文法訳読式の指導法を乗り越えるための一つの考え方(1) | writfren-edのブログ

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「文法訳読式は乗り越えられなければならない (2)」では、現状では多様な英語コースが提供されていながら、唯一絶対の教え方やコース・授業の構成方法がある訳でもない段階にある英語教育においては、G-T は否定や拒絶されるべきではないように思えるという話をしました。 むしろ、プランの中に上手く組込むことの方が現実的ではないかということです。 では、どうしたら良いのでしょうか。 無数の取組みが可能な現状では、過去に自分でやってみたことや知り得たことを考える切掛けとして提示してみる程度のことしか思い浮かびませんが、たたき台として幾つかの方法について考えてみたいと思います。 但し、こうした問題は、英語教育の目的に関して考える本人がどのような立ち位置にあるかによって微妙に変わってくる可能性がある為、本題に入る前に筆者の立場を明確にして置く必要があるかと思いますので、以下にその話から始めたいと思います。

 

英語教育の目的についてもう一度考えてみる必要はないか

現在、文部科学省が旗を振る公的な学校に於ける英語教育改革の方向は、英語というチャンネルによる communicative competence  (伝達能力)の開発にあると思えます。 ‘公的な中等教育の場では、それは無理だ’ というニュアンスでこれを否定する姿勢は今でもいたるところに存在します。 しかしながら、筆者には「文法訳読式は乗り越えられなければならない (1)」で触れた、日本教職員組合の「外国語教育の四目的」(2001)は、敢て順序を逆にして4・3項目目の ‘外国語を使う能力の基礎を養う’ と ‘外国語と日本語とを比較して、日本語への認識を深める’ を先に置き、伝達能力開発の方向を目指す方が良いように思えます。 学習の結果は後からついてくる性質で、テストするのが難しい1・2項目目の比重を小さくするということです。 そして現実的には、中学・高校ではほゞ linguistics competence に関わる知識・技術だけをテストしています。

 

文部科学省も英語教育改革概要の中で、後述する CEFR という考え方を持ち出しCEFR は国際的に用いられている英語の運用能力の基準であり、具体的に『英語を使って何が出来るか』を評価出来るため、英語を学ぶことではなく英語を使うことが目的の教育にとって、非常に重要な指標だ」 としています。 そして、CEFR-J などという提案も相まって、この考え方に基づく各中・高等学校の外国語教育における「CAN-DOリスト」の形での学習到達目標設定のための手引き も出しています。 この考え方が今後どのように発展して行くのかはよく見て置く必要があるのですが、後で述べるように、これまで不可能又は非常に困難とされていた communica-tive competence の明確な評価方法につながって行く可能性があります。 従って、‘外国語を使う能力の基礎を養う’ ことに重点を置いた授業やコース編成を行い、その過程で ‘外国語と日本語とを比較して、日本語への認識を深める’ という作業も兼ねるという方向性について考えてみる必要もあるように思えます。

 

上記のように「外国語教育の四目的」の順序変更をし、skill areas の養成に重点を置くと、捨てた訳でもないのに「教養主義を捨てるのか」という反論が来るのは承知しています。 そこで、‘敢て’ としているのですが、このような考えが浮かんで来る背景には、ここ20年程の間に社会の急速な変化の兆候を感じるようになったことがあるからです。 日常生活の中では、我々の周りを見渡してみると、複数の外国語が聞こえて来る状況が顕著になっています。 同時に、もう既に第二世代の外国人が相当数存在しています。 当然、あと 10年もすれば、第三世代が定着して行く可能性を含んでいます。 その場合話す言葉のアクセントは彼らの親世代のものではなく、完全に日本人母語話者と同じということになります。 もう一方で、現在では外国人をパートナーにしている若い男女は以前よりズット多く存在しますし、外国で仕事をする料理人や美容師のように特定の職業では、既に一種の‘出稼ぎ’のような事態も起こり始めています。 これに対して、‘国際化’・‘多様性’ などという耳障りの良い言葉ばかりが聞こえ、将来の事を熟考しているとも思えない政府の外国人労働力の導入や難民政策の方針があることは気がかりです。 そして、そうした状況に対応する為の日本語を含む総合的な言語政策のようなものもはっきり見えないことは、もっと気がかりと言わなければなりません。 経済停滞の固定化傾向も手伝い、何かあれば社会の下層部分に追いやられる可能性の強い外国人労働者の存在が、ヨーロッパに於けるテロのような事態に繋がる可能性を内包する cultural gap を創り出すのではないか。 その種が既に撒かれ始めているのではないかという危惧もあるからです。 今後急激な人口減少が想定される日本では、このような状況がこのまま進展して行けば、将来、多民族社会のような事態が恒常化する地域が多数発生することは目に見えていると云えるでしょう(既に東京周辺には比較的規模は小さいが幾つか存在する)。

 

そして、こうしたことが大規模に起こっているEUでは、既に多言語社会に対応するべく、国民国家の枠組みの中に納まる ‘「母語」+「公用語」、「国語」+「外国語」’ という考え方を変え、少数民族の存在を背景に持つ‘複言語主義’を奉じて‘母語+英語+もう一つの言語’を身に付けることを奨励する方向に言語政策を推進し始めています (c.f. 福田誠治: CEFRって何だ, 2021, 東信堂)。 その政策の中で取り上げられている考え方の一つが CEFR で、複言語主義下の言語使用能力をより良く発達させる為の学習課題の明確化を目指す上で使える尺度を提示しています。 そして、これは既に述べたように communicative competence の評価方法にもつながる可能性を持つものです。

 

尤も、既述の文科省の考え方や提案が、最終的に上に述べた本来の ‘複言語主義’ と ‘単一言語主義と思える日本語の現状’ との関りがどうなるのかを含めた総合的な言語政策に基づいて行われているのかどうかは余りはっきりしていません。 従って、英語教育の領域のみに限定されない、総合的な言語政策がどこかで作られなければならないという留保条件は残して置く必要があるとは思われます。

 

新しい communicative competence の考え方-

21世紀に入ると communicative competence について、従来のような ‘linguistic, socio-linguistic, discourse, strategic competence の4つの能力を並列的に並べ、統合されたもの’という考え方に対する新しい発想が出てきます (c.f. J. Flowerdew: Discourse in English language education, 2013, Routledge)。 この新しいモデルは従来の4つの能力の中身が再検討され、以下の 5つの competence の組み合わせとなっています:

 

     Socio-cultural competence:

     話し手の pragmatic な(= 語用論の)知識、言わば自分の伝えるべきメッセージに

     関する場面による適切さ(形式・丁寧さ)の知識・技術 (speech acts);社会環境

     の要素 (age, status, sex, etc); 及び、文化的な要素 (background knowledge of

   target group);

 

     Linguistic competence:

     語彙・形態素運用・統語論・意味論・音韻論上の知識・技術を組み合わせ、伝える

     べき意味を含む言葉を作り出す能力;

 

     Formulaic competence:

     Linguistic competence のようにそれを構成する各項目が有機的に機能して意味を

     創り出すような形ではなく、丸覚えして使う、固定化された、プレハブの部品的な

     chunkを上手く使って伝達の目的で役立てる能力。 以下のような言葉で表されるこ

     とが多い: prefabricated routines, routine formulae, stock utterances, lexical

      phrase、制度化された発話、分析されていないチャンク

 

     Interactional competence:

     上記の speech acts を実行する actional competence と会話の参加者間で話す順番

     を決める turn-taking system の運用を行う conversational competence がある;

 

     Discourse competence:

     従来の ‘統一性のあるテキストに到達する目的で言語の要素を組み合わせる為の知

     識・技術’ を深化させ、‘統一した話し言葉のメッセージに到達する目的で、語

     彙・文構造・発話の配列や調整を担う、中心的な管理の役割’ を負うという意味と

     なる。 また、この能力が、テキストの統一性を創り出す上で socio-cultural,

     linguistic, formulaic, interactional competence が一体化する場所ということにな

     る:

 

     Strategic competence:

     従来の‘伝達の不備が生じた際の補償の為の方策と言語学習の質を高めるような方

     策’という意味に加え、discourse competence の周りに位置づけられ、socio-

     cultural, linguistic, formulaic, interactional competence を有機的につなぎ合わせ

     る役割を持つ。 これらの competence の中で起こる ‘あいまいさ・欠陥の解決’ の

     可能性を探る役割を、strategy が担う。

 

 

Flowerdew (2013): Discourse in English language education より

 

 

     この新しい考え方はダイナミックに変化する要素を含んでいます。まず、上の図のように

     discourse competence が中心に位置し、その上下左右に socio-cultural, linguistic, 

     formulaic, interactional competence が置かれます。Discourse competence は、伝達に

     使えるような形で準備された他の competence の情報を取り出し、目先の伝達の成功に必

     要な言葉と更に続けて言葉を使う為の次の新しい状況 (context) を創り出すという役割を担

     います。当然、伝達の不十分が生じますので、それを補償したり、より competence を強

     化する為の工夫をしたりする役割を持つのが strategic competence ということになりま

     す。言い換えれば、discourse competence と strategic competence が二人三脚で他の知

     識・技術を駆使して伝達の成功のために言語 (目に見える形で現れるのは主に linguistic, 

     formulaic competence の部分) を使いながら修正・強化し、自らも強化されて行く、こ

     の ‘言語活動’ そのものが言語習得・言語学習と呼ばれるものの正体のように思えます。

 

     このようなことから言葉は伝達の目的で使うことを中心に置いて使い続けることによって

     component skills (語彙・文法・音韻・談話) と performance skills (四技能) の両方を発

     達・強化させて行くということが言えそうです。 そして、このプロセスの中で重要な役割を

     果たす discourse, strategic competence は母語習得の段階で既に開発済みと思えます。 

     ‘習得済みなら後は新しい言葉の習得に応用するだけ’ とも云えるでしょう。

 

英語コースにおける文法訳読式の採用VS個別授業における採用

ここからは、上記のような言語習得に関する考え方のあることを踏まえ、G-T の方法論に根ざした学習方法を tool として意図的に入れ込むことを考えてみたいと思います。 この領域では分析や記述の方法論が確立している訳でもありませんので、学習の伸張に大きく係わる discourse, strategic competence の運用・強化の問題も念頭に置きながら、当面のこととして、以下のような二つの観点、

 

     1⃣⃣ ‘コース全体又はその運営の中でどうG-Tを活かすか’;

     2⃣ ‘個々の授業の中でどう活かすのか’

 

から考えてみたいと思います。

 

1 コース全体又はその運営の中でどう G-T を活かすか:

第一の方法として、コースの中心的な方法論として G-T を位置付ける方法」があり

     ます。 この方法は、「文法訳読式は乗り越えられなければならない (2)」の最後に取り

    上げたもので、ある限定された学習者を対象とする tailor-made のコース編成を行う

    ことになります。 当然教師が教えるべき学習者の学習目的・要求に見合う高度に洗練

    された表現スタイルと内容を持つ文章を素材として選択し、そこで使われる語彙項目

    と文法項目を整理します。 そして、文法項目に関しては、形式上の ‘単純/複雑’ の

    基準に従って、いわゆる structural syllabus を作り出すことになります。 以後は、既

    述の阿部謹也 (1998)の記述(「文法訳読式は乗り越えられなければならない (2)」参

  照) に見られるような授業の要求を満たすべく、語彙項目の語形変化や文構造に関わ

    る練習問題を多数開発し、syllabus に組み込むということになる訳です。 譬え、現在

    の英語教育の流れの中で、本来の G-T には無かった筈の録音教材も併用して守備範囲

    を広げるような授業であったとしても、その作業は典型的な ‘翻訳’ と ‘文法ルールの

    焦点化’、‘正誤を問う練習問題’ という性質を持ったものが主流というのがその鉄則

    でしょう。

 

    このタイプの取組みでは、翻訳作業の際に discourse competence に関わる領域にどれ

    だけ踏み込めるかは、学習者の到達レベルと授業の中身に寄ります。 しかし、基本的

    にはルールに関する演繹的説明と質疑応答になる可能性が大きいでしょう。 Strategic

    competence に関わっては、伝達作業が無いのでその不備を補填する communication

    strategy に関する指導や作業は無い。 学習方法に関わる learning strategy は、学習計

    画に関わる metacognitive strategy 関連の議論以外は、本質的には棒暗記以外の方法

    論は無いということになると思えます。

 

    現在では、公的な学校の場合、教師にこのようなフリー・ハンドが与えられることは、長期

    休暇期間に行う英語の補習・強化授業のような取り組み以外殆どあり得ません。 しかし、こ

    の方法が許される場合、教師は syllabus design を含め、全てを背負ってコースを成功させ

    る努力をすることが求められます。 従って、本質的には余り緻密ではない G-T の教育活動の

    組み立ての中で、以後に生かせる何か、言い換えれば discourse, strategic competence の

    運用・強化に資する何かを発見し得る貴重な機会ということになる可能性も含んでいると思

    えます。

 

第二の方法の一例としては、(授業時間外に)自然に暗記するまで続ける音読の取り

    組み」の為のテキストとして使用する方法があります。 これは使用する英語コースの

    教科書中にある additional/fast reading 教材の様な長文教材を使うもので、正確な内

  容理解を前提とするものです。 殆ど全ての中等学校では検定教科書という実質的に

    ‘syllabus と教材を兼ねた素材' が使用されますから(中学では教育委員会が選択した

    ものが強制される)、教師はそれを基に自分達自身の学校のコースと授業を組み立てざ

    るを得ません。 この現実を踏まえた取り組みということになります。

 

    音読練習に additional/fast reading 教材を使おうとする意図の一つ目としては、各レッスン

    のメイン・ストリーム教材は余り音読に適さないことがあります。 概ね三つ程度のパートに

    分けられ、短か過ぎるもの、dialog のみのもの等がありますし、末尾の付属の練習問題にも

     取り組まざるを得ません。 その練習問題もすべてに取り組めば様々な教授法に基づくものが

     入り交じったものの使用を強いられる状況になります。 二つ目には、現実の授業運営が孕む

     問題があります。 目先の授業への対応という形で、先ず作業の軽重による教科書の練習の取

   捨選択・追加が起こり得ます。 加えて、教科書の構成や提示の仕方によって授業の手順があ

     る程度制約され、その結果、実際の授業のタイム・プレッシャーの中で、無意識的であった

     としても、‘食いつなぎとやりっ放し’ に陥る場合も多いという現実もあります。 そうした中

     では、学習者が一貫して、長期に亙る継続的な英語学習を維持する為の手段として使い得る

     方法も必要と考えるからです。

 

    三つ目には、学習者の置かれている学習環境に於ける意図的な音読練習導入の必要を認める

    ということがあります。 日本の一般的中・高生の大半は、教室の直ぐ外に英語使用を要求さ

    れる第二言語習得の状況下にはありません。 そこは、言語習得の失敗が精神的にも、物理的

    にも学習者を追い詰める可能性を色濃く持つ厳しい世界です。 しかし、日本人学習者の場

    合、むしろ、そうしたプレッシャーの殆ど無い外国語としての英語学習の環境にあります。

    当然、自身を取り巻く言葉の環境に同化しようとする、所謂 integrative motivation の非常

    に弱い環境です。 こうした状況下で学習している場合、学習している言葉の安定化に音読が

    役立つことが経験的にも分かっているからこそ、多くの英語教師が音読の取組みを勧めてい

    ると云えます。 そして、その場合、同時通訳者の国広正雄 (国広流英語の話し方, たちばな出

    版, 1999) が指摘しているように、テキストを徹底的に研究し、その内容を正確につかんだ

    上で音読への取組みを行う必要があります。 勿論、音読の意義を認める訳ですから、一連の

    取組の中でメイン・ストリーム教材の一部の音読利用も、生徒の作業の継続が強化される限

  りにおいて否定はしません。

 

    この方法の具体的な取組みの中心としては、国広が指摘するような正確な内容理解に達する

    為の翻訳や語法の分析の作業があるでしょう。しかし、私見では、直ぐにG-Tの翻訳作業や文

    法分析に入る前に、通常の reading の授業で使われる、所謂 ‘Pre-, in-, post- for 

    receptive skills’  (T. Woodward, Planning lessons and courses , 2001) という伝統的な

    授業方法を使った作業も行うべきと考えています。日常生活で要求される reading skills 

    は、黙読で、比較的短時間に文章を読んで情報を取ることを目的としているからです。従っ

    て、reading strategy の訓練のような、‘言葉の習得は後からついてくる’ という主張とも思

    われるような手法が reading skills の習得の為の取組の主流にあると云えます。現実に幾つ

    かの英語科教育法のテキストに掲載されている lesson plan の reading を扱っているもの

    は、概ねこの流れの中にあるような構成になっていると思えます。そして、音読の取組み

    は、ここで必要な ‘黙読技術’ の開発を主眼とした reading 能力の開発を下支えする為の補助

    的なものという位置づけになります。

 

    このことから、この第二の取組みの場合の音読作業では、「音読から自然に黙読へ」という

    到達目標を明快にした上で、既に別の方法で読んだ文章を G-T 手法によるテキストの内容理

    解と文法項目等の検討を行い、可能であればリズムとイントネーションを付けたテキストに

    仕上げたいということになります。Prosody の分野を扱うと必然的に談話の領域にまで踏み

    込むことになるからです。その上で、各自授業時間外の取組みを、継続的に、出来れば通年

    で行いたいということになります。

 

    この方法では、学習者のレベルが中級程度であれば、翻訳作業の際に discourse compe-

    tence に関わる領域に相当程度踏み込める可能性があります。 又、自分の教えるコース独自

    の pronunciation syllabus を書いて年間計画の中に埋め込むことも出来、文強勢、イントネ

    ーション、機能語の強形・弱形等との関りで、複数の文のつながり方等の指導が可能です。

    そして、この場合もG-Tの枠組みの中では、基本的にはルールに関する演繹的説明と質疑応答

    になるでしょう。 Strategic competence に関わっては、伝達作業が無いので、当然その不

    備をカバーする communication strategy に関する指導や作業は無いのですが、イントネー

    ションの指導ではこの領域に入り込む可能性があります。 そして、学習方法に関わる

    learning strategy は、学習計画に関わる metacognitive strategy に関する議論以外は、本

    質的には棒暗記となる可能性が強いと云えます。

 

    但し、この ② 第二の方法には問題もあります。 それは、検定教科書の全ての文章は語彙・

    文法項目とも何らかの形でコントロールされ、特に初級レベルでは語彙と文法項目をレベル

    に合わせて極力絞った finely-tuned input の可能性が強いことに起因します。 G-T の特徴で

    ある ‘翻訳’ という作業の中で意味理解の為の細部に亘る検討を可能とさせ得る材料は ‘高度に

    洗練された文章’ です。 この談話 (discourse) の領域にまで踏み込んだ取組み (「文法訳読式

    は乗り越えられなければならない (2)」参照) の可能性を広げるという観点では、書き換えら

    れたテキスト中で使われる文体上のテクニックのバラエティ-は少なく、検討を通じた学習

    量も少なくなるのではないかという危惧もあるからです。

 

今回は、1⃣ の course syllabus の中にどう G-T の方法論を生かすかという観点で少し考えてみました。 ざっと見て、第二の方法論では、音読に限らず listening や vocabulary building の領域でも工夫が可能であるように思えます。 そして、この方法論の検討を行う場合、散発的な取組みになる可能性が薄くなり、G-T 手法の長所が何かについてじっくり考え、短所となる部分をカバーする要素を syllabus の別の部分に入れ込むなど、総合的なものとなる可能性も含まれているように思えます。

 

次回は、2⃣ の ‘個々の授業の中でどう活かすのか’ という観点からの検討をしてみたいと思います。