文法訳読式の指導方法は乗り越えられなければならない (1) | writfren-edのブログ

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最近、もっと楽しい英語の授業をしてみたいと思っているのにテストの結果に直ぐに反映するからという現実に押され、文法訳読式 (以下G-T)を採ってしまっていることをボヤいている若い先生の投稿を目にしました。40年も前に、色々な素人芸のような取り組みを試した挙句に、部活顧問を始めとする雑務に紛れ、G-Tに戻ってしまった自分が感じていたと同じことを今考えている先生が依然として存在することに驚きました。そして、この問題の根深さを再認識したところです。

 

筆者が教師になった当時は1974年の「平泉-渡部 英語教育大論争」の数年後、4技能(聞く・読む・話す・書く;skill area)の指導の強化の方向に指導要領がシフトしていた時代 (Communicativeの方法論が脚光を浴びる寸前) だったので、G-Tは否定されないまでも、批判に晒されていました。しかし、対話練習や語彙学習ゲームを試しても直ぐに飽きてしまう生徒を前に色々実験している内に時間が無くなり、進度表に合わせるためにG-Tで時間短縮して帳尻を合わせるという状況の繰り返しです。これは1学期なり、1年なりの授業の流れを見た場合、指導目的実現の為の手立てのはっきり見えない、統一性のないものになってしまうことになります。先の先生の悩みは、恐らく同じようなものなのでしょう。

 

こんなことで、私はG-Tに頼らない自分の授業を創り出そうとする姿勢に転換するだけでも10年程かかりました。そこで、かつて調べたり、考えたりしたことをまとめてみようと思います。

 

文法訳読式のことを良く知っているのか?

最初に頭に浮かんだことは、大学の教授法の授業(4単位)で要約程度のことしか習わなかったいくつかの教授法のひとつであるこの方法論について「英語を読んで日本語に訳す作業を中心に置く方法」という以上の詳しいことを知らないということです。従って、まずキチンとした自分の考え方を持つために、いくつか教授法関連の本を読んでみると、いわゆるG-Tと呼ばれる教授法は次のようなものであることが分かってきました。

 

第一に言葉に関する理解の理屈ないし哲学があります。それは、「言語は語彙(慣用表現を含む)と文法規則の集積で、そうした要素で出来上がった表現の意味は普遍的なものであるが故に、同じ事柄を表す二言語の表現の意味範囲は同じであり、置き換え可能」という考え方です。ギリシャ・ラテン語のような現在では使い手の居ない死語を学ぶ際に伝統的に行われてきたことを考えると、こういう考え方に立脚しないと方法論としては成立しないのでしょう。そして、意味の普遍性は最も質の高い言語表現の中に現れ、その具体例は文学作品ということになります。

 

第二には、G-Tも教育方法ですから教育の目的が必要です。それは「文学研究の為の言語的基礎を与え、知的訓練の場を提供する」というものです。当然、このような教育目的を基に、具体的に 1) カリキュラムを作り、2) 学習活動を決め、3) 教育活動に関わる生徒・教師・教材の果たすべき役割等について、意図的に、或いは無意識的に、決めて置く又は決まっている必要もあります。そして、それは以下のようなものです:

   

  1)    コースのsyllabusははっきりと記述されたものは無く、通常教科書の形で現れる。各

    lessonでは文法規則を提示し、その項目を含む文章を読む。文法規則提示の順序は、言

    葉の形式上の“単純”から“複雑”に向かう(e.g. 現在形>過去形>進行形>完了形; 実際  

    には、現在形>進行形>完了形>過去形のようになる可能性も大きい。完了形は意味上

    過去に分類され、子どもは習得初期に進行形と完了形を現在と過去の意味で使う傾向が

    強いからである)。

  2)    二言語対照表の形で語彙リストを学ぶ;文法規則を教える;短い文章(単文の羅列も  

    あり得る)の目標言語から第一言語への翻訳或いはその逆;文法規則を使う文型練習

    (単文の羅列の傾向が強い)をし、練習問題は正誤を問う性質のものとなる。

  3)    教師の役割は知識を与える権威者であり、間違いを直す立場にある;生徒は単なる知

            識の受け手の立場に置かれる。教材中心主義であり、その言語コースの中心に置かれ

           る。

  4)その他の特徴として、

     

      - 言葉そのものの知識のみが非常に多く教えられ、言葉の使い方が教

       えられることは殆どない

      - 対照関係にある語や句は意味範囲が違うので、情報量は落ち、正確に

       に対象関係にある訳ではない

      - 場面情報 (context) から切り離されて読まれるテキストの文章の場合、

                   言語材料のみに限られた‘文脈 (co-text)’情報しかない為、読み手が不明

       の部分を予測する能力を発揮する時の制約となる (>理解を歪める可能性

                   を含む)。

   

小学生の頃誰かに「算数と理科が好きな子どもは中学校に入ってから英語も出来るようになる」と言われたのを覚えていますが、当時も世の中では、英語は頭を使う事柄を扱い、知的訓練につながるような勉強と見なされていたのでしょう。上記のようなG-Tに関する記述をみれば、‘英語の成績が良い>勉強が出来る>高校・大学入試に受かる’ というような図式が結構広範な社会層で一般的に受け入れられるようなっていたような気がします。そして、このことは、最近ある本で目にした以下のような記述を見て、ある意味で確信につながったとも言えます。

 

 (現在のように義務教育で英語が必修科目になって行く要因の一つとして)『「戦前から流通していた文化教養説の利用による、非スキル面育成の意義」が挙げられています。つまり、英語が国民全員に必要でないにもかかわらず全員が学ぶ目的を正当化するために持ち出されたのが、スキル以外の目的、つまり教養に関わる概念だったのです。

 これが明確に表れているのが1962年に日本教職員組合から出された,「外国語教育の四目的」です。―中略― 2001年に改訂されたものが次の通りです。

 

            1.  外国語の学習をとおして、世界平和、民族共生、民主主義、人権擁護、環境保護の 

       ために、世界のひとびとの理解、交流、連帯を進める。

            2.  労働と生活を基礎として、外国語の学習で養うことができる思考や感性を育てる。

    3. 外国語と日本語とを比較して、日本語への認識を深める。

    4. 以上をふまえながら、外国語を使う能力の基礎を養う。

 

 外国語(英語)を通して広くグローバルな倫理観を養うこと、ならびに国際理解と交流が最初にかかげられています。さらに、思考・感性・日本語への認識もあげられ、最後に、四つ目に外国語を使う能力の基礎を養うことが他の三目的をベースに達成されるとしています。

久保田竜子著 (2018) 英語教育幻想 pp. 215-216 ちくま文庫

 

上記4つの目的の1~2はコース編成・授業構成の為の目標・目的という観点から見れば、点検のできない goal、言い換えれば “絵に描いた餅” のようなものです。そして、3も曖昧で、真似事のようなレベルに甘んじることなく、まともに取り組めば、日英比較言語学のような内容に入り込んで行きそうな大きな目標です。そして、'中学・高校・大学と10年学んでも英語が話せるようにならない’ という声が大きくなったことに押されたからでしょう、これらのテスト出来ない目的達成の為の教育活動の結果をベースにして、言葉の運用スキルの基礎が養われる(目的4)という、本質的にはG-Tではカバーできない領域にも大きく重点が掛ることになります。具体的な授業計画では目に見える目標(objectives)を作ることになりますから、教室で行われる作業は言葉の形式を学ぶことに終始するような方向に追い込まれるという事態になります。

 

昔から目標部分がある程度 fuzzy な書き方の文部省指導要領を元に、編集者が選んだトピックの英文文章に語彙と文法に相当な重点を置いた作業を伴うような傾向を持つ検定教科書を使って、教育労働者の組合までもが一緒になって上記の様な4つの目標を掲げて取組んだ英語教育の結果が、5段階評価され、生徒と保護者に示されたということです。その結果、G-T的作業を中心に置いた指導法に若干の変更を加えるという授業形態が生き延び、現在というより、これまでズット英語を入試の一中心科目に置いて来た理由のひとつなのでしょう。言語形式と単なる理解の度合いを正誤問題として出題する大学入試の出題傾向とも一致し、当然、受験結果にも概ね反映される仕組みが確立したからだと思います。

 

このように、日本の英語教師の殆どが何となく理解し、譬え無意識であったとしても無理に全生徒に教えるための能率のよい指導方法として受け入れ、日本全国に定着していたG-Tベースの方法論の分厚い土壌の上に、1980年代に、異例の ‘コミュニケーション’ というカタカナ語が文科省指導要領に現れたことは、異常と云える程に大きなシステムの変更だったのでしょう。この頃が、目的4のような ’取って付け’ の四技能というskill area重視の方針の流れの中に迷っていた筆者にとっては、communicativeの方法論を学ぶという形で、徐々に、しかし、自然に、G-Tの発想に依存する授業から脱却する姿勢に変わり始めた時期のように思われます。

 

次回は、G-Tの評価(問題点等)の話から始めたいと思います。