生である。偶然なんていうものは最小限にとどめられるほど、人間は未来志向性に優れ、トラブルを起こさせないようにする力がある。その力となるものこそが正しいということだ。それは人を傷つけることもある、しかし、それを行使しなくても人が傷付く。だからこそ正しさという理由があって傷付くのと不条理に傷付くのは違う。自分が悪かったと反省できることもある。それを一人一人が認識していくことで、結果的に大多数の人が人への気遣いを、思いやりを得ていくことができる。それは個人的にも社会的にも良いことづくしではないだろうか?