長い間ブログをそのまま放置していた私…。去年1年で読んだ本はたくさんあったけど、気分が落ち込んで、落ち込んで。パソコンに向かうこと、友達と連絡を取ることすらも億劫に。ただ苦しい時間が無駄に過ぎていく。さらに落ち込むことは自分が引き起こしていて、無駄だってこともわかっているのに、悲劇のヒロインみたいに何も打開しようとしない自分にまた腹が立つ。

でも、今年に入ってやっと、少し前をまた向けてきたかなと思う。

ミスチルの『Tomorrow Never Knows』や『終わりなき旅』を聞いて自分を鼓舞したり、他にもたくさん懐メロを聞いたけど、ふと目に着いた中島みゆきさんの歌を聞いて、年甲斐になく、涙がたくさん出ました。

今の私の居場所や、私の人となり、状況に対して、大げさだけれど生きることに対しても「そうなんだ」と素直に思えたこの曲。この曲と出会えてよかった。

昔からよく好きで聞いていた中島みゆきさんだけど、こうして、今も第一線で素晴らしい曲を世に送り出し続けている彼女は本当に素晴らしいシンガーソングライターだと思う。今、この時を生きていられて、本当によかった。





歌詞はこちらのサイトで参照できます。
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イギリスのテレビ番組はドキュメンタリーが非常に話題性があるものが多い。
以前はBBCの歴史もののドキュメンタリを見ていたこともあったが、最近はChannel4(名の通り、4チャンネルである)ばかりを見ている。


この秋から始まっていたシリーズ『Educating Yorkshire』(直訳:“ヨークシャーを教育する”)は気になっていたもののひとつ。というのも、イングランドでも北に暮らしたことがある人はわかるだろうが、サッチャー政権で大きく変化した炭鉱産業や、工業の斜陽化で、南イングランドと比べると、どうしても荒んだエリアの規模が違うと思う。

だからこそ…そのエリアに集まる子供たちは、家の苦労や環境に対する悲観またはあきらめが見てとれる雰囲気があるのだが、〝Thornhill Community Academy″(西ヨークシャー)のジョニー・ミッチェル校長と、彼の率いる教師たちは、生徒の将来のために日々奮闘するのである。

しかし、奮闘と言っても、やはりイギリスだからか、金八先生とアプローチが若干違う。この学校はSecondary school(日本だと中学生くらい。11歳から16歳までが所属)。難しい年齢の子供たちだが、16歳で卒業を迎える前に「大人」として、卒業させるべく、勉学だけでなく、振る舞い、生き方も伝えていく。

このミッチェル校長のすばらしいところは「この学校に来たからこそ、卒業までには胸を張って社会に出て欲しい。それができないのであれば、我々の責任だ」と言い切ってしまうところだ。イギリスでは(特に貧困のある地域か?)やはり階級社会の名残は否めず、生まれた環境がものを言うことが多い。しかしミッチェル校長はそれを理解した上で、生徒一人ひとりに「変わる」チャンスがあることを伝えることから始める。始めはあきらめていた子供たちが、たかが『GCSE』(カレッジなどに行くときに求められたり、求職しても聞かれることもあったりする「共通試験」)ではなく、それらの結果を真摯に受け止めるべく、努力をし、変わっていく様子がすばらしい。

イギリスの教育制度は複雑だ。地方当局(Local Authority)から維持費をもらっているmaintained school(いわゆる公立)があれば、左記と違い学習指導要領には準拠しなくてもよいが、政府(教育省、つまり公的資金)で成り立つAcademyがその数を増やしている。他にも、free schoolやらindependent schoolやら…とにかく詳細があいまいなほど、その種類は多岐にわかれており、特にお金の出所が違うため、学校によっては「超スペシャリスト」をお金を出せば雇えたり、好きな科目(例えばITでも一流のプログラムまで)を設定できるところが出てくるため「貧困層と富裕層の教育の差を増幅させているだけ」と言われ、かなり議論になっている。

もちろん…校長になりたい人が常に「大志」や「使命感」を抱いているわけではないようで、どこかの新聞では『お金持ちエリアの校長にでもなって、楽したい』と言う人もいると読んだ。

しかし、このミッチェル校長は違う!「使命感」と「大志」からでしか成り立っていないような、そんな人で、さらに常駐の教師陣たちもすばらしい!
もちろん、映っていないところでは色々なことがあるに違いないが、生徒を一人の人間として、真摯に向き合っていくその姿勢には感動し、ついつい泣いてしまうほど。

最終回は「吃音」のある生徒、ミシュラフ君の英語(話す)試験のために尽力する英語教師バートン先生の回だったのだが、吃音のせいでひどいことを言われていた彼が卒業スピーチの場を与えられる。子供一人の人生は、教師でこうも変わってしまうのだと思うと、やはり親としては、少しでも子供にとってよい学校を…と思ってしまうのも無理ない(が、果たしてよい学校というのが、勉学の面だけでよいかは別である。ただ、イギリスだと上流が集まる学校は、基本的に振る舞いも〝エリート"である可能性は限りなく高いが…)


日本では教師は仕事の多さや責任のため「ストレス」を抱え、燃え尽きてしまう人も多々いると聞くが、イギリスでも最近は似たような話を聞く。数学教師の先生の回だったが、朝ひとり、デスクでうつむいて泣いているシーンが出たときは、思わずもらい涙だ。


残念なことに日本語ではなく英語(それにヨークシャー地方の言葉は非常に聞き取り難)。
でも、イギリスの学校教育に興味のある人、日本で教師を務めている人、子供が多感な時期のご両親、そして10代の学生さんたち皆に見てもらいたい作品である。


錦繍 (新潮文庫)/宮本 輝

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久しぶりの日記風(書簡体)の作品を読んだ。谷崎潤一郎の『鍵』が衝撃的すぎて、他の書簡体は影をひそめてしまうようだったが、こちらは『鍵』と違い、まったくさわやかな作品で印象にも残るものだった。

『前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした』(『錦繍』新潮出版5頁)

この美しい1行からはじまり、あっという間に引き込まれる。


とある事件がきっかけとなり離婚した2人は別々の道を歩んでいた。その2人がある日運命的に再会する。

こう書いてしまえば、よくありそうな物語なのだが、何が物語をリアルにできるかと言えばやはり手紙だ。

亜紀は離婚後、縁があった男性と再婚。1男をもうけるが障害児であり、その子と楽しいときを持つべく向かったのが蔵王であった。偶然再会した元夫靖明の変わり果てた様子に、いてもたってもいられず、住所を探し当て、そうして2人の書簡のやり取りが始まるのである。

はじめは返事を書かないと書いた靖明も、亜紀の手紙に返答をはじめ、今まで語られなかった「事件」と「その後」が全貌を表していく。

2人の離婚後の心は会うことなく、書簡によって慰められ、理解し合っていく様がまさにタイトル『錦繍』である。手紙のやりとり、言葉をつむいでいくことの大切さが、そして言葉そのものの大切さが身に染み入る作品である。

宮本輝の作品は初めてだったけれど、英語だとどうなっているのだろう…。他の作品もぜひ手にとってみたい。
 霧の子午線 (中公文庫)/高樹 のぶ子

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偶然に手にすることができた、またも高樹のぶ子の著書。

私はあいにく「学生運動」の時代後に生まれたので、当時の様子はYoutubeで見たことでしか(「全共闘」の三島由紀夫演説だけ)ないのだが、これを読んで、全盛期に参加していた学生、彼らが運動後にどのように次の人生へシフトしていったのかが垣間見れた気がする。

希代子と八重の2人の女大生は学生運動を通して知り合い、無二の親友になる。しかし2人は同じ男を愛し、肉体関係を持つ。1人は身ごもったが、男には知らせず堕胎しようと思う。が、親友はその子を「産んでくれ」と言う。
1人の男を愛しながら、2人が愛したのは結局はお互いなのだと思うが、このなんとも曖昧な感情をこの作品はかなり鮮明に「文字」として表現していると思う。感情を書き言葉で表現するとき、この著者ほど(特に女性の)心の動きが文字として伝えられる人は少ない気が。起こっている事実を緻密表現する作家(桐野夏生の作品とか)さんは多いけど…。

この2人のほかに、希代子の息子、希代子の妹と義理の弟、そして息子の父である新一郎が登場するが、各々の心理が語られてないのに、なぜか読んだような気になるのは、希代子と八重の2人の心的描写(会話中心であっても)の軸がしっかりしているからなのだろうと推測する。

働くシングルマザーの希代子は今の時代にいてもおかしくないかもしれない。彼女の性格として「働く」のは決して妥協ではないのだが、それを取り巻く周りの環境の理解が必要なのは必須だ。

また希代子の息子、多感な時期の光夫が未だ会わざる父を求めて抱く感情の起伏もよく伝わってくる。


友人、姉妹、妹夫婦の関係や息子・叔父…人の生活で避けられない「人」との関係だが、どの年代の人が、性別関係なく読んでもきっと共感できる部分がある作品であると思う。

下は三島由紀夫の『全共闘』での演説風景。何度見ても理解難…
光抱く友よ (新潮文庫)/新潮社

¥420
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あまり表紙に絵があるのは好きではない…




芥川賞を受賞したこちらの作品。発表された当時(1984年)作者は38歳。
内容は2人の少女の間に起こる物語だが、すべて相馬涼子の目を通して語られる。
高校、17歳の涼子は父は大学で教鞭をとり、母は主婦の普通の少女。しかし同じクラスで早熟な雰囲気を漂わせる「不良」少女の松尾勝美との出会いで、心を揺さぶられる。

勝美の母はアルコール中毒であり、父は不在。自分とは対照的な少女に出会うことで、涼子は「暗闇」を見る。その暗闇で母を支え、生きる勝美の姿は時に弱よわしく、時に強く、そして美しく涼子を魅了しているように思う。

少女の友情は最後は、チクリと心を指すよな別れを迎えるのだが、こんな風景は今でもきっとあると私は思う。

舞台は明らかに著者の故郷で、知る人は作中のK山もわかる。都会から離れた地。日本のほとんどはそうなはずなのだが、非日常的に見えるブラウン管の東京は毎日テレビで見られるが、そこかしこにある日本は映らない。でも、きっとこの小説にある「心がチクリとする生活」が繰り広げられている。

この1篇のほかに母と思春期に入る娘との間の難しい距離感が描かれている『揺れる髪』や、『春まだ浅く』では、あるカップルの「性」の葛藤を描きつつ、女友達との友情を繊細な心の表情と動きが表されている。

高樹のぶ子は「性」についてもよく書くが、その中心は「女の友情」であることが多いようだ(少なくともこの1冊では)。
マイマイ新子』とまた違った文体印象があり、とても“純文学的”な気がする。(が、解説ではどなたかが「西欧的」と書評していたのであてにならない私の意見である)

これをそれこそ、17歳や10代で読んでいたらどう感じただろう。知る由もないのだが、ぜひ中学生や高校生の人に手にとって欲しいと思う。